第24話 元日のこたつと今年のこと
年が明けて元日。
目覚ましをかけなかった朝は、いつもより少しだけ遅い。
ふらふらと廊下を歩いて居間に行くと、台所のほうからだしの匂いがした。
流しの前では、母が鍋をのぞき込んでいる。
「おはよう」
「おはよう。おもち、いくつ食べる?」
「うーん……二つでいいや。あとで勉強もするし」
「はいはい、二つね」
母は笑いながら、角もちを網の上に並べる。
鍋の中では、丸く切ったにんじんと里芋が静かに浮き沈みしていた。
こたつでは、父が新聞を広げている。
幸は、毛布にくるまったままごろりと横になって、お正月のお笑い番組をぼんやり眺めていた。
「おそいよ、政雄」
「きのうまでいろいろあったんだから、ちょっとくらいいいだろ」
そう言いながら、こたつに足を突っ込む。
電源はまだ入っていないのに、座るだけで少しほっとした。
*
雑煮の用意ができると、母がちゃぶ台に椀を並べた。
「はい、おとうさん二つ。幸は?」
「わたし一つでいい。あとでみかん食べる」
「政雄はさっき言ったとおり二つね」
椀の中には、焼きめのついたもちと、にんじん、里芋、ほうれん草。
湯気の向こうで、父が新聞を畳む。
「じゃ、いただきます」
四人で手を合わせると、箸と椀の音がこたつの天板に小さく響いた。
だしの匂いと、しょうゆの香り。
もちをかむと、少し遅れて甘みが広がる。
「毎年同じ味だな」
父がぽつりと言う。
「同じでいいのよ。正月なんだから」
母が笑う。
姉は、もちをひと口かじってから、少し面倒くさそうにテレビのほうに目を戻した。
画面の中では、芸人たちが新春特番で騒いでいる。
毎年、だいたい同じような光景だ。
父は新聞と雑煮。
姉はこたつとテレビ。
母は台所とちゃぶ台を行ったり来たり。
その真ん中で、自分もあたりまえみたいな顔をして雑煮を食べている。
悪くはない。
むしろ、こうやって同じ顔ぶれで新年を迎えられること自体が、ありがたいことだと思う。
けれど、今年の政雄の頭には、別の言葉も浮かんでいた。
「今年は、高三になるんだよな」
*
雑煮を食べ終えると、家族で近所の神社へ初もうでに出かけた。
空気は冷たいが、空はよく晴れている。
白い息を吐きながら歩いていくと、境内の手前にはすでに列ができていた。
甘酒の屋台からは、湯気と一緒に甘い匂いが漂ってくる。
子どもの声と、鈴の音と、大人たちの笑い声がまざっていた。
賽銭箱の前で、順番に五円玉を投げ入れる。
二礼二拍手一礼。
「何お願いしたの?」
帰り道、姉が横からのぞき込むように聞いてきた。
「そんなの、言ったら叶わないだろ」
ふーん。じゃあ、勝手に想像しとく」
母は「家族みんな元気で」と、いつものとおりだ。
父は何も言わなかったが、いつもより少し長く手を合わせていた気がする。
政雄は、はっきりした言葉にはしなかった。
「勉強」とか「受験」とか「お金」とか、そういう単語が頭の中を通り過ぎていっただけだ。
*
家に戻ると、母はまたぱたぱたと台所に立ち、
姉はこたつでテレビを見ながらだらだらしている。
「よく飽きないな」
政雄がそう言うと、姉は毛布から顔だけ出した。
「正月くらい、だらだらさせてよ。
大学入ってから、お正月ぐらいしかこんなにゆっくりしてないんだから」
そう言って、みかんの皮をぽいっと皿に投げる。
父は新聞を読み終えると、今度は押し入れの上の段から釣り道具の箱を引っぱり出してきた。
「またそれ?」
母が笑いながら声をかける。
「正月くらい、こっちも手入れしとかないと」
父はちゃぶ台の端に腰を下ろして、リールを分解し始めた。
細かいねじに目をこらすその顔は、真剣そのもので。
一本一本ラインを指でなでながら、傷がないか確かめていく様子は、職人みたいだった。
テレビからは、お笑い芸人の声。
台所からは、母の鍋を洗う音。
ちゃぶ台の横で、父の指先だけが黙々と動いている。
毎年のことだが――と政雄は思う。
「うーん、何か足りない」
そう感じるのは、今年が初めてだった。
*
自分の部屋に戻って、机に向かう。
年末に少し片づけたおかげで、机の上は思ったよりすっきりしていた。
参考書とノート、教科書。
横には、そば屋のシフトを書き込んだ手帳。
「今年は、勝負の三年生になるんだよな」
口に出してみると、言葉だけがやけに硬く聞こえた。
今までだって、勉強をさぼっていたわけではない。
そば屋のバイトと両立しながら、何とか評定も維持してきた。
バイトに入るのは、だいたい土曜と日曜だ。
平日は、予習復習と課題で終わる。
それでも、テスト前や模試の前には、時間のやりくりに苦労する日もあった。
「勉強量、増やしたほうがいいよな」
ノートを一冊引っぱり出して、ページを開く。
学校のある日の時間の使い方。
学校がない日の過ごし方。
ざっと書き出してみると、どこにどれくらい勉強を入れられるか、だいたい見えてくる。
「バイトは……どうするか」
そば屋のことを考える。
昨年の坂口さんは、三月いっぱいで店をやめた。
地方の大学に合格して、遠くの町へ行くことになるのだろう。
ああいう区切りのつけ方もある。
自分も、三年になったら、どこかで線を引くべきなのか。
それとも、高校のあいだは続けて、少しでも進学資金を貯めるべきなのか。
体力と時間のことを考えると、不安もある。
この一年だけでも、テスト前や模試の前は、ぎりぎりの綱渡りみたいな日があった。
「うーん……」
ペンを持ったまま、手が止まる。
頭の中では、「勉強を増やすなら、バイトを減らすべきだ」という声と、
「お金のことを考えたら、簡単には手放せない」という声が、くり返しぶつかっていた。
ノートのマス目に書いた字が、だんだん濃くなっていく。
自分でも、肩に力が入りすぎているのが分かる。
けれど、その力の入れ方が、今の自分には「正しい形」だと思えていた。
ここで気を抜いたら、どこかで全部が崩れてしまう気がする。
そんな予感だけが、背中を押していた。
*
二日には、居間のテレビで駅伝を横目に見ながら、問題集を一冊、なんとか終わらせた。
三日目にもなると、お笑い番組にも、おせちにも、だんだん飽きてきた。
こたつの中でみかんを食べている姉を横目に見ながら、政雄は「そろそろ、いつものペースに戻らないとな」と、静かにノートを開いた。
その少しあと、正月気分が抜けきらないうちに、そば屋で「いつもと違うこと」が起きる。
おかみさんが、ぎっくり腰で動けなくなったという知らせが、政雄のところへ届いたのは、そんなタイミングだった。




