第16話 一言で伝えるということ
姉は、夏休みに入ってから、書店のシフトが少し増えた。
開店前の静かな店内で、山本幸は学生向け文庫の棚の前に立っていた。
棚の端には、小さな紙片がいくつも貼られている。
太いペンで縁取りをして、その中に短い一言を書いた札だ。
「テスト前に読み切れる短さ」
「部活帰りでも頭に入るやさしさ」
「読書感想文が書きやすい一冊」
どれも、長い説明ではなく、背中をちょっと押すための一行だけ。
「ここ、また売れてるねえ」
掃除を終えた店長が、棚をのぞき込みながら言った。
「この前の“夏バテしてても読める本”って札さあ、高校生の子が指さして笑ってたよ。
『まさに今の私だ』って言いながら、その本持ってレジ来た」
「ほんとですか」
「うん。ありがとね。こういう一言、けっこう効くんだよ」
店長はそう言って、札の曲がった端を指で押さえて整えた。
開店してしばらくすると、制服姿の二人組が学生コーナーの前で足を止めた。
「ねえ見て、“課題図書より優しい”だって」
「“宿題に使える一冊”とか書いてある。分かりやすいなあ」
ひそひそ話しながら、札を見ては本を手に取り、表紙をめくる。
幸はレジの後ろからその様子をちらりと見て、何でもない顔で別の棚の整えに戻った。
昼の山が一段落したころ、また学生コーナーに戻る。
自分が書いた札を一枚ずつ見直していく。
「これ、ちょっと長いな」
そうつぶやいて、一枚の札を取り外した。
「“世界観が深い”はいらないか。“一晩で没頭できる”だけでいいや」
余計な言葉を消して、一番伝えたい部分だけを残す。
ペン先を走らせながら、頭の中では本の中身をもう一度めくっている。
「どう書いたら、この本の“ここがいい”って一瞬で分かるかな」
考えていること自体が、パズルの問題を解いているみたいで、案外おもしろい。
誰かがそれを読んで、「あ、自分のことだ」と思ってくれたら、きっと手を伸ばすだろう。
気がつくと、棚の前での時間は、あっという間に過ぎていた。
*
別の日、大学の図書館。
長い机の一角に、参考書と大学ノートとレポート用紙が並んでいる。
幸はシャープペンを指先でくるくる回しながら、自分のレポートの下書きを読み返していた。
「ねえ、幸。このレポートさ、何を書きたいんだか自分でも分かんなくなってきた」
向かいの席で、同じ英文科の友だちが頭を抱えている。
ノートには教科書の抜き書きと自分の感想と、調べたことのメモが、全部同じページにぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
「どれどれ」
ノートを受け取って、ざっと目を通す。
「うん。全部いっぺんに書こうとしてるから、読むほうも大変なんだと思う」
「やっぱり?」
「最初に“これだけ言いたい”って一行だけ決めちゃいなよ」
幸はレポート用紙のいちばん上の行を指で軽く叩いた。
「たとえば、“この作品は○○っていう考え方を通して、××な生き方を肯定している”みたいな。
難しい言葉じゃなくていいから、とりあえず一行」
「一行かあ……」
「うん。その一行が“いちばん言いたいこと”でしょ。
書店の札で言えば『ここがイチ押し』ってところ」
思わず、いつもの棚のことが口をついて出て、自分で少し笑う。
「で、その一行が決まったらさ。
あとはそれを三つくらいのかたまりに分けて説明するだけ」
レポート用紙の余白に、縦に線を三本引く。
「“最初にここ”“次にここ”“最後にここ”って、三つだけ。
この三つでさっきの一行を支えるつもりで書けば、だいたい筋は通るよ」
友だちはしばらく考え込んでから、レポート用紙の一番上にゆっくりとペンを走らせた。
一行書き終えて読み返し、自分で「おお」と小さく声を出す。
「なんか……さっきより、何を書きたいか見えた気がする」
「でしょ。あとは、ここに書いたことの“証拠”を、この三つのところに拾ってくればいいだけ」
「幸の説明、やっぱ分かりやすいわ」
「そんなことないよ」
口ではそう返しながらも、その言い方が嫌いではない自分に、幸は気づく。
書店の棚の前でやっていることと、今ここで友だちに話していることは、
筋だけ見れば、あまり変わらない。
たくさんある情報の中から、「ここが大事」という一点を見つけて、
それを誰かに届く形に整える。
「そういうの、けっこう好きなのかも」
心の中でだけ、そっとそう言ってみる。
*
夕方、図書館を出ると、空はまだ明るかった。
キャンパスの並木道を歩きながら、幸は肩から提げた布のかばんの持ち手を持ち直す。
本を読むのは、前からずっと好きだ。
最近そこに、「この本のどこが好きかを一言で言う」のも、わりと好きだという感覚が加わってきた。
書店の棚で小さな札を書いているときも、
図書館でノートを前に友だちに話しているときも、
自分の頭の中では、同じようなスイッチが入っている気がする。
「本そのものと、本の話をするのと。
両方好きってことなんだろうな、たぶん」
声には出さずにそう思って、駅へ向かう階段を下りた。
*
その日の夜。
バイトから戻った幸が、玄関で靴を脱ぎながらぽつりと言った。
「今日は、“読書感想文が書きやすい本”って札、やたら見てく人が多かったなあ」
居間のちゃぶ台のところで英単語帳をめくっていた政雄は、その一言だけ耳に入ってきた。
姉は、湯のみを手に台所に消えていく。
横顔はいつもどおりなのに、どこか楽しそうだった。
「……姉、楽しそうにやってるな」
ページから顔を上げずに、心の中でだけそう思う。
自分は自分で、そば屋とノートと勉強で手一杯だが、
姉は姉で、「本」と「一言」と「教えること」のあいだに、小さな道を見つけつつあるらしかった。




