第14話 一覧にしてみるということ
その日曜も、そば屋の仕事は淡々と進んだ。
開店前にのれんを出し、昼の山のあいだは洗い物と配膳に追われ、合間を見ては坂口さんと交代でどんぶりの回収に出る。
出前台帳の名字と、電話の走り書きと、自分のノートの地図を見比べて、いちいち迷わないように順番を組み立てるのも、もう特別なことではなくなってきた。
猫コーナー、赤いポスト、コンビニ裏の布団、白い車の家。
目印は少しずつ増えたが、そのぶん線もつながっていく。
効率よく回る方法を考えて、紙に落として、翌週にはまた少しだけ修正する。
その繰り返しを重ねているうちに、「バイトに慣れる」という言葉の中身が、自分なりに形を持ち始めていた。
昼の山がひと段落したころ、店主がレジ横の台帳をめくりながら、ぼそっとこぼした。
「まったく、佐藤と鈴木と斉藤ばっかり増えやがって……どれがどれだか一瞬分かんなくなんだよな」
その横で坂口が、「“赤ポストの佐藤”“青い自販機の鈴木”って書いときゃいいのに」と笑い、
店主に「そんなメモ、よそ様に見せられるか」と頭をはたかれていた。
カウンターの奥からそれを見ながら、政雄は心の中でだけ、「それでも、線でつないであればだいぶ違うんだけどな」と思う。
台帳の中でばらばらに並んでいる名字と住所は、誰かの頭の中でひとつひとつ拾い上げてやらないと、順番にならない。
紙の上に位置関係さえ描いておけば、「あとは見れば分かる」に変わる。
どっちが楽かは、考えるまでもない。
頭の中だけで全部抱えようとすると、どこかで必ず取りこぼす。
前にも、似たような場面を何度か見てきた気がする。
だから今は、出前台帳と電話メモを一度自分のノートに落としてから動く。
仕事の流れを紙に並べ替えてから足を動かすほうが、結局は早いと知っているからだ。
その日も、そんなふうにして、そば屋の日曜はいつものように過ぎていった。
*
バイトから帰って風呂に入り、髪を拭きながら居間に行くと、ちゃぶ台の上には夕飯の名残がまだ少し残っていた。
父はすでに腹をさすりながら座椅子に座り、新聞を広げている。
母は台所で食器を片づけていた。
「今日もバイト、無事に終わった?」
母が笑いながら顔だけ出す。
「今日は配達なかったよ。どんぶり回収だけ」
「そうなの。まあ、慣れないうちはそのくらいがちょうどいいわ」
政雄は「そうだね」と返しつつ、ちゃぶ台の端に座って、父が読み終えたほうの新聞を手に取った。
紙面の活字を追いながらも、頭のどこかではさっきまでの地図のページがちらついている。
台所から皿を重ねる音がして、風呂場からはまだ湯気のにおいがかすかに残っている。
日曜の夜の、いつもの匂いだ。
そのとき、玄関の戸ががらりと開いた。
「ただいまー」
姉の声がする。
バイト帰りの、少し疲れているけれど機嫌は悪くなさそうな声だ。
「おかえり。ご飯、そのまま置いてあるから、温めて食べなさいよ」
母が台所から返事をする。
「はーい。あとで食べるー」
靴を脱ぐ音、廊下を通る足音。
居間のふすまが開いて、姉が顔をのぞかせた。
「お、政雄いた」
制服の上に薄いカーディガン。
片手には、店のエプロンが丸めてぶら下がっている。
「ねえ政雄、この前あんたが教えてくれたアレ、お客さんに評判でさ。店長に褒められちゃった」
「アレ?」
政雄が新聞から顔を上げる。
アレとは、この時代にはまだあまり見かけない、書店のおすすめPOPのことだ。
小さな紙にちょっと目立つ縁取りをして、一言で客の心をつかむ、あの手のやつ。
数日前、姉が珍しくノートを手にして政雄の部屋に来た。
『学生向けの棚、一つ任されたんだけどさ』
『どう並べたら、手に取りやすいと思う?』
そう聞かれて、政雄は、たいしたことは言っていない。
『一冊につき一言だけにすれば? ごちゃごちゃ説明しないで、いちばん伝えたいところを短く』
『紙のまわりにちょっと太い線で囲いを作って、その内側に文字を書けば目立つと思う』
『“テスト前に助かる一冊”とか、“通学中に読める短さ”とか、学生が自分のことだと思う言い方にするとか』
思いつくかぎりの「こうしたほうが分かりやすい」を口に出しただけだ。
姉は「ふーん」とか「なるほどね」とか言いながらメモを取り、何度か書き直してからバイトに出ていった。
それが、今になって戻ってきたらしい。
「え、あの小さい紙のやつ?」
「そう、それ。学生コーナーの本にちょこちょこ付けてみたんだけどさ、今日、
『この札、分かりやすくていいね』ってお客さんに言われて。
ついでに店長にも『よく考えてるな』って褒められちゃった」
姉は自分のことのように、でも少し照れくさそうに笑う。
「そうなんだ。よかったじゃん」
「うん。あんた、たまに面白いこと考えるわよね。ありがと」
さらっとそう言って、姉はまたふすまを閉め、台所のほうへ消えていった。
エプロンの布が小さく揺れるのが見えた。
「……たまに、か」
政雄は苦笑して、手元の新聞をたたんだ。
ちゃぶ台の向かい側では、父がさっきから新聞を読むふりをしながら、ほとんど全部聞いていたらしい。
ページをめくる手を止めて、少しだけ顎をさする。
「そうか。二人とも、ちゃんと頑張ってるんだな」
独り言みたいな声で、ぽつりとこぼす。
少し間をおいてから、新聞をたたみ直しながら続けた。
「……俺も、もうちょっと残業増やすか」
誰に向けてというわけでもなく言ったその一言に、
政雄は、新聞の活字よりもはっきりとした重みを感じた。
給料の明細が劇的に変わるわけじゃない。
それでも、「今より少しでも良くしよう」と思ってくれたこと自体が、大きな変化だ。
「体、壊さない程度にね」
台所から母が顔だけ出して、笑いながら言う。
「分かってるよ。お前こそ、無理すんなよ」
「私も、少しなら動けるよ。前に話してた、昼の配達の仕事、もう一回チラシ見てみようかな」
母の言う「配達」は、まだ具体的な何かではない。
けれど、その声の色には、ほんの少しだけ新しい力が混じっていた。
姉は、本の並べ方と小さな紙切れで、知らない誰かの一日を少し楽しくしている。
自分は、そば屋の地図とメモで、仕事を少しだけ回しやすくしている。
父と母は、その姉と自分を見て、今よりもう一歩だけ前に出ようとしている。
居間の空気が、前よりわずかに前向きに傾いた気がして、政雄は折りたたんだ新聞をちゃぶ台の端に置いた。
あしたもまた、そば屋の台帳に名前が増え、本屋の棚に本が並び、父は会社に行き、母は家事を回す。
その繰り返しの中で、自分たちはどこまで線を増やしていけるのか。
「……とりあえず、英語の単語からだな」
そう小さく呟いて立ち上がると、母が「宿題、ちゃんとやりなさいよ」といつもの調子で背中に声を飛ばした。
その何でもないやりとりの奥で、家全体が少しずつ動き始めている気配を、政雄だけが少しだけ具体的に感じていた。




