第17話 お金と進路ノート
夏休みが終わって、二学期の時間割に体が慣れ始めたころだった。
日曜の夜、そば屋のバイトから帰って風呂に入り、髪をタオルでごしごしふいてから、自分の部屋にる。
机の上には、いつもの勉強用ノートと、バイト用のメモ帳が並んでいた。
その横のまだ空いているスペースに、政雄は新品の大学ノートを一冊置いた。
表紙の裏に、小さく書く。
「高一・お金と進路ノート」
少し笑ってしまうような題名だが、ほかにうまい言い方も思いつかなかった。
最初のページを開き、上のほうに線を引いて見出しを書く。
「1 家のだいたいの現実」
「2 姉の大学にかかっているお金」
「3 自分が目指す大学にかかるお金」
「4 バイトと奨学金でどこまで埋めるか」
箇条書きにしてみると、それだけで少し胃が重くなる。
けれど、頭の中でぼんやり心配しているよりは、紙の上で順番に並べていったほうが、自分はまだ冷静でいられる。
まずは「1」の欄に、鉛筆で書き始めた。
「父の年収 だいたい 140万くらい らしい」
正確な金額を見たわけではない。
前に、父がぽろっと「ボーナス込でようやく百何十万だ」と愚痴ったのと、新聞の賃金統計の数字、それに母の一言を足し合わせた、あくまで自分なりの見当だ。
「ここから、毎月の家賃と、生活費と、姉の学費と、自分の高校の分が出ている」
そう書いたあと、しばらくペン先が止まる。
次の行に、「2 姉の大学」と書いて、少しだけ深呼吸した。
「入学金 だいたい 7万5千円くらい」
「授業料 年 6万7千円くらい」
姉の入学が決まったとき、ちゃぶ台で父と母が小さな声で話していた数字を、耳だけで拾っていた。
「こんなにかかるのか」と言いながら、父が封筒の中身を何度も数え直していたのを覚えている。
「これが4年分」
と書いてから、「=ざっくりで 30万弱」と横に小さくメモする。
もちろん、教科書代や定期代や何やかんやもかかっているはずだが、そこまで全部書き出すと、ページが黒くなりすぎてしまう。
今は「大学1人分で、このくらい家計に乗っている」という重さだけ分かればいい。
ページの真ん中に、横線を一本引いた。
その下に、「3 自分が目指す大学」と書く。
「国立大 入学金 だいたい 5万円」
「授業料 年 14万4千円くらい」
この数字は、新聞の教育面の隅に書いてあった「昭和五十年代の国立大学授業料の見込み」を、少し前に切り抜いておいたメモから写したものだ。
「4年分だと、入学金込みで ざっくり 60万強」
姉の倍まではいかないが、軽い数字でもない。
「父の年収一回分で、子ども一人を4年間、国立で回せるかどうか、ぎりぎり」
そう書いてみると、さすがに鉛筆を持つ手が重くなった。
ちゃぶ台を挟んで向かいに座っているだけでは、なかなか実感できない重さだ。
紙の上で数字を並べた途端に、「二人目もお願いします」と言うことがどういう意味なのかが、急にくっきりしてくる。
ページの右側の余白に、「下宿は無理。自宅から通える範囲」とだけ追加した。
前から決めていた条件だが、こうして書いておいたほうが、後で自分が迷走せずに済む。
最後の欄、「4」にペン先を移す。
「バイトで貯めるぶん」
「奨学金で借りるぶん」
「親に頼るぶん」
三つの箱だけ先に書いて、しばらく眺める。
「親のところを、できるだけ小さく」
そう書きかけて、いったん消しゴムで消した。
言い方が、なんだか自分の中でしっくりこなかった。
代わりに、少し考えてから、こう書き直す。
「“親が出せるぶん”に、自分がバイトと奨学金で届くようにする」
出せとは言わない。
けれど、「これなら何とかなるかもしれない」と父と母が思えるラインまで、自分で近づいていく必要がある。
そのためには、バイトを増やすだけでは足りない。
成績を落としてしまえば、奨学金のほうの可能性が削られてしまう。
ノートのいちばん下に、細い字で二行書き足した。
「高一のうちは、とにかく成績を落とさない」
「バイトは続けるが、勉強に差しさわりない範囲まで」
今日のところは、これで終わりでいい。
あまり詰め込みすぎると、目の前の現実がただの「嫌な数字の羅列」になってしまう。
ページをぱたんと閉じると、胸のあたりにずしんとした感覚が残った。
けれど同時に、さっきまで頭の中でぐるぐるしていた不安が、少しだけ静かになっているのも分かる。
「知らないふりしてるよりは、マシか」
声には出さずにそう思いながら、新しいノートを机の端に立てかけた。
その背表紙には、「お金と進路」と、少し不格好な字で書かれたラベルが貼ってある。
これから先、ここにどれだけ線と数字と小さな決意を書き足していけるかで、自分の数年後の風景も変わってくるのだろう。
そんなことを考えながら、政雄は勉強用ノートをもう一度開いた。
まずは、次の定期テストで「高一のうちは成績を落とさない」という行を裏切らないことからだ。




