第12話 どんぶり回収と手帳の地図
日曜日の午後一時を少し回ったころ。
昼のピークはどうにか越えたが、厨房にはまだ湯気がこもっていた。
「山本、いったん手ぇ止めろ」
洗い物の山とにらめっこしていたところで、店主に呼ばれる。
「はい」
「坂口と一緒に、どんぶり回収行ってこい。
きょう道覚えときゃ、そのうち一人で回れる」
「了解。山本君、ついに外の世界デビューだね」
カウンターの奥から、坂口さんがにやっと笑って顔を出した。
エプロンの紐をきゅっと締め直している。
「えーと……皿洗いは」
「そんなもんは後回しだ。どんぶり戻ってこねえと、そもそも盛れねえだろ」
「はい。行ってきます」
「山本君、こっちこっち。自転車出すよ」
店の横の細い路地に、出前用の自転車が二台並んでいる。
前カゴは大きくて、どんぶりを載せる金属の枠が付いていた。
「今日は俺が漕ぐから、山本君はどんぶり係。
道は歩きながら説明する感じで」
「お願いします」
「よし、じゃあ行きますか。出前回収ツアー、スタート」
ツアーというほど優雅なものではない気がするが、口に出さずに、政雄は自転車の後ろについた。
*
「まず、山田さんちね」
店を出てすぐの交差点を右に曲がりながら、坂口さんが前を指さす。
「この道、まっすぐ。二つ目の信号の手前。
角に赤いポストがあるから、その向かいの二階建て」
「赤いポストの向かいの二階建て……どのポストも赤いけど」
「ポストの斜め向かい、って覚えてもいいけど。まあそのへん」
説明が途中からざっくりになる。
「坂口さん、それで忘れないんですか」
「忘れない、忘れない。赤いポストって言えば大体分かるし」
本当にそんなものでいいのか、と思いながら、頭の中で「赤いポスト」「向かいの二階建て」と繰り返す。
ほどなく、信号の手前に赤いポストが見えてきた。
その向かいの家の玄関先には、さっきまで使っていたどんぶりが二つ、静かに積まれている。
「こんちはー、○○そばでーす。どんぶりもらいまーす」
坂口さんが声をかけて器をカゴに入れる。
「ここが山田さん。『赤ポスト向かいの二階建て』ね」
「はい」
「じゃ、次。佐藤さん」
自転車を押しながら、踵を返す。
「さっきの赤ポストから、今度はこっちの筋。
あのコンビニ見える?」
「あの角の、ですね」
「そう、それ。コンビニの裏。
ベランダにだいたい布団が干してある家」
「コンビニ裏の布団の家……」
「うん。布団なかった日もあった気がするけど、まあ、だいたいそんな感じ」
目印がそこまで信用ならない。
「布団なかったらどうするんですか」
「そのときは“布団があるはずの家”ってことで探す」
「余計ややこしくないですか、それ」
「細かいこと気にしてると、足が動かなくなるから」
そんな理屈で押し切られているうちに、コンビニの裏に回り込む。
二階のベランダにはタオルと布団が並び、玄関の脇には出前の盆とどんぶりが三つ重ねてある。
「こんちはー。どんぶりいただきます」
また同じ調子で器をカゴに納める。
さっきまで、台帳の上ではただの「山田」「佐藤」だった文字に、具体的な家と色と匂いがくっついていく。
「山本君、ここまでオッケー?」
「山田さんが赤いポストの向かいで、佐藤さんがコンビニ裏の布団の家、ですよね」
「それそれ。完璧」
本当に完璧なのかは分からないが、とりあえず合格はもらえたらしい。
「台帳には、名前だけですよね」
「ああ。うちの人間にはそれで十分なんだよ。
目印は、頭と口でどうにかしてる」
「“青自販機角”とか」
「あー、あれもあったね。あそこも、そのうち一緒に行くよ。
“青自販機のとこ”って覚えとけば、九割なんとかなる」
「残りの一割が怖いんですけど」
「残りの一割で、また覚え直すの。経験値ってやつ」
経験値、という便利な言葉で片づけられる。
*
「次、○○商店ね」
そう言いながらも、坂口さんのルート取りは、きれいな円を描くわけではない。
「そっちじゃないんですか」
「いや、あっち先行くと、地味な坂がね。
心がちょっとだけ削れる坂があるから、帰りにする」
「心が削れる坂」
「そう。体力じゃなくて、心にくるやつ」
言われてみれば、通学路にも一つだけ「見るだけでうんざりする坂」があった。
その感覚は、なんとなく分かる。
「バイト続けるにはね、そういう地味なダメージを避けるのも大事なんだよ。
“このルートだと、なんとなく嫌”ってのを減らしとくの」
「バイト継続性の問題ですか」
「そうそう。そこんとこ軽く見てると、ある日パタッと来なくなるから」
言うことはゆるいのに、たまに中身が妙に現実的だ。
「ここが○○商店。シャッターにほら、でかく店名出てるでしょ。
その前にどんぶり置いてあるじゃん」
「本当ですね」
「で、あそこの角曲がった突き当たりが△△さん。
白い車の家」
「白い車の家……また不安定な目印ですね」
「大丈夫大丈夫。白い車がいなくなったら、“前に白い車がいた家”ってことで覚えればいいから」
「だから、それがややこしいんじゃ」
「細かいことは、現場でなんとかなる」
どんぶりを回収しながら、そんな会話を続ける。
そのうち、坂口さんがふと思い出したように、別の路地を指さした。
「あ、そうだ。山本君、あそこの角も覚えときなよ。
いつも野良猫が昼寝してるところね」
見ると、コンクリートの出っ張りの上で、三毛猫が丸くなっていた。
「いや野良猫が目印って……」
「けっこう有能だよ? 猫いない日でも、『猫がいそうな角』って感じで分かるから」
「抽象度が高すぎます」
「抽象で覚えるのが、先輩流」
胸を張るほどのことではない。
「真面目にやるときは、電柱の番号とかも見るけどね。
でも、まずは“猫コーナー”ってイメージでいいよ」
「猫コーナー……」
心の中で繰り返しながら、政雄は路地の形と家並みを目に焼きつけようとする。
*
回収ルートは、いわゆる「最短距離」ではなかった。
坂を避ける。
ついでに寄れる家を思い出す。
さっきの出前の方向と、次に出そうな注文も、なんとなく頭に入れているらしい。
地図アプリのルート検索とは別の意味で、効率的といえば効率的だ。
「よし、今日の分の回収はこんなもんかな。
あと一軒は帰り道のついで」
「ついで」
「うん。あの信号の向こう曲がったとこ。
店に戻る途中だから、覚えとくといいよ」
最後の一軒を回収して、店に戻る。
「おかえり。どんぶり、足りそう?」
おかみさんが、シンクから顔だけこちらに向けた。
「一通り回ってきました」
「山本君、迷子にならなかった?」
「まだ坂口さんの後ろについていくだけなので」
「そのうち置いてくから安心して」
相変わらず安心できない言い方をする。
「山本、来週からは近場の二、三軒は一人で行かせっからな。
今日回ったとこ、ちゃんと頭ん中に地図作っとけ」
「はい」
頭の中に地図を作る。
言葉にすると簡単だが、実際にやるとなると、情報量はかなり多い。
名前。
家の見た目。
目印。
通るべき道と、避けたい坂。
野良猫。
「一回で覚えろとは言わねえよ。迷ったら電話しろ」
店主の声に、少しだけ肩の力が抜けた。
*
その日のバイトが終わったころには、店の外は西日が強くなっていた。
「お疲れさん、山本。また来週な」
「ありがとうございました。お疲れさまでした」
「山本君、おつかれー。また猫コーナーで待ってるから」
「猫は坂口さんの部下じゃないですよ」
軽口を交わして、店を出る。
外に出ると、空気の熱の質が店の中と違っていて、少しだけ頭が軽くなった。
でも、足にはちゃんと一日の仕事の重さが残っている。
歩き出すと、さっき回った道の一部が、この帰り道と重なっているのに気づく。
「あの角の向こうが山田さんで、あっちの裏が佐藤さんで……」
頭の中でルートをなぞりながら、家に向かう。
ただの住宅街だった道に、「赤いポスト」「布団」「白い車」「猫」というラベルが貼られていく感じが、ちょっと面白かった。
*
家に着くと、玄関で靴を脱ぎながら、さっきまでの景色を逃がさないようにする。
自分の部屋に入って、シャツを脱ぎ、椅子の背もたれに引っかけた。
ベッドに沈み込みたい誘惑をどうにかやりすごし、机の上のルーズリーフを引き寄せる。
「えーと、店がここで……」
新しいページの端に四角を描き、「店」と書く。
そこから一本、通りを伸ばす。
途中に小さな四角を描いて、「赤ポスト」とメモする。
「ここが赤いポストで、その向かいが山田さん」
ポストの反対側に、また四角を描き、「山田」と書き込む。
別の方向に線を伸ばして、「コンビニ」と書き、その裏に「佐藤」。
シャッターの店には「○○商店」、その先の角に「白い車」、さらに枝分かれした先に小さく「猫」とだけ書く。
「猫コーナー……」
文字にしてみると、ますますよく分からないが、頭の中ではちゃんと場所が浮かぶ。
今日一緒に回った出前先の記憶を頼りに、線と四角と単語だけで、ざっくりとした地図を埋めていく。
正確な地図ではない。
縮尺も方角も怪しい。
それでも、自分の足で回った感覚は、それなりに紙に残る。
「こうしてみると、けっこうコンパクトだな」
店を中心に、小さな円の中に名前が集まっている。
バラバラだった「山田」「佐藤」「○○商店」「猫コーナー」が、一つの紙の上に並んでいるのを見ると、少しだけ安心した。
「回収する順番、もうちょい楽な並べ方あるよな……」
呟きながら、店と家々の間に矢印を描いていく。
さっき実際に回った順番を線でなぞったあと、別の並べ方も試してみる。
「ここを先に回って、こっちをあとにすれば、坂一個減るかも」
線をあっちこっち引き直しながら、何パターか書いてみる。
完璧な正解を出したいわけではない。
ただ、自分が今後できるだけ迷わず、できればしんどい坂を減らして回れたら、それでいい。
「要するに、自分が楽したいだけなんだよな、これ」
言葉にしてみると、妙にしっくりきた。
店のために、という大きな話ではない。
そこまでたいそうなことを考えているわけでもない。
自分がバイトを続けるうえで、ちょっとでも楽で、ちょっとでもミスらないように。
そのための、自分用の地図だ。
ページの隅に、小さく書き足す。
「回収メモ:赤ポスト、コンビニ裏、白い車、猫コーナー。
坂の少ない順番を探す」
それだけ書いて、ペンを置いた。
バイト用のノートが、教科書のノートより先に、どんどん埋まっていく。
少しだけ罪悪感はあるが、それ以上に「これを書いている時間がいちばん頭を使っている気がする」のも事実だ。
「まあ、これも勉強ってことで」
そうごまかしながら、ルーズリーフを閉じる。
机の反対側には、まだ空白の多い英語と数学のノートが積まれている。
そちらも、そのうち同じくらい埋めていかないといけない。
とりあえず今日は、バイトのほうの「宿題」は済んだ。
「次のどんぶり回収までに、この地図、頭に入れとくか」
自分にそう言い聞かせて、政雄は英語の教科書を一冊だけ開いた。
日曜の午後。
どんぶりと野良猫と手描きの地図で、高一の春が少しずつ形になっていく。




