第18話 ふすま越しの会話
「お金と進路ノート」を作ってから、夜のちゃぶ台から漏れてくる夫婦の声の聞こえ方が、少し変わった。
ある平日の夜、バイトから帰って風呂に入り、自分の部屋で単語帳を開いていたとき。
ふすま一枚向こうから、食器の触れ合う音と、父の声がかすかに聞こえてきた。
「来月から、残業が少し増えるかもしれん」
新聞を広げる前の、落ち着いた調子だ。
「体は大丈夫なの?」
「まあな。若いのばっかり残して帰るのも、そろそろなあと思ってさ。
うちも、これから二人分、いろいろ入り用だし」
「二人分」というところだけ、少しだけ強く聞こえた。
政雄は、ページから目を離さないまま、耳だけそちらへ向ける。
父と母は、子どもの前でお金の話をするほうではない。
だからこそ、こういうふすま越しの言葉には、本音がにじんでいる気がした。
*
別の夜。
机に向かってノートを開いていると、今度は紙をなでるような音がした。
「この前の、乳酸菌飲料の配達のチラシだけど」
母の声がする。
「専用の自転車、買い取りのところもあるらしいんだけど……。
ここは貸してくれるって書いてあるのよ」
「買い取りはきついなあ」
父の声が低く返る。
「うち、借家で家賃もあるでしょ。
これ以上、大きい買い物は、そう簡単にはできないよ」
「だから、貸してもらえるなら一度やってみようかと思って。
配達で使うぶんくらいは、自分で稼いだ中から回せるだろうし」
母は少し笑いを含んで続ける。
「お父さんの給料は、家賃と食費と、幸と政雄の学校関係で、もう手一杯なんだからさ」
政雄は、手元の鉛筆を一度止めた。
ふすまを開けて入っていけば、その場で別の話題に変わるだろう。
両親は、自分たちがどれだけやりくりしているかを、子どもに見せようとはしない。
それでも、こうして断片は、ちゃんと耳に入ってくる。
*
また別の日の夜。
トイレに立った帰り、居間のふすまが少し開いていて、電気の明かりが廊下にはみ出していた。
「幸の学費と定期と、やっぱり思ったよりかかるな」
父が湯のみを置く小さな音に続けて言う。
「でも、行かせてよかったと思ってるよ」
母の声は落ち着いていた。
「英語が好きで、あそこまでがんばって入ったんだから。
英文科に行けてよかったなあって、私は思ってる」
「そうだな」
父が短くうなずく気配がする。
「問題は、もう一人のほうだ」
「政雄?」
「ああ。あいつも、大学行きたいんだろう」
「さあねえ。あの子はあの子で、何か考えてるんじゃない?」
母はそこで、少し笑いを混ぜた。
「お金の話を子どもにするのは、私は好きじゃないけどさ。
あの子、聞かなくても、だいたい分かってそうで、ちょっと怖いところはあるわよ」
「はは。そうかもしれん」
父の笑い声が、湯のみの音といっしょに漏れ聞こえてくる。
廊下の影に身を置いたまま、その会話が一段落するのを待ってから、自分の部屋に戻る。
ふすまを閉めると、外の声が一枚分だけ遠くなった。
机の上には、「お金と進路ノート」が開いたままになっている。
父と母は、自分にお金の話をしようとは思っていない。
それは、それでいいのだろう。
けれど、自分だけは、聞こえなかったふりをするわけにはいかなかった。
「こっち側で勝手に考えて、勝手に穴を埋めに行けばいいか」
小さく息を吐いて、鉛筆を持ち直す。
さっき廊下で聞いた「英文科」「学費」「二人分」という単語が、ノートの余白に静かに並んでいった。
「お金と進路ノート」を作ってから、夜のちゃぶ台から漏れてくる夫婦の声の聞こえ方が、少し変わった。
ある平日の夜、バイトから帰って風呂に入り、自分の部屋で単語帳を開いていたとき。
ふすま一枚向こうから、食器の触れ合う音と、父の声がかすかに聞こえてきた。
「来月から、残業が少し増えるかもしれん」
新聞を広げる前の、落ち着いた調子だ。
「体は大丈夫なの?」
「まあな。若いのばっかり残して帰るのも、そろそろなあと思ってさ。
うちも、これから二人分、いろいろ入り用だし」
「二人分」というところだけ、少し強く聞こえた。
政雄は、ページから目を離さないまま、耳だけそちらへ向ける。
父と母は、子どもの前でお金の話をするほうではない。
だからこそ、こういうふすま越しの言葉には、本音がにじんでいる気がした。
*
別の夜。
机に向かってノートを開いていると、今度は紙をなでるような音がした。
「この前の、乳酸菌飲料の配達のチラシね」
母の声がする。
「専用の自転車、買い取りのところもあるらしいんだけど……。
ここは貸してくれるって書いてあるのよ」
「買い取りはきついなあ」
父の声が低く返る。
「うち、借家で家賃もあるでしょ。
これ以上、大きい買い物は、そう簡単にはできないよ」
「だから、貸してもらえるなら一度やってみようかと思って。
配達で使うぶんくらいは、自分で稼いだ中から回せるだろうし」
母は少し笑いを含んで続ける。
「お父さんの給料は、家賃と食費と、幸と政雄の学校関係で、もう手一杯なんだからさ」
政雄は、手元の鉛筆を一度止めた。
ふすまを開けて入っていけば、その場で別の話題に変わるだろう。
両親は、自分たちがどれだけやりくりしているかを、子どもに見せようとはしない。
それでも、こうして断片は、ちゃんと耳に入ってくる。
*
また別の日の夜。
トイレに立った帰り、居間のふすまが少し開いていて、電気の明かりが廊下にはみ出していた。
「幸の学費と定期と、やっぱり思ったよりかかるな」
父が湯のみを置く小さな音に続けて言う。
「でも、行かせてよかったと思ってるよ」
母の声は落ち着いていた。
「英語が好きで、あそこまでがんばって入ったんだから。
英文科に行けてよかったなあって、私は思ってる」
「そうだな」
父が短くうなずく気配がする。
「問題は、もう一人のほうだ」
「政雄?」
「ああ。あいつも、大学行きたいんだろう」
「さあねえ。あの子はあの子で、何か考えてるんじゃない?」
母はそこで、少し笑いを混ぜた。
「お金の話を子どもにするのは、私は好きじゃないけどさ。
あの子、聞かなくても、だいたい分かってそうで、ちょっと怖いところはあるわよ」
「はは。そうかもしれん」
父の笑い声が、湯のみの音といっしょに漏れ聞こえてくる。
廊下の影に身を置いたまま、その会話が一段落するのを待ってから、自分の部屋に戻る。
ふすまを閉めると、外の声が一枚分だけ遠くなった。
机の上には、「お金と進路ノート」が開いたままになっている。
父と母は、自分にお金の話をしようとは思っていない。
それは、それでいいのだろう。
けれど、自分だけは、聞こえなかったふりをするわけにはいかなかった。
「こっち側で勝手に考えて、勝手に穴を埋めに行けばいいか」
小さく息を吐いて、鉛筆を持ち直す。
*
数日たった日曜の朝。
その日はたまたま、そば屋のバイトが昼からだった。
居間のちゃぶ台の上に、折りたたまれた新聞が置きっぱなしになっている。
父が読み終えたところを、母が洗濯物を干しに立ったすきに、政雄はそっと手に取った。
いつものように社会面と経済面をざっと流し読みしてから、教育欄に目を移す。
端のほうに、小さな枠記事があった。
「家庭の負担を軽くする奨学金制度」
見出しの下に、いくつかの団体名と、簡単な条件が並んでいる。
「成績上位三割」「評定平均四・二以上」「家計基準」——
活字の行間に、いくつかの数字が紛れ込んでいた。
「四・二か」
口の中でだけ、そっと繰り返す。
今の自分の成績表を頭の中で引っ張り出す。
科目ごとの数字を並べ、平均をざっくり計算する。
「今のままでも、届かないわけじゃないけど……」
新聞の隅に書かれた「評定四・二以上」という文字が、
自分のノートの「成績を落とさない」という行と、ぴたりと重なった。
居間から自分の部屋に戻り、「お金と進路ノート」を開く。
前に「バイト」「奨学金」「親に頼るぶん」と分けて書いたページの、余白のところに鉛筆を走らせた。
「奨学金 狙うライン」
「・評定平均 四・二以上をキープ」
「・できれば 四・三〜四・五くらい」
数字だけ並べると、なんだか味も素っ気もない。
けれど、こうして具体的な目印に変えておかないと、日々のテスト勉強がただの「いい点を取りたい」に流れていってしまう。
その下に、もう一行足した。
「模試の判定だけじゃなく、通知表の数字も“資金計画の一部”」
自分でも少し笑ってしまうような言い回しだ。
けれど、前の人生で見てきた社会人たちの背中を思い出すと、あながち間違いでもない。
ノートを閉じる前に、ページの上のほうに、小さく円を描く。
「国立大 自宅通学」
「授業料+入学金 ざっくり60万ちょっと」
「4年間で、父の年収一回分くらい」
その円の外側に、「バイト」「奨学金」「親」と三つの矢印を伸ばした。
どの矢印にも、まだ細かい数字は入っていない。
それでも、さっき新聞で見た「四・二以上」という文字だけは、はっきりと芯になって残っている。
「高一のうちは、とにかく評定を落とさない」
前に書いた一行を、もう一度なぞる。
今日はそれに、「できれば少し上げる」という意味を、心の中でこっそり足しておいた。
ノートをぱたんと閉じると、廊下のほうから母の声が聞こえた。
「政雄ー、お昼食べたら出るんでしょ? そうめんでいい?」
「いいよー」
返事をして、机の上の新聞の切り抜きを、一枚だけノートの間にはさんだ。
白黒の小さな枠記事が、この先何度か、ページをめくるたびに顔を出すことになるのだろう。




