第20話 みそかの夜はそばの音
十二月の終わりが近づくと、商店街の空気は少しずつ変わっていった。
魚屋の前には正月用のえびや数の子が並び、八百屋の棚にはいつもより大きな大根や白菜が積まれる。
道行く人の手にも、いつもの買い物袋より少し大きめの紙袋が増えた。
そば屋の店先にも、小さな張り紙が一枚、増えている。
「大晦日 年越しそば承ります」
墨で書かれたその一行を、政雄は出勤のたびに横目で見た。
「本当に、そんなに違うんですか。大晦日って」
ある日、仕込みの合間にたずねると、店主はため息まじりに笑った。
「ああ。別世界だな。店の中も外も、そばの音しかしねえ」
「そばの音、ですか」
「ゆでる音、すすり込む音、どんぶり重ねる音。
大晦日だけは、それで一日終わる」
坂口さんも、店の奥から顔を出してうなずく。
「出前も、すごいよ。いつもの土日の倍以上。
昔から、この辺は家で年越しそば食べる家、多いからねえ」
そう言いながらも、その目つきは少し楽しそうだった。
*
そして大晦日。
朝のうちから、店の前の空気が違っていた。
開店前の掃除が終わらないうちに、戸口をガラリと開ける人がいる。
「すみません、まだですか。生そば頼みに来たんですけど」
「すぐ開けますよ。ちょっと待っててください」
店主がそう答えて戸を少しだけ閉めると、今度は電話が鳴る。
「はい、○○そばです。……ああ、生そばね。何人前?
はい、午後の何時ごろ取りにいらっしゃいます?」
受話器を置くたびに、注文票が一枚ずつ増えていく。
普段は昼前からぼちぼち鳴り始める出前の電話も、この日に限っては朝からだ。
「ざる二人前と、かけ一人前」
「天ぷらそばを四つ。え、年越しで。はい」
台帳のページが、みるみるうちに埋まっていく。
「山本、今日は昼からフルで出てもらうぞ」
「はい」
「普段なら時間ずらしてもらうお客さんも、大晦日だけはそうもいかねえからな。
順番はこっちで決めるから、とにかく言われたとおりに走ってくれ」
「分かりました」
政雄は、心の中でだけ深く息を吸った。
夏の雨の日のラッシュも、それなりに大変だった。
けれど、今日のこれはまた別の種類の「てんてこ舞い」になる予感がした。
*
昼前には、店内の座敷もほぼ埋まった。
背広姿の男たちが、仕事納めの昼飯なのか、そばとビールで軽く一杯やっている。
買い物帰りらしい主婦が、子どもを連れて温かいかけそばをすすっている。
厨房からは、湯気といっしょにそばをゆでる音が絶え間なく聞こえてきた。
湯が沸き立つ音。
ざるを振って湯を切る音。
丼にそばを移すときの、ざっ、という感触。
店主と奥さんの手は、一息つく間もなく動き続けている。
「山本、三丁目の○○さんちまで、天ぷらそば三つ。
戻ったらすぐ、商店街の入り口の××さんとこ、ざる二つ」
「はい!」
おかもちを受け取って飛び出し、戻ってくるたびに、次の伝票が用意されている。
「今度は猫コーナーの先の△△さん、年越しそば四人前」
「そのあと、郵便局裏の□□さん。ここも年越しで五つ」
台帳を見る余裕もなく、口頭で渡される順番を、頭の中の地図に片っ端からはめ込んでいく。
「午前中はこっち側だけで回して、午後にあっちの坂のほうだな」
自転車をこぎながら、自分にだけ聞こえる声で順番をなぞる。
夏に作っておいたメモのルートが、頭の中で勝手に動き出していた。
どの家も、普段より人の出入りが多い。
玄関先にしめ飾りをかけているところもあれば、台所から煮しめの匂いが漂ってくるところもある。
「まあ、そば屋さん。今日は大変でしょう」
「おかげさまで」
代金を受け取りながら短く答え、すぐに次の家へ向かう。
年末の空気は、そこかしこで同じように濃くなっていた。
*
日が傾くころには、店の前に「生そば引き取り」の列ができていた。
店内で食べていく客だけでなく、家でゆでるためのそばを受け取りに来る人たちだ。
パックに詰めたそば玉と、別に容器に入れたつゆを渡すたびに、「よいお年を」と声が飛び交う。
「山本、お前はこっち。生そばの受け渡しを頼む」
「はい」
店主は厨房のほうを指しながら言う。
「出前は坂口にもう一回走ってもらう。
こっちはこっちで戦場だからな」
「了解です」
カウンター越しに「何人前ですか」「つゆは温かいのと冷たいの、どちらにします?」と確認し、包みを渡す。
次々と渡しているうちに、腕の感覚が少し麻痺してくる。
ふと、列の向こうに、見慣れた横顔が見えた。
姉だった。
手には、使い込んだ布の買い物袋をさげている。
「いらっしゃいませ」
思わず、いつもの口調が出る。
「あ、どうも」
姉も、わざと他人行儀に返した。
「生そば、四人前お願いします」
「はい、四人前ですね」
伝票に人数を書き込み、厨房に声をかける。
「生そば四人前、お願いしまーす」
店主がちらりとこちらを見て、にっと笑った。
「お、山本んちか。
じゃあ、えび天ちょっと多めに入れといてやるか」
「いいんですか」
「年に一度ぐらいな」
包みを受け取り、つゆの容器を重ねて紐でしばる。
レジを打つと、姉が財布からお金を出しながら笑った。
「うちの弟がお世話になってます」
「こちらこそです」と店主が返す。
代金を受け取り、「ありがとうございました」といつものように言うと、
姉は袋をさげて店を出ていった。
その後ろ姿が角を曲がる前に、また別の客が列に加わる。
「生そば三人前、お願いします」
「はい、三人前ですね」
休む間もなく、手と口が次の注文に動く。
*
夜九時を回るころには、ようやく店内の客の波も一段落していた。
「ふう……」
カウンターの内側で、坂口さんがどんぶりを片づけながら息をつく。
「お疲れさん。これで今年の年越しそばもだいたい終わりだな」
店主が大鍋の火を少し弱めながら言う。
「山本、今日はよく走ったな」
「はい。足が、ちょっと棒です」
正直に言うと、店主は笑った。
「年に一度だからな。こういうのも、まあ、経験だ」
「はい」
店の戸口はまだ完全には閉めていない。
除夜の鐘の前に食べたいという客が、もう一回り来るかもしれないからだ。
それでも、ピークは過ぎた。
厨房の湯気も、さっきまでのようなせわしなさではなく、少し落ち着いた温度をまとっている。
「お前んちも、今ごろそば食ってる頃だろうな」
坂口さんが、何気なく言う。
「さっきの四人前、山本の家だろ?」
「はい。姉が取りに来てました」
「いいなあ。俺も家で一杯くらい、ゆっくり食べたいけど、
どうせ帰るころにはみんな寝てるよ」
そう言って笑う声に、少しだけ疲れが混じっていた。
政雄は、自分の指先に残るそば粉と湯気の感触を、ふと意識する。
今年は、家でゆでるところには立ち会えない。
自分が触ったそばが、家のちゃぶ台に並ぶ時間には、まだここでどんぶりを洗っているだろう。
それでも、どこかで線はつながっている。
「……来年は、自分でゆでたいな」
小さくつぶやいて、自分にも聞こえるくらいの声で言った。
来年の大晦日、自分がどんなふうにここに立っているかは分からない。
けれど、今日みたいな「戦場」をもう一度くぐれば、たぶんできることも少し増えているはずだ。
カウンターの上に積まれたどんぶりの山を見上げて、政雄は袖をまくり直した。
「さ、あとひと踏んばり」
店の奥では、まだ湯気が立っている。
外ではきっと、あちこちの家のちゃぶ台で、年越しそばの音がしている時間だった。




