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第25話 現地集合、現地解散

正月三が日が終わって、最初の日曜。

商店街を抜けて、いつものそば屋の引き戸を開ける。


「あけましておめでとうございます。きょうからまたお願いします」


そう声をかけて中に入った瞬間、カウンターの内側から、聞き慣れない声がした。


「あ、あなたが山本くんね?」


「え?」


いつもなら、おかみさんのいるはずの場所に、見知らぬ女の子が立っていた。


白い割烹着に、髪は後ろでひとつにまとめてある。

笑うと、目じりがきゅっと下がるタイプの顔だった。


「山本。うちのかみさん、正月に腰やっちまってな。

しばらく加奈子に手伝いに入ってもらうことにした」


釜の前から、店主さんが言う。


「どうも、加奈子です。おじさんとおばさんの姪ね。

商業高校の三年で、春から信金に行く予定の“社会人見習い”ってとこ」


加奈子さんは、割烹着の裾をちょっとだけつまんで、ふざけたように頭を下げた。


その拍子に、カウンターの端に置いてあった箸立てを、かすかに肘で押してしまう。


「あっ」


ガチャガチャッと音がして、割りばしが何本か倒れた。


「ご、ごめん、これ、さっきから何回もやっちゃうんだよね」


慌てて拾いながら、苦笑いする。


「お前なあ、そこに置いてあるって、もう三回は言ったぞ」


店主さんが、呆れたように言った。


「だっておじさん、この棚、微妙に狭いんだもん」


口を尖らせて言い返してから、またぺこっと頭を下げる。


奥の座敷には、おかみさんが座布団を重ねて腰をかけていた。

前かがみになれないらしく、湯飲みを持つ手もそっとしている。


「山本くんとは、はじめましてだよね。

田島くんの話には、ちょっとだけ出てきたけど」


「え、田島くんが何て」


「“一年上の人で、やたら仕事早い先輩がいる”って」


にっこり笑って言われて、返事に困る。


「ま、そんな感じで。しばらく一緒にがんばろ。よろしくね、山本くん」


「……こちらこそ、よろしくお願いします。加奈子さん」


頭を下げながら、政雄は心のどこかで、「にぎやかな冬になりそうだ」と思った。


     *


日曜の昼前、店に入ると、もう湯気と電話の音でむんとした空気だった。


「山本、悪いけど、きょうも出前多めだ」


厨房から店主さんの声が飛ぶ。


「はい。田島くん、準備できてる?」


「だいたい大丈夫です、山本さん」


出前の伝票が、カウンターの端に何枚も重なっている。

その向こうで、加奈子さんが受話器を肩と頬ではさみながら、慌ててメモを取っていた。


「はい、おそば二人前とカツ丼一つですね。

お名前とご住所をもう一度お願いします。ええと……あっ、ごめんなさい、もう一回いいですか」


「加奈子、住所のところ、行番号飛ばすなよ」


店主さんが、釜の前から片手で指さす。


「分かってるって、おじさん。山本くん、これ出前の順番、あとでちゃんと見てね」


「了解です」


伝票を受け取ってざっと目を通す。

同じ方向の家をまとめて、順番に並べ替える。


「田島くん、この三枚は一緒のルートで回ろう。

こっちの二枚は、戻ってきてからでも間に合う」


「分かりました」


田島くんがおかもちのふたを開けて、器の数を数える。


「そば三、丼三……よし」


「山本、こっちはもうすぐ上がるぞ」


店主さんが声を上げる。

湯気の中、おかみさんは奥の座敷で腰にクッションを当てながら、それでも注文の確認だけはしたがる。


「お前は座ってろって。間違いそうになったら、こっちから聞くからよ」


「そう? じゃあ口だけは出すからね」


「それがいちばんこわいんだけど」


加奈子さんが小声でつぶやいた。


昼のピークが来ると、店の中も出前も一気に動き出した。


注文の電話。

加奈子さんの「ありがとうございます!」という明るい声。

店主さんの包丁の音。

おかみさんの「そっちは○○町のほうね」という指示。

田島くんと政雄がおかもちをかついで走って戻っては、また出ていく。


何度目かの配達から戻ったとき、時計を見ると、もう二時を回っていた。


「ふう……」


ガラス戸を閉めたところで、思わず息が漏れる。


「山本くん、お茶飲む?」


カウンター越しに、加奈子さんが湯飲みを差し出してくる。

その横では、ついさっき倒したばかりの箸立てが、また危うい角度で揺れていた。


「そっち、気をつけたほうがいいですよ」


「あ、やっぱり? さっきおばさんにも言われた」


言ったそばから、袖がかすって、また「ガチャッ」と箸立てが鳴る。


「ほらな」


店主さんが苦笑いしながら、代わりに直してやる。


「でも、助かってるぞ。加奈子がいてくれなきゃ、山本と田島だけじゃ回らん」


「でしょ。だから多少のドジは目をつむってください」


加奈子さんは、けろっとして笑った。


湯飲みの熱さが指先からじわっと伝わってくる。

喉を通るお茶の温度で、ようやく自分がけっこう息を詰めていたことに気づいた。


「田島くん、次はこっちの二件、お願い」


「はい。行ってきます」


おかもちをさげて出ていく田島くんの背中を見送りながら、政雄はノートのページを思い浮かべる。


元旦にきれいに並べた「今年の勉強の予定表」が、

この数日で、現実の時間にどれくらい押されているか。


胸のどこかに、小さなざわざわが残ったまま、また電話が鳴った。


「はい、山本屋そば店でーす!」


加奈子さんの明るい声が、店の中に跳ねた。


     *


何日か、そんな調子が続いた。

昼のピークが終わるころには、足がじんと重くなる。


閉店後、片づけが一段落したタイミングで、店主さんがカウンターの中から声をかけてきた。


「山本、ちょっといいか」


「はい」


「そこ、座れ」


レジ横の丸椅子を指さされて、腰をおろす。

店主さんも向かいの椅子にどかっと座った。


「最近、ちょっと顔つきがきついぞ」


「そうですか?」


「自覚ないくらいが、いちばんたちが悪い」


タオルで手を拭きながら、じっと顔を見る。


「学校のほうはどうだ。四月から高三だろうが」


「はい。一応、今は何とかなってますけど……」


そこで一度言葉を切って、息を吸った。


「店主さん。ちょうどいい機会なんで、四月以降のこと、相談してもいいですか」


「四月以降?」


「高三になったら、勉強、もう少し増やしたほうがいいかなって思ってて。

でも、学費のこともあるから、バイトを全部やめるのも迷ってて……」


元旦にノートに書いたことを、そのまま口に出す。


「今は、学校がない日に入らせてもらってますけど、

このままのペースで三年やっていけるのか、ちょっと自信がないというか」


自分でも「はっきり決めきれてないな」と感じる。


店主さんは、カウンターの中のシフト表に目をやり、それから天井を一度見上げた。


「そうか。そういうことを考える時期だよな」


ぽつりと言ってから、また視線を戻す。


「三月までは、今までどおりでいい。

かみさんの腰も、そのころにはだいぶ戻るだろう」


「はい」


「その先だ」


シフト表の端を指先で軽くたたく。


「勉強も大事だし、学費を貯めるのも大事だ。

どっちもゼロにはできねえからな」


そこで、口元を少しゆるめた。


「四月からはさ、一番忙しい日曜だけ、昼前から夕方まで来るって形にしたらどうだ。

平日はまるまる学校と勉強に回せる。

うちとしても、一番人がほしいときに顔出してくれりゃ、それで助かる」


「日曜だけ……」


口に出してみると、ノートの時間割が頭の中で組み替わっていく。


「いきなり全部やめなくてもいいだろう。

やめちまったら、今度は“金の心配”で落ち着かなくなるだろうしな」


店主さんは、少し声を低くする。


「おまえが“これなら続けられそうだ”って思う線を、一緒に探せばいい。

今のままがきついって感じてるなら、どこかで形を変えたほうがいい」


「……自分としても、そのくらいがちょうどいいかもしれません」


本音だった。


全部やめるほどの度胸も、今のまま押し切る余裕もない。

その真ん中くらいの案を、店主さんの口から出してもらえたことで、

どこかで「許可」が出たような気がする。


「じゃあ、三月までは今までどおり。

四月からは、基本は日曜の昼前から夕方までの週一ってことで、いったん組んでみるか。

どうしてもって日は、そのときまた相談だ」


「はい。お願いします」


「よし。じゃ、これは四月からの“約束”な」


店主さんがペンを取り出して、シフト表の端に小さく「四月以降 山本・日曜」と書き込む。


その字を見た瞬間、胸の奥で、きつく結んでいたひもが一つだけほどけたような感じがした。


     *


一月下旬。

おかみさんの腰も、ようやく少しずつよくなってきて、店の忙しさも、ほんの少し落ち着いてきたころ。


昼のピークがひと段落して、店内にゆるい時間が戻る。


「ねえ、山本くん」


おしぼりをたたんでいた加奈子さんが、ふと思い出したように顔を上げた。


「今度の休み、映画行かない? 駅前のとこでやってるやつ」


「映画、ですか」


「うん。“アニー・ホール”ってやつ。

 前からちょっと気になっててさ。一人で行くのも何だかなって思ってたところ」


軽い調子で、にっと笑う。


「どう? 土曜の午後。無理なら無理って言っていいから」


「……じゃあ、行きます」


「よし、決まり。じゃ、駅前の映画館に二時集合ね」


それだけ言って、加奈子さんはまたおしぼりに視線を戻した。


何でもない顔をしているのに、こっちの胸だけが、さっきより少し落ち着かなくなっていた。


     *


土曜の午後。

駅前の映画館の前で、時計を見たのは三回目だった。


「……十分前か。まあ、余裕だな」


還暦過ぎまで生きた身からすれば、女子高生との映画デートくらい楽勝のはずだ。

 

なのに、手のひらはやけに汗ばんでいた。


「山本くん?」


「うおっ……い、いや、やあ」


背中から名前を呼ばれて、思わず変な声が出る。


振り向くと、私服の加奈子さんが立っていた。

いつもの割烹着より、ちょっとだけ大人びて見える。


「ごめんね、待った?」


「今来たところです」


口が勝手に、教科書どおりの台詞をしゃべる。


「じゃ、行こっか」


     *


映画が始まってしまえば、あとは流れ作業みたいなものだった。


暗くなって、スクリーンが光って、人がしゃべって、笑って、終わる。


内容は、ところどころしか頭に残っていない。

やけに早口な男と、マイペースな女の人が、何やかんややっていた気がする。


それよりも、右隣に女子高生が座っている事実のほうが、よほど意識の大半を占めていた。


何か話したほうがいいのか。

笑うタイミングは合ってるか。

ポップコーン買ったほうがよかったか。


そんなことを延々と考えているうちに、映画は終わっていた。


     *


外に出ると、空はもう薄暗い。


「いやー、たまには映画もいいねえ」


「そうですね」


「じゃ、わたしバスこっちだから。また店で」


「あ、うん。今日はありがとうございました」


「こちらこそー」


手をひらひら振って、あっさり別れた。


ドラマも何もない。

現地集合、映画一本、現地解散。


後に残ったのは、微妙な疲労感と、よく分からないむずがゆさだけだった。


「……何だったんだ、俺のドキドキは」


駅前の人混みから少し外れて、小さくつぶやく。


「期待なんて、初めからしてなかった。断じてしてなかったさ」


そう言いながら、口元が勝手に笑ってしまう。


四六時中、ノートのマス目で頭をいっぱいにしている必要もないかもしれない。

一回映画を観に行ったくらいで、人生が台無しになるわけでもない。


「ちょっと、肩に力入りすぎてたかもな」


そのくらいは、素直に認めてやってもいい。


そう思いながら、政雄は、普段よりほんの少しだけ足取りをゆるめて、駅前の通りを歩いていった。



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