第22話 白い息とことばの種
一九七七年の冬。昭和五十二年。
山本家では、姉の幸は二十歳の大学二年生、政雄は十七歳の高校二年生になっていた。
冬になると、家の中の足音が少しゆっくりになる。
夕方、大学から帰ってかばんを置き、玄関のほうに耳を澄ませると、父の帰ってくる時間が、前より少し遅くなっているのが分かる。
がらり、と引き戸が開き、作業着の袖についた油じみが目に入る。
「おかえり」
幸が声をかけると、父は軽くうなずくだけだ。
上着を壁のフックに掛け、靴を脱いで、無言で洗面所に向かう。
石けんの匂いといっしょに、水の音がしばらく続いた。
ちゃぶ台に座るころには、肩が少し落ちている。
いつもより残業が増えたのだと、言葉にしなくても分かる。
それでも、茶碗を手にしたときの父の顔には、どこか「やることはやっている」という納得みたいなものがあった。
「最近、遅いね」
母が湯気の向こうからぽつりと言うと、父は「まあな」とだけ答える。
仕事の細かい話はしない。
ただ、茶碗のごはんをきれいに平らげて、みそ汁を飲み干すと、小さく息をついた。
*
冬の薄い日差しが座敷に差し込む日曜の午後、父は押し入れを開けて、
上の段から、細長いケースを二つ、ごそごそと引き出した。
幸が廊下からのぞくと、畳の上に竿とリールが並べられている。
「それ、久しぶりに見た」
声をかけると、父は少しだけこちらを見てから、また手元に視線を戻した。
「たまにはな。ほこりかぶっちまう」
竿の継ぎ目を外し、布で一本ずつ拭いていく。
リールのハンドルをゆっくり回して、糸の具合を確かめる。
「釣り、行くの?」
「行けりゃいいけどな」
それ以上は言わない。
休みの日に海まで出かける元気までは、なかなか回ってこないのだろう。
それでも、道具だけは時々こうして手入れをしておきたいらしい。
横から見ていると、工場で機械を触っているときと、どこか似た表情をしている。
真面目で、無口で、でも嫌そうではない顔。
残業が増えて、体は前より明らかに疲れている。
それでも、「働いていること」そのものが、父にとっては家族のための一番分かりやすい役割で、その分だけ充実もしているのだと、幸はなんとなく感じていた。
「糸、替えときゃ、いつでも行けるからな」
独り言みたいな声が聞こえる。
「うん。行けるといいね」
そう返しながら、幸は「その“いつでも”が、そう遠くない日でありますように」と心の中でだけ付け足した。
*
朝になると、今度は母の足音が早い。
冬の冷たい空気を入れないように、玄関の戸をできるだけすばやく開け閉めしながら、自転車を押し出していく。
幸が二度寝から抜けきらない頭でちゃぶ台についたころ、母は首元までマフラーを巻いて戻ってくる。
「おかえり。寒かったでしょ」
「寒いのは寒いけどねえ。体が目ぇ覚ますから、案外悪くないわよ」
そう言いながら、母は頬を赤くして笑う。
吐く息はまだ白いが、目つきはどこか前よりしゃんとしている。
乳酸菌飲料の配達を始めたころは、疲れた様子で帰ってきていたのを覚えている。
今は、冷たい空気に慣れたのか、「今日はあそこの犬がね」とか「この前の奥さんが、おまけにみかんくれてね」とか、小さな出来事を楽しそうに話す余裕がある。
「そんなトシで自転車なんて」と父が心配していたが、母自身はむしろ、じっと家にいるよりも今のほうが調子がいいらしい。
炊飯器の蒸気があがる台所で、母の白い息と笑い声が混ざる。
その様子を見ていると、「大変そう」と「生き生きしている」が同時に見えて、幸は少し不思議な気持ちになる。
*
ふと自分のことを考えてみる。
大学の講義も、すでに慣れた。
書店のバイトも、レジだけでなく、棚の整理や新刊の並べ替えを任されるようになっている。
奨学金のおかげで、授業料は家計に直接はねていない。
それは分かっている。
けれど、入学金七万五千円と、最初の半年分の定期代と、最初の教科書代は、あの春に父と母がなんとかかき集めたものだ。
あのとき、封筒の中身を何度も数え直していた父の指先を思い出す。
母が、「こっちの口座から少し回せば」と小声で言っていたのも。
今さら「ありがとう」と改まって言う場面もないまま、もうすぐ三年目に入ろうとしている。
幸は、自分の通学定期の更新のときに、一部を自分のバイト代から出すようにしていた。
小さな額でも、「全部親に出してもらっている」という感覚を、少しだけ薄めておきたかった。
「バイト、きつくないか?」
ある晩、父がそう聞いてきた。
「ううん。立ちっぱなしの日はちょっと足が痛いけどね。
でも、本を並べたり、お客さんと話したりするの、けっこう楽しいよ」
「そうか」
父はそれだけ言って、湯のみを口に運ぶ。
その指先には、釣り竿と同じように、仕事と家計を支えてきた時間の跡が刻まれている。
その指に、ほんの少しでも違う使い道を残してあげたい。
そんなことを、ぼんやりと考える夜が増えた。
*
書店のバイト先でも、冬は少し空気が違う。
受験シーズンが近づくと、「受験参考書」の棚の前に、制服姿の高校生が増えた。
背表紙には「入試対策」「頻出問題」などと太い字が並んでいる。
「山本さんさ、ちょっとこれ、やってみない?」
ある日、閉店前の静かな時間に、店長が声をかけてきた。
「これ?」
「ここ、受験参考書の棚。
うち、あんまりPOPとかやってこなかったんだけどさ。
ちょっとだけでも手書きコメントつけてみたらどうかなって」
棚の前には、小さな色紙とマジックペンが置かれている。
「コメント、ですか」
「ほら、高校生の子ってさ、分厚い本だとそれだけでうっとなるでしょ。
“これは基礎からで、最初の一冊に向いてます”とか“問題多くて練習向き”とか、一言あると選びやすいかなって」
店長は、少し申し訳なさそうに笑った。
「俺が書いてもいいんだけどさ。
年の近い君が書いた方が、たぶん伝わるだろうからさ」
「……私でよければ」
マジックを受け取りながら、幸は棚の背表紙を眺めた。
自分が受験生だったころ、この棚の前でどれだけ迷ったかを思い出す。
英語の文法書一つとっても、「初級」「標準」「難関」と書かれた背表紙の違いが、当時は恐ろしく大きく見えた。
「“難関”って書いてあると、勝手に門前払いされた気になるんだよね」
小さくつぶやきながら、一冊を手に取る。
ページをぱらぱらとめくり、練習問題のレベルや解説の書き方をざっと見る。
頭の中で、「二年前の自分」と「いま目の前にいる見知らぬ受験生」を重ねた。
色紙に、短く書き込む。
「最初の一冊向き。説明がやさしくて、続けやすいです。」
別の本には、
「問題多め。たくさん解きたい人に。」
さらに、もう一冊には、
「文法の抜けをチェックするのにぴったり。」
長々と書き連ねるのではなく、「どんな人に合うか」だけを一言で言ってみる。
自分のことを説明するときよりも、ずっと言葉がすっと出てきた。
数日後、棚の前で立ち止まった高校生が、その小さな紙切れを一枚ずつ読んでいるのが見えた。
「こっちのほうが、やりやすそうじゃない?」
「うん……“最初の一冊向き”って書いてあるし」
そんな会話が、ひそひそと聞こえる。
手書きの字を、少し恥ずかしい気持ちで見ていた幸は、そのまま棚の影に隠れるようにしてレジに戻た。
それでも、胸のあたりに小さな灯りがともったような感覚が残る。
自分が書いたひと言で、誰かの迷いが少しだけ軽くなったかもしれない。
それは、思った以上にうれしいことだった。
*
その日の帰り道、幸はマフラーを鼻のあたりまで引き上げながら歩いた。
夜の冷たい空気は、肺の奥にすっと刺さるように入ってくる。
街灯の下で吐いた息が白くなって、すぐに消えた。
「人に何かを伝える仕事が、できたらいいな」
声には出さずに、心の中でつぶやく。
英語の授業も好きだ。
本に囲まれた書店の空気も、嫌いではない。
今日みたいに、「これはこういう人に合う」と言葉にして、それが誰かに届いたときの感覚。
それを、もっと大きな場所で、長く続けられたらと思う自分がいる。
家に帰ると、ちゃぶ台の上には鍋が載っていた。
湯気の向こうに、父と母と政雄の顔が並んでいる。
「おかえり。今日は温かいのにしたから」
母が鍋のふたを少し持ち上げると、湯気の向こうにきのこと豆腐が見えた。
「お、幸。バイトどうだった?」
父が湯のみを手にしながら聞く。
「うん。ちょっとね、受験コーナーのとこにひと言書かせてもらったら、
それ見て本選んでくれた子がいたみたい」
「そうか」
父の言い方は相変わらず短いが、その目は少しだけ柔らかかった。
「人に説明するの、前から得意だったもんねえ」
母も、箸を動かしながら言う。
「そ、そうかな」
照れ隠しのように笑いながら、幸は鍋から豆腐をすくった。
「英語も好きだし、本も嫌いじゃないしね。
いつか、何かを教える仕事とか、人に伝える仕事ができたらいいなって、ちょっと思った」
口に出してしまうと、それは急に「本当の希望」の形を取り始める。
父は少し驚いた顔をしてから、「そうか」とだけ言った。
「まだ決めなくていいけどさ。そういうの、持ってるだけで、ちょっと違たりするから。」
母は笑ってうなずいた。
ちゃぶ台の上には、鍋の湯気と、家族の優しさが混ざっている気がした。
その景色を見ながら、幸は「伝える」という言葉の重さを、もう一度胸の中で転がした。
*
年末が近づくと、自然と年越しの話題が出る。
夕食のあと、お茶を飲みながら、母がぽつりと言った。
「今年の大晦日、どうしようかねえ。
おせちはいつもどおりにして、年越しそばはどうする?」
「去年も、忙しかったな」
父がぽつりと言う。
「政雄、店でずっと働いててさ。
うちは早めに普通の夕飯食べて、紅白見ながら慌ただしくそば食べて終わり、みたいな感じだったろ」
「そうだったね」
母が少し苦笑する。
「去年は、生そば買いには行ったけど、ゆっくり味わう余裕はなかったわ」
去年の大晦日、幸はそば屋に生そばを買いに行った。
店の前は人であふれていて、政雄はレジの中でひっきりなしに立ち働いていた。
家でゆでた年越しそばはたしかにおいしかったが、あの夜のちゃぶ台には、「間に合わせ」の匂いも少し混ざっていた。
幸は湯のみを手の中で回しながら、向かいに座る弟の顔を見る。
「ねえ、今年はさ」
「うん?」
「政雄、店から生そば買って帰ってきたり、できないの?」
「生そば?」
「うん。そばと、つゆと、エビ天。
お店の味のやつを、家でゆっくり食べられたら、ちょっといいなって」
口に出してみてから、自分の中で「家族に報いたい」という気持ちがそこにくっついているのに気づた。
残業で少し疲れた顔をしながらも釣り竿を手入れしている父。
冬の配達で白い息を吐きながら自転車をこいでいる母。
バイトと勉強を両立させながら、入学金を自分で貯めようとしている弟。
その三人と、同じちゃぶ台を囲んで、店の味に一番近いそばを食べたい。
それは、「何か大きなことをしてあげる」というよりも、自分の中で芽生えた小さなわがままに近かった。
「予約しとけばいいよ」
政雄は、少し考えてから言った。
「大晦日の夜は忙しいけど、前もって頼んでおけば、生麺とつゆとエビ天、売ってもらえるはずだよ。
それを閉店のときに受け取って、家で俺がゆでる」
「ほんと?」
母の顔がぱっと明るくなる。
「それ、いいねえ。
今年は夕食を軽く済ませて、政雄が帰ってくるのをテレビでも見ながら待ってて、夜食にそばにしようか」
「年越しそばが夜食って、なんか贅沢だな」
父がぽつりと言った。
声の調子は淡々としているが、その口元は少しだけゆるんでいる。
「でも、それくらいの楽しみはあってもいいか」
「じゃあ決まり。うちの大晦日料理長は政雄ってことで」
幸がそう言うと、弟は少しだけ照れくさそうに肩をすくめた。
「プレッシャーかけないでくれよ」
「大丈夫でしょ。もう二年近く、そば屋でみっちり修行してるんだから」
ちゃぶ台の上で、湯のみと箸の音が小さく鳴る。
窓の外では、冬の夜の空気が冷たく張りつめている。
けれど、その中に、白い息と一杯のそばを思い浮かべるだけで温かくなる場所が、一つだけはっきりと浮かび上がっていた。
幸は、その光景を胸の中でそっと描きながら、湯のみのお茶を飲み干した。
年越しの夜、四人でちゃぶ台を囲んで、湯気の向こうで笑っている自分たちの姿を思い描きながら。




