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第15話 雨の日の想定外を減らす

昼の少し前までは、なんとか曇りで持っていた。


「今日は降りそうで降らないねえ」


坂口さんが、店の戸口から空を見上げて言った。

薄い灰色の雲が、商店街の上を低く流れている。


「天気予報、当たるかな」


「さあね。外れたほうがありがたいけど」


そう言って笑った次の瞬間だった。


ぽつ、と一粒、路面に濃い丸が落ちる。

そのあとを追うように、同じ丸がいくつも増えていき、あっという間に舗装の色が変わった。


「……来たな」


店主が厨房の奥から顔を出し、空ではなく道路を見る。

屋根の縁から落ちる水が、すぐに筋になって流れ始めた。


ざあっ、と音が一段階大きくなると、ほとんど合図みたいに、店の黒電話が鳴った。


「はい、○○そばです」


店主が受話器を取る。

いつもの常連の名前を聞いて、慣れた調子で返事をする。


「はいはい、お持ちしますよ。天ぷらそばと、ざる一枚ね」


受話器を置く前に、別の呼び出し音が重なった。


「お、重なった」


「はい、○○そばです……ああ、いつもありがとうございます。雨ですからねえ……」


そのあいだにも、店の前を歩く人影は見えなくなっていく。

代わりに、商店街のあちこちから、雨どいを通って落ちる水の音だけが響いていた。


「山本」


電話を切った店主が、濡れた手をふきながら声をかけてくる。


「はい」


「今のが二軒と、さっきの台帳のここ。それから、どんぶり回収が三つ。

雨のうちに一気に片づけたいんだが……どっから回るのが早えかな」


カウンターに出前台帳と伝票がぱたぱたと並べられる。

そこへ、もう一度ベルがかかった。


「はい、○○そば店です……ええ、出前、大丈夫ですよ。ありがとうございます」


店主が再び受話器に向かうあいだに、坂口さんが伝票をのぞき込む。


「うわ、こっち方面ばっかりだ。雨の日あるあるだね。

外出るのやめて、家で食べよって人が増える」


「そうなんですか」


「そうなんだよ。出前減るどころか、増えるんだ、こういう日は」


坂口さんは、書かれた名字と住所を指で追いながら、眉を寄せる。


「んー……これとこれは猫コーナーの先で、こっちは赤ポストの角で……。

どれから行ったほうがいいんだろ」


考えているあいだにも、雨は強さを増していく。

戸口の向こうの景色が、薄い布越しみたいにぼやけた。


政雄は、エプロンのポケットのふちにそっと指をかけた。

中には、いつものルーズリーフの切れ端が入っている。


台帳の名字と、自分の頭の中の地図と、雨の音。

三つを並べて、どこから手をつけるかを決める役目が、今、自分のところに転がってきた。


     *


店を出た瞬間、雨粒が顔にまとわりついた。

店の軒下から一歩外へ出るだけで、空気の温度が一段下がる。


「じゃ、頼んだよ。滑るから気をつけろよー」


戸口から坂口さんの声が飛んでくる。


「行ってきます」


返事をして、カッパのフードを少し深くかぶる。

後ろの荷台のおかもちの中で、どんぶりがかすかに触れ合う音がした。


まずは、猫コーナーの先の二軒。

さっきポケットから出して一度見たメモのおかげで、順番はもう頭に入っている。


ペダルを踏む足に、いつもより少しだけ余計な力が要る。

濡れた路面にタイヤが薄く貼りついて、スピードを出しすぎるなと言ってくる。


商店街を抜けると、例の角が見えてきた。

いつもならコンクリートの出っ張りに猫が寝ているところだが、今日はさすがに空っぽだ。


「さすがに雨の日は休業か」


小さくつぶやきながら、その前を通り過ぎる。

猫がいなくても、場所は体が覚えている。


猫コーナーを過ぎた先の路地を曲がると、表札にさっき伝票で見た名字がかかっている家が見えてきた。

迷いなくブレーキを握り、玄関前の軒下に自転車を滑り込ませる。


「○○そばでーす」


声をかけて、どんぶりをおかもちからそっと抜き取る。

雨に濡れない位置に置き、代金と引き換えに軽く頭を下げる。


一軒目を終えて外に出ると、雨はさっきよりもさらに太くなっていた。

ポケットの地図を取り出さなくても、次に向かうべき角は頭の中にある。


「次は、赤ポストじゃなくて、コンビニ裏」


自分にだけ聞こえるように順番をなぞる。

いつもの「店からスタート」なら赤ポストのほうを先にするが、今日は猫コーナー寄りの二軒から回ると決めている。


雨で視界が悪いぶん、余計な右往左往はしたくない。

信号の手前でブレーキをかけながら、

「この順にしておいて正解だったな」と、心のどこかで思う。


コンビニの明かりが見えたころ、一瞬だけ雨脚が弱くなった。

その隙に裏手の家にどんぶりを届ける。


コンビニ裏から赤ポストへ抜ける細い道には、水たまりがいくつもできていた。

メモを作っていたときに「ここは少し低くて水がたまりやすい」と書き足したことを思い出し、

路肩の高いほうを選んで自転車を進める。


「こういうときだけ、ちゃんと役立つんだよな……」


自分で書いた一行を、雨の中でなぞるような気分になる。


赤ポストの角を曲がると、次の配達先の表札がすぐに目に入った。

普段なら「このへんだったかな」と一度通り過ぎてから戻ってくることもあるが、

今日は最初から迷いがない。


雨で濡れる前にどんぶりを渡し、空いた段に回収用の器を滑り込ませる。

金属の枠が、いつもより冷たく感じられた。


最後の一軒に向かう道すがら、ふと気づく。


ポケットの中の紙は、一度も取り出していない。

それでも、そこに描かれた線は、頭の中でちゃんと生きている。


「先に考えておいたぶんだけ、ここで慌てずに済んでるな」


声には出さずに、心の中でそう言う。


雨は相変わらず強い。

けれど、どこへ行けばいいか分からずに立ち尽くす時間がないだけで、

体感する面倒くささは、だいぶ違っていた。


最後の家でどんぶりを渡し終えたころには、おかもちの中はほとんど空だ。

代わりに、回収した器がいくつか重なっている。


「よし。あとはまっすぐ戻るだけ」


ハンドルを握り直して店のほうへ向かうと、

商店街のアーケードの下だけは、少しだけ雨音が和らいでいた。


その静けさの中で、メモ用紙の上の線と、足でたどった道が、ぴたりと重なっている感覚があった。


     *


店に戻って戸を開けると、だしと湯気の匂いが一気に押し寄せてきた。

濡れたカッパのフードから、ぽたぽたと床に水滴が落ちる。


「ただいま戻りました」


「おう」


店主がちらりと壁の時計を見る。


「この雨でその時間か。悪くねえな。

先にあっちのほう回ったの、正解だったな」


「はい。あっち側、坂が少ないんで」


政雄がカッパを脱ぎながら答えると、

カウンターの向こうで注文を待っていた坂口さんが、ニヤッと笑った。


「ね、言ったとおりの順番で回ったでしょ?

山本君、こういうとき妙に落ち着いてるんだよなあ。段取り考えるの好きでしょ」


「好きっていうか……後からバタバタしたくないだけです」


「それを“好き”って言うんだよ」


坂口さんは楽しそうに笑い、

おかもちからどんぶりを受け取りながら小さく付け足した。


「雨の日の初出前にしちゃ、上出来」


店主も、湯気の向こうから短くうなずく。


「その調子で頼むぞ。こっちも、無駄に走らせずに済む」


その言い方に、政雄は「はい」とだけ返した。

余計なことは言わないかわりに、頭の中で、さっき走ったルートをもう一度なぞり直した。


     *


風呂から上がって、自分の部屋に戻る。

椅子に腰を下ろして、いつものようにバイトノートを開いた。


今日走った道筋は、もう頭の中に入っている。

店から猫コーナー、その先の二軒。

コンビニ裏を回ってから赤ポストの角。

坂を一本分、わざと後回しにしたぶんだけ、足が少しだけ楽だった。


ページの端に、鉛筆で短く書き足す。


「雨の日は、滑りやすい坂を後回し。猫コーナー側から先に回る」


それだけで充分だった。

細かい説明をいくつも書かなくても、この一行だけあれば、次に同じような土砂降りが来たときも、きっと迷わない。


人間は、頭の中だけで全部覚えておこうとすると、どこかで必ず取りこぼす。

だから、忘れてもいいように紙に逃がしておく。


「これで、雨の日の“想定外”が一つ減ったな」


ページをぱたんと閉じると、外の雨音が少し遠のいた気がした。

窓ガラスを打つ粒はまだ止みそうにないけれど、自分の中ではもう、さっきの土砂降りは片づいている。


そば屋のバイトのページは、これでひとまず区切りだろう。

次に増やす線は、きっと別の場所の、別の地図になる。


「さて……こっちの“想定外”も減らさないと」


机の端に積んだ英語と数学のノートに目をやりながら、小さくつぶやく。


バイト用のノートをしまって、勉強用のノートを開く。

仕事も勉強も、結局やることはあまり変わらない――



 そう思いながら、今度は教科書のページに目を落とした。

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