第13話 配達と回収と、地図の書き足し
日曜日の昼の山が、どうにか一段落したころだった。
「山本」
どんぶりを下げていたところで、店主に呼び止められた。
「はい」
「さっきの山田さんと佐藤さんな、それから○○商店。どんぶり回収行ってこい。
ついでに、この一軒、配達してこい」
店主が、出前用の小さな伝票をひらりと差し出した。
品書きには「天ぷらそば一」とある。
「配達、ですか」
「おう。言っとくけど、回収より配達が先だぞ。
出前は温かいうちに運んでなんぼだ」
「はい」
「近場の常連だから、大丈夫だよ」
カウンターの奥から、坂口さんがひょいっと顔を出した。
「そこ、ほら、この前一緒にどんぶり回収したときに通った道の、ちょっと先。
山本君の地図にも、たぶん書きこめる」
エプロンのポケットの中には、折りたたんだルーズリーフの切れ端が入っていた。
前回回収のときに自分で描いた「回収ルートの地図」を、必要なところだけ簡略に写したものだ。
昨夜、念のためと思って、今日頼まれそうな三軒の位置に小さな丸をつけておいた。
その丸の外側に、今、店主から渡された配達先の名字を書き足す。
鉛筆の先で、その名字のところを一度軽くなぞってから、紙をポケットに戻した。
「山田さん、佐藤さん、○○商店……と、新しい一軒」
心の中で順番をもう一度確認する。
「配達優先、回収はそのあと」
自分に言い聞かせるように呟いてから、店の脇に立てかけてある自転車のところへ向かった。
*
自転車の後ろの荷台には、四角い金属の枠で組んだおかもちが据え付けてある。
何段かの棚になっていて、どんぶりを横から差し込めるようになっていた。
「じゃ、これ入れよっか」
坂口さんが、厨房から持ってきた天ぷらそばのどんぶりを、そっとおかもちの一段目に滑り込ませる。
内側の棒に軽く当たって、かちゃりと小さな音がした。
「最初はちょっと怖いけど、案外平気だから。
段差でジャンプしなきゃだいたいこぼれないよ」
「ジャンプはしないです」
「それなら大丈夫」
まるでそれが安全基準みたいな言い方だ。
「配達先、分かるかい?」
「昨日、少し地図に書き足しました。
たぶん、この道をまっすぐ行って、猫コーナーよりちょっと先です」
「お、猫コーナー基準で考えられるようになってきたね。
じゃ、行ってらっしゃい。そば落とさないでね」
「はい。行ってきます」
自転車にまたがって、一度深呼吸をする。
まずは配達。
そのあとで、回収三軒。
頭の中で順番をもう一度並べてから、ペダルを踏み出した。
*
店の前の通りをまっすぐ行き、二つ目の角を左。
そこから少し行ったところに、あの「猫コーナー」がある。
コンクリートの出っ張りの上で、今日も三毛の猫が丸くなっていた。
「ほんとにいつもいるな……」
思わず小さく呟きながら、その横をゆっくり通り過ぎる。
おかもちの中でどんぶりが揺れないように、ペダルにかける力を少し抜いた。
ポケットの中の紙の存在を意識しながら、頭の中の地図を呼び起こす。
猫コーナーからさらにまっすぐ進んで、つき当たりを右。
その先の角をもう一度曲がったところに、今回の配達先の名字を書いた四角を描いていた。
実際の道のほうにも、同じ形の角が現れる。
「あったな……この家だ」
古い木造の二階建て。
玄関脇の棚には、招き猫やら干支の置物やらがずらりと並んでいる。
「○○そばでーす。天ぷらそば、お届けに来ました」
玄関の前で声をかけると、「はーい、いま開けまーす」と賑やかな声が返ってきた。
ガラガラ、と戸が開く。
「はいはい、お待たせ。……あら、今日は見ない顔ね?」
出てきたのは、髪をひとつにまとめたおばちゃんだった。
エプロン姿で、片手にはすでに小銭が握られている。
「○○そばからお届けに来ました。山本です」
「あら、ちゃんと名乗れるのねえ。最近の子にしちゃえらいわあ」
おばちゃんは、わざとらしいくらい大きく頷いた。
「高校生? どこの学校?」
「ええと、○○高校です」
「まあ、頭いいところじゃないの。
うちの孫に聞かせてやりたいわよ。あの子なんかゲームばっかりでねえ」
「はあ……」
返事をしているあいだに、おばちゃんは代金を器用に数え、政雄の手のひらに載せてきた。
「はい、これね。おつりないように用意したから。
そこの台の上に置いといてちょうだい」
「ありがとうございます」
玄関の中の小さな台に、どんぶりをそっと置く。
「転ばないように気をつけて帰るのよ。
ここでひっくり返したら、あんたもお店も大損だからねえ」
「気をつけます」
「また来てね、山本君。あ、勉強もちゃんとしなさいよー」
最後まで調子を落とさずに、言いたいことを全部言ってから、戸を閉めた。
玄関の前に残されたのは、置物の招き猫と、少し笑いそうになる自分の口元だけだ。
「……賑やかな人だな」
小さく息を吐いて、自転車のハンドルを握り直す。
配達は、思っていたほど怖くはなかった。
むしろ、おばちゃんの勢いに押されているあいだに、緊張がどこかへ逃げていったような気がする。
「よし。次は回収三軒」
そこで、ふと気づく。
さっきまで頭の中で組んでいた「回収ルート」は、店から出ることを前提にしていた。
今、自分がいるのは、そのスタート地点から少し外れた場所だ。
「この位置から、どこに向かうのが一番近いんだろ」
自転車を路地の端に寄せて止め、エプロンのポケットからメモを取り出した。
*
紙には、雑な線と四角と単語が並んでいる。
真ん中に「店」。
その右側に「赤ポスト」と「山田」。
少し下に「コンビニ」と「佐藤」。
左下に「○○商店」。
その横に「白い車」。
猫の絵とも文字ともつかない「猫」。
紙の外れに、さっき配達したおばちゃんの名字が小さく書き足してある。
「今いるのが、ここらへんで……」
指先で、その名字のあたりをとんとんと叩く。
そこから店に戻るルートと、途中で回収三軒に寄るルートを、目で追いかけていく。
「おばちゃんの家からだと、まず山田さんより、佐藤さんのほうが近い、かな……」
地図の縮尺は適当だが、位置関係のイメージは頭の中に残っている。 猫コーナーに戻ってからコンビニの裏へ抜けるほうが、赤いポストまで一気に戻るよりも少し近そうだ。
紙の上に、「今ここ」と小さく×印をつける。
そこから矢印を一本、「猫」に向けて引いてみる。
「猫コーナーを通って、コンビニ裏が佐藤さん、赤ポストが山田さん、○○商店が最後」
口の中で順番をなぞってみる。
店に一直線に戻るルートとは違う形の線が、紙の上に一つ増えた。
「……まあ、やってみるか」
メモをポケットに戻し、自転車にまたがる。
まずは、さっき通ってきた道を少し戻る。
角を二つ曲がると、すぐに猫コーナーだ。
さっきと同じ場所で、同じ猫が、同じように丸くなっている。
「お前、仕事してるな……」
思わず、猫に向かって小さくつぶやいてしまう。
そこから道を曲がり、コンビニの裏手へ。
二階のベランダに布団が干してある家が、目印どおりに現れる。
「こんちはー。どんぶり回収でーす」
玄関先には、さっき配達に使ったのと同じ形のどんぶりが三つ重ねてあった。
それらをおかもちの空いている段に横から差し込んでいく。
金属の枠が、どんぶりをしっかり受け止める感触が手に伝わる。
今度は赤いポストの道へ向かう。
思っていたよりも、距離は短い。
「やっぱり、こっちから回るほうが近いな」
赤ポストの向かいで山田さんのどんぶりを回収し、最後に○○商店のシャッター前に立ち寄る。
シャッターの前には、やはりどんぶりが二つ。
おかもちの残りの段に納めると、金属の箱の中がじわりと重くなった。
「よし。全部回収」
おかもちの中身を見渡してから、店に向かってハンドルを切った。
*
「ただいま戻りました」
店に帰りついて戸を開けると、だしの香りと湯気がまた押し寄せてきた。
「おう、山本。早かったじゃねえか」
店主が、ちらっと時計を見る。
「ちゃんと、配達先を先に回ってきました」
「それが当たり前だ。配達は待たせんな。
回収は、まあ、多少前後しても死にはしねえ」
「はい」
カウンターの端でおかもちを荷台から外し、中のどんぶりを下ろしていると、坂口さんが近づいてきた。
「おかえり。どうだった、初単独配達」
「扉の向こうから、すごい勢いでしゃべる人が出てきました」
「ああ、あそこね。賑やかだったでしょ」
「高校どこだとか、孫がゲームばっかりだとか、いろいろ聞かれました」
「それ、それ。あそこ、しゃべり相手に飢えてるからさ。でも、悪い人じゃないでしょ」
「はい。最後、『勉強もちゃんとしなさいよー』って言われました」
「完全に孫ポジションに入ってるね、もう」
坂口さんは笑いながら、どんぶりをシンクのほうに運んでいく。
「で、猫コーナーは? ちゃんと仕事した?」
「……一応、通りました。目印としては、まあ、役に立ちました」
「ほら見ろ。あいつがこの街のランドマークだから」
「そんな大役、猫に背負わせないでください」
「大丈夫大丈夫。本人は毎日寝てるだけだから」
猫本人、という表現が正しいのかどうかはともかく、悪くないルートだったのは確かだ。
「山本、次からもだいたい今の要領でやれ。
配達が先、そのあとで回収な」
「はい」
店主の一言で、今日のルートが一応の「合格」をもらった気がした。
*
その日のバイトが終わるころには、外はすっかり夕方の光になっていた。
「お疲れさん、山本。また来週も頼むぞ」
「ありがとうございました。お疲れさまでした」
「山本君、おつかれー。今度、猫コーナーの先の道も教えるからさ」
「まだ増えるんですか」
「街は広いんだよ」
坂口さんの言い方は軽いが、そのぶん、未来の仕事量も軽く増えていく気がした。
店を出ると、外の空気は、昼よりも少しだけ涼しくなっていた。
自転車を押しながら、さっきのルートを頭の中でなぞる。
店からおばちゃんの家。
そこから猫コーナーを経由して、コンビニ裏の佐藤さん。
赤ポストの山田さん。
シャッターの○○商店。
「店から始まらない回収って、こういう感じか」
自分の足跡が、頭の中の地図の線と少しずつ重なっていくのを感じる。
*
家に帰ると、手を洗ってから自分の部屋に入った。
椅子に腰を下ろし、エプロンのポケットから折りたたんだ紙を取り出す。
バイトノートの「回収メモ」のページを開き、その上に今日の紙を広げてみる。
「こっちが、店スタートの回収ルートで……」
前に書いた矢印は、すべて「店」から始まっている。
店から山田、佐藤、○○商店。
あるいは、店から佐藤、山田、○○商店。
今日ポケットに入れていた紙には、その外側におばちゃんの名字の四角と、そこから猫コーナーに向かう矢印が一本足されている。
「今日は、ここからスタートしたんだよな」
鉛筆で、「店」ではなく、おばちゃんの家の四角のところに小さく×を書き込む。
そこから猫コーナー、佐藤、山田、○○商店へ向かう矢印を、もう一度なぞり直す。
「同じ地図でも、どこから歩き始めるかで、矢印の向きが変わるのか」
言葉にしてみると、当たり前のことのようにも聞こえる。
けれど、自分の足で一度たどってから紙に戻してみると、その当たり前が少しだけ違って見えた。
ページの端に、小さく書き足す。
「配達が先に一軒入るときは、配達先から一番近い回収先を起点にする。
店スタートのときと、ルートの形が変わる」
書いてから、自分で少し笑う。
「何、そんなに真面目に分析してんだろ」
そば屋のバイトノートとは思えない文言だ。
でも、こうやって矢印を増やしていくと、「次に同じようなパターンが来たとき、ちょっとだけ楽になるかもしれない」と思える。
楽をしたいからこそ、少しだけ考える。
考えたことを、忘れないように紙に落としておく。
「ないよりは、あったほうがマシだな」
鉛筆を置いて、ノートをぱたんと閉じる。
机の反対側には、まだ真っ白に近い英語と数学のノートが積まれている。
そっちも、そのうち同じくらい矢印やら単語やらで埋めていくことになるのだろう。
「まあ、とりあえず今日は、バイトのほうの“予習復習”は終わりってことで」
そう呟いてから、英語の教科書を一冊手に取る。
日曜の夜。
そば屋の出前とどんぶり回収と、手帳の中の線の数が、少しだけ増えた。
その増えた線のぶんだけ、自分が動ける範囲も、ほんの少しだけ広がった気がした。




