第23話 大晦日の湯気の向こうで
一九七七年十二月三十一日。大晦日。
高校二年の政雄は、朝からそば屋のバイトだった。
店に入ったときから、いつもの土日とは空気が違う。
ガラス戸の向こうには、「年越しそば予約受付」の紙が貼ってある。
店の奥では、店主が早めに出てきて、黙々とそばを打っていた。
「山本、今日は覚悟しとけよ」
そばを打ちながら、店主がちらりとこちらを見る。
「はい。去年もけっこうすごかったですけど」
「今年はもっとだ」
それだけ言って、店主はのし板の上に粉を広げる。
その横で、おかみさんがどんぶりの数を数えながら、年越し用の器を棚から出してくる。
十一時を過ぎるころには、店内も出前も一気に動き始めた。
年越しそばの持ち帰り分を受け取りに来る客。
「今から配達できる?」と電話をかけてくる常連。
昼の客も、夜の家族分までまとめて頼んでいく。
「山本、ここの二つ、先に出前な」
「はい。田島くん、こっち三丁目と四丁目、順番こういうふうに回るぞ」
「は、はいっ」
田島くんには、きょうは器の回収と同時に、かご持ちでついてきてもらう。
配達先は、もう頭に入っている。
順番さえ間違えなければ、いつもの倍の件数でも何とか回せる。
それでも、午後のピークでは、一瞬だけ手帳を見る余裕もなくなる。
「年越し三つ、追加!」
「持ち帰り五人前、十五時引き取り!」
厨房と出前とレジとが、細い店内で目だけで会話する。
鍋の湯気と人いきれで、冬だというのに襟元に汗がにじんだ。
*
大晦日のまかないは、いつもと違っていた。
ふだんなら、昼と夜のピークがひと段落したころに、店のメニューから一人一品ずつ好きなものを選んで、順番に食べさせてもらう。
かけそばだったり、たぬきうどんだったり、気分で決めるのがちょっとした楽しみだった。
けれど、この日はそんな余裕はない。
「今年はね、まかないはこれ」
昼前、少し手が空いたときに、おかみさんが厨房の隅を指さした。
そこには、ラップをかけたおにぎりがいくつも並んでいる。
「手のすいた人から、一個ずつかじってちょうだい。
ゆっくり座ってる時間はないからね」
「はい」
返事をしながら、政雄は「本当に、座ってる時間はなさそうだな」と内心で苦笑した。
配達から戻った合間に、流しの前で立ったまま、おにぎりを半分だけかじる。
しゃけの塩気が、空腹でからっぽになりかけていた腹にしみこんでいく。
「山本、飲み込んだらこれ、すぐ三丁目な」
「はい。田島くん、食べるなら今、一個口に入れときなよ」
「あ、じゃ、これいただきます」
田島くんも、慌てておにぎりをつかんで口に運ぶ。
もぐもぐやっているうちに、次の配達の伝票が飛んでくる。
落ち着いて茶碗に飯をよそう時間がないというのは、「そういう日なんだ」と体に言い聞かせるしかなかった。
*
夕方、いったん配達の波が落ち着く。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
それでも、予約表のほうを見ると、夜七時、八時、九時と、生そばの引き取り予約がぎっしり並んでる。
その一番下の行に、自分の文字がある。
「二十二時三十分 生そば四人前+つゆ+エビ天四本 山本」
家での年越しそば用だ。
事前におかみさんに相談して、ほかのお客と同じようにきちんと予約させてもらった。
「山本くんの分は、こっちで別にしとくからね」
昼すぎ、おかみさんがそう言って、帳面の端に小さく丸をつけていたのを思い出す。
家では、もう「夕飯は軽く食べて、政雄が帰ってくるのをテレビ見ながら待ってる」と決めたらしい。
姉がそう言って笑った顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
「山本、ぼーっとしてる暇ないぞ」
店主の声に、はっとする。
「すみません。行ってきます」
またおかもちを持ち上げて、夜の町へ出ていった。
*
夜九時を過ぎると、「今年も頼むよ」と顔なじみの客が、次々と戸を開ける。
「はいはい、お待ちしてました。予約の山田さんね、生そば三人前と天ぷら三つ」
おかみさんの声が、少しだけかすれてきている。
店主は相変わらず黙々とそばをゆでて、湯切りして、どんぶりに収めていく。
いつもは二十一時閉店の札を出す時間を、とっくに過ぎていた。
ガラス戸の上には、「本日の閉店 二十二時まで」と紙が貼ってある。
それでも、戸を閉めたあとにも、電話はしつこく鳴った。
「もう、店仕舞いなんで、すみませんねえ。来年またお願いします」
おかみさんが何度か頭を下げて、ようやく受話器を置く。
「ふう……」
厨房の時計の針は、ちょうど二十二時を少し回ったところを指していた。
「よし。ここまでだな」
店主が火を落としながら言う。
「山本、片付けたらすぐ帰れよ。おまえの家は、これからだろ」
「はい。でも、後片付けぐらいは」
「そこそこにしとけ。年越しそばゆでる体力、残しとけよ」
店主の口元が、ほんの少しだけ笑った。
「田島くんはこっちの器、外から先に洗っていって」
「は、はいっ」
水屋のほうから、だいぶ慣れた洗い物の音が聞こえてくる。
濡れた器が重なる音と、蛇口から落ちる水の音。
客の片づけが一段落したところで、おかみさんが小さな紙袋を持ってきた。
「はい、山本くんの分。生そば四人前と、つゆとエビ天。」
「ありがとうございます。お世話になります」
エプロンのポケットから封筒を出して、あらかじめ用意しておいたお金を渡す。
自分のバイト代から出す「家へのおごり」だ。
「いいのよ、そんなに頭下げなくたって。おうちでゆっくり食べなさいよ」
「はい」
紙袋の底を両手で支えると、ずっしりとした重みが腕に伝わった。
そばとつゆとエビ天の重さといっしょに、家族四人分の顔がそこに乗っている気がした。
*
店を出ると、町はしんと静かだった。
昼間の慌ただしさが嘘のように、人通りはほとんどない。
その代わり、家々の窓の向こうからテレビの光がこぼれていた。
紅白歌合戦の音が、遠くからぼんやりと聞こえる。
ところどころの家から、笑い声や拍手がにじんでくる。
息を吐くと、白くなってすぐに消えた。
紙袋を抱えたまま、歩幅を少しだけ早める。
配達で何度も通った道だが、きょうはいつもより短く感じた。
「二十二時半には帰るって言ったからな」
時計は見ていないが、頭のどこかで時間を数えている。
この角を曲がって、あの電柱を過ぎれば、あと何分。
角を曲がると、自分の家の窓が見えた。
障子越しに、テレビの光がちらちらと動いている。
黒い影が三つ、こたつのあたりでゆらいだ。
胸のあたりが、少しだけ軽くなった。
*
「ただいま」
引き戸を開けると、こたつの中から「おかえり」の声が三つ重なった。
テレビの画面には、紅白のステージが映っている。
歌手の名前までは追わなかったが、「ああ、今年も終わるんだな」という空気だけは伝わってきた。
「お疲れさん」
父が、こたつの中から体を少し起こして言う。
いつもの作業着ではなく、薄いセーター姿だ。
顔には疲れが残っているが、目の奥はどこかほっとしている。
「すごかったでしょ、今日」
幸がみかんをむきながら笑う。
「店の前、人だかりになってたよ。昼間、前通ったとき」
「まあ、去年よりは段取りよかったかな」
上着を脱いで、台所のほうに紙袋を運ぶ。
中身を取り出して、流しの上に並べた。
生そばの束が四つ。
透明な袋に入った、だしの濃いつゆ。
紙に包まれたエビ天が、香りだけで腹を鳴らせてくる。
「わあ、ほんとにお店のやつだ」
母が台所までのぞきに来る。
「今日は夕ご飯、軽めにすましたからね。
あとは、政雄のそば待ち」
「そうか。じゃあ、さっさとゆでないとな」
時計を見ると、二十二時半を少し過ぎていた。
紅白は、たぶんもう後半戦に入っているころだ。
「お湯、まだ沸いてないからね。今からたっぷり沸かすから」
母が大きな鍋をコンロにかける。
「火加減、見るのは政雄に任せるわ」
「そばのゆで加減は、店で叩き込まれてるからな」
ガスの火が青く立ち上がる。
*
湯がぐらぐらと煮立ったところで、そばを一束ずつほぐして入れる。
菜箸で軽くかき混ぜて、麺がくっつかないようにする。
厨房の大きな釜と違い、家の鍋はずっと小さい。
いちどに全部を入れず、二人前ずつに分けてゆでることにした。
「店主がさ、同じ鍋で欲張ると、湯の温度が下がって腰がなくなるって、いつも言うんだよ」
思わず口に出すと、台所の入口で幸が笑った。
麺がふわっと浮いてきてから、何度か湯の中で揺らして、箸で一本だけつまんで噛んでみる。
「……このくらいか」
火を止めて、ざるにあける。
すぐに蛇口の下に持っていき、冷たい水で一気にぬめりを落とす。
冬の水は、骨の芯まで染みてくる冷たさだ。
それでも、ここを丁寧にやるかどうかで、麺の滑りが全然違う。
「うわー、冷たそう」
母がタオルを差し出してくる。
「店じゃもっと冷たい水でやってるから、これくらい平気」
軽く笑いながら、そばをもう一度さっとお湯にくぐらせて温め直す。
温めたどんぶりに盛りつけると、湯気がふわっと立ち上った。
鍋のほうでは、母がつゆを温めている。
「はい、できた」
どんぶりのふちを指でそっと拭き、エビ天を一本ずつのせる。
青ねぎをぱらりと散らして、最後に湯気の立ち方を一度確認する。
そば屋の厨房ほどじゃないが、それでも「自分の仕事」であることに変わりはない。
*
「お待たせしました。年越しそば、四人前」
ちゃぶ台の上に、どんぶりをひとつずつ置いていく。
父の前に置いたときだけ、少しだけ慎重になった。
「ほう」
父はどんぶりの中をじっと見てから、箸を取る。
言葉はないが、目の動きはいつもより少し丁寧だ。
四人が同時に、そばを口に運ぶ。
だしの香りと、しょうゆの塩気。
エビ天から出た油の甘さが、つゆにうっすらと溶けている。
「……おいしいね」
最初に言葉を漏らしたのは、母だった。
「ほんと、お店の味だ」
幸も、口の中を確かめるように何度か噛んでから、顔をほころばせる。
「どう?」
思わず聞いてしまってから、自分が子どものようだと思う。
父は、もう一口そばをすすってから、短く言った。
「うまい」
それだけだった。
けれど、その「うまい」は、いつもの夕食のときの「うまい」とは、少し違う響きがあった。
「わたし、来年からもこれがいいなあ」姉が笑いながら言う。
”ふと姉が13歳の夏、昼食後のスイカの前で見せた笑顔を思い出した。”
「山本家の年越しそばは、山本政雄作ってことで」
「そうそう。お母さん、うどんはゆでるけど、そばは政雄に任せようかな」
母も乗ってくる。
「勝手に決めるなよ」
そう言いながらも、どこか悪い気はしなかった。
ちゃぶ台の上の湯気が、四人分の顔の前で重なり合う。
テレビの中では、紅白の歌声がクライマックスに近づいている。
箸が進むうちに、どんぶりの底が少しずつ見えてきた。
「ごちそうさま」
最後の一口をすすって、どんぶりを軽く持ち上げる。
父も、母も、幸も、おなじように手を合わせた。
どんぶりを台所へ下げに立ち上がったとき、遠くでゴーン、と鐘の音が聞こえた。
「除夜の鐘だね」
母がそう言って、テレビの音量を少しだけ下げる。
「もうすぐ年が変わるのか」
父がぽつりと言う。
窓の外は真っ暗で、家の中だけが、ちゃぶ台とこたつの明かりでぽうっと浮かんでいる。
政雄は、空になったどんぶりを流しに置いて、もう一度居間に戻った。
こたつにもぐり込むと、足先からじんわりと温かさが上がってくる。
除夜の鐘と共に一九七七年が終わろうとしている。
転生して7年、俺は家族の変化を感じていた。




