第21話 春ののれんの向こう側
春休みの終わりごろ、そば屋の裏口の空気が少しだけそわそわしていた。
仕込みの手を止めないまま、店主がぽつりと言う。
「山本、前にも話したがな」
「はい」
「坂口は、この三月いっぱいで上がりだ。受験の準備が本格的になるからな」
「……はい」
それは、年明けごろに一度聞かされていた話だ。
そのときは「まだ先のこと」のように感じていたのに、カレンダーはもう三月の終わりに近づいている。
「今まで、配達のやり方も細かいところも、よう教えてもらったろ。
こっから先は、お前が“教える側”になる番だ」
「教える、側」
口の中でその言葉を繰り返すと、どうにもまだしっくりこない。
けれど、店主の表情はいつもの調子で、特別なことを言っている様子はなかった。
「四月からな、新一年の子を一人入れる。
最初は器の回収からだ。道を覚えさせながら、配達のコツも少しずつ教えてやってくれ」
「はい。できる範囲で」
そう答えると、店主は「できる範囲以上を、ちょっとだけな」と笑った。
*
三月の終わり、坂口さんの最後の出勤の日は、いつもより静かな昼だった。
客足が途切れたタイミングで、店主が小さな包みを渡す。
「はい、これ。長いこと、ありがとな」
「え、そんな」
包みを受け取りながら、坂口さんは苦笑した。
「俺、そんなに役に立ってました?」
「充分だよ。お前が入ってから、配達のミス一回もないだろ。
それだけで、どれだけ助かってるか」
店主の言葉に、奥さんもうなずく。
「年末の年越しそばも、坂口くんがいなかったら回らなかったもの。
受験のほう、がんばってね」
「はい。お世話になりました」
きちんと頭を下げるその横顔を、政雄は厨房の隅から見ていた。
自分より一つ上で、別の高校の二年生。
配達の順番の組み立て方から、自転車の漕ぎ出しのタイミング、坂道の息の整え方まで、細かいところをいちいち言葉にして教えてくれた人。
「山本」
「はい」
「こいつの分まで、ちゃんと働けよ」
店主がそう言って笑うと、坂口さんも「そうそう」とうなずく。
「新しいバイトが入ってきたらさあ、最初は器の回収から一緒に回ってあげてよ。
いきなり配達は、けっこうきついから」
「分かりました」
「あと、道教えるときな。
“猫が昼寝してる角を曲がって”とか、変な目印で覚えさせないように」
「それ、坂口さんじゃないですか」
「え、そうだっけ?」
とぼけたように首をかしげるので、思わず笑ってしまう。
こんなふうに、少し力の抜けた会話ができるようになったのも、ここ最近のことだ。
「じゃ、また。……“また”って、いつだろうな」
エプロンを外して店を出る前、坂口さんは一瞬だけ振り返った。
「山本。受験のときになってから慌てないようにな」
「はい。評定、ちゃんと維持しておきます」
「お、言うねえ」
そう言って、いつものゆるい笑い方で手を振る。
引き戸の向こうに背中が消えるまで、政雄は小さく頭を下げた。
*
四月になり、のれんの柄が春の光に少し薄く見えるころ。
店の裏口に、新しい顔が一つ増えた。
「き、今日からお世話になります。一年の、田島です」
高校の制服姿の男子が、少し緊張した声で頭を下げる。
「よろしくな、田島。
うちは最初からいきなり配達には出さないから、安心しな」
店主がそう言って笑い、奥さんがエプロンを手渡した。
「まずはお昼のピークが過ぎてから、お皿の回収に一緒に行ってもらうからね。
店の中の仕事も、少しずつ覚えましょう」
「はい!」
声だけは大きくて、どこか初々しい。
「山本」
店主が顎で合図する。
「はい」
「初めのうちは回収のとき、田島を連れていってやれ。
最初は道覚えるだけでいっぱいいっぱいだろうからな」
「分かりました」
昼のピークが過ぎて、少し店が落ち着いたころ。
政雄は田島くんに声をかける。
「じゃ、行こうか。今日は三軒だけだから」
「はいっ」
少し緊張で硬くなった返事に、思わず笑いそうになるのをこらえた。
「最初は地図持ってっていいから。
ただ、そのうち頭の中でつながってきたほうが楽だよ」
「はい……」
店を出るとき、のれんの端が少しだけ肩に触れる。
去年、自分が初めてここをくぐったときのことを思い出す。
あのときは、「教える側」になる自分の姿なんて、まったく想像していなかった。
「ここを右に曲がって、坂を下りきるまでが一丁目。
猫が昼寝してる角を曲がるって覚えると、猫がいない日に迷子になるから、やめときな」
「え?」
「何でもない」
自分で口にして、少しおかしくなった。
坂口さんからもらった言い方を、少しだけ自分なりに変えて返していく。
そのうち、この道の覚え方も、田島のものに変わっていくのだろう。
おかもちを片手で押さえながら、自転車を押して歩く。
春の光の中で、電線と屋根の形が、少しだけ新しく見えた。
*
田島くんと一緒に器の回収に出る日が何度か続くうちに、春はいつの間にか本格的な暖かさになっていた。
高二の時間割にも、体がなじんできた。
平日の放課後は、基本はまっすぐ家に帰る。
家で一度、制服のまま机に向かい、その日の授業のノートをざっと見返す。
「ここ、小テストに出そう」
「この辺は、また先生が板書を変えてくるかも」
そんな印を、鉛筆で小さくページの端につけていく。
バイトのシフトは、相変わらず土日中心だ。
平日に入るのは、テスト直前でない週に、一回だけ。
高一のころに作った「お金と進路ノート」の最初のページには、自分で書いた一行が残っている。
「高一のうちは、とにかく成績を落とさない」
「バイトは続けるが、勉強に差しさわりない範囲まで」
学年は一つ上がったが、その方針はまだそのまま使える。
評定の平均は、新聞に出ていた「四・二」のラインの上を、何とか滑らずに進んでいる。
そば屋のバイト代も、少しずつだが貯金通帳の数字を増やしていた。
*
ある土曜日の夕方、バイトから帰ってきて、風呂上がりのTシャツ一枚で机に向かう。
窓の外はまだ明るく、電線の向こうに薄い夕焼けが残っていた。
「お金と進路ノート」を久しぶりに引っ張り出し、貯金額の欄に数字を書き足す。
「高校二年・四月末までの貯金 ○○円」
「このペースなら、高三の春までに入学金五万円は確保」
ざっくりとした計算だが、目安としては悪くない。
ページの下のほうに、小さなメモを一つ足した。
「評定の平均 だいたい 4・2〜4・3で推移」
「このまま高二も“落とさない”」
高一のころと違うのは、「本当にこのペースで回るのか」という不安が、少し薄れてきたことだ。
そば屋のシフトも、学校の勉強も、生活の一部として体に馴染んでいる。
新一年の田島くんが、空のおかもちを持つ手つきにまだぎこちなさを残しているのを見ると、一年前の自分の姿が自然と思い出された。
「一年で、案外変わるもんだな」
独り言を小さく漏らしてから、ノートを閉じる。
机の上には、英語の長文問題集と、数学の問題集が並んでいる。
どちらも、次の定期テストの範囲にちょうどかかるところだ。
評定の数字は、相変わらず奨学金の入口として重たい。
けれど、その重さに、少しだけ腕のほうが慣れてきた気もする。
そば屋でおかもちを持つときのように、最初は手首がきしんだ。
今は、重さのかけ方を知っているぶんだけ、少し楽に運べる。
「バイトはバイト。勉強は勉強。
どっちも、“長く続けられるペース”で」
そう心の中で区切りをつけて、政雄は英語の問題集を開いた。
窓の外の夕焼けが少しずつ薄くなっていく。
春ののれんの向こうで始まった高二の生活は、静かに、けれど確実に、自分のものになりつつあった。




