第11話 そば屋の昼は、第二の教室
日曜日の昼前。
そば屋の引き戸を開けると、だしの香りと湯気が一気にまとわりついてきた。
「おはようございます」
「おう、山本、来たな。さっさとエプロンしな」
カウンターの向こうから、店主が短く声をかける。
白い割烹着に、少し渋い声。
その横で、おかみさんがすでに洗い物の山と格闘していた。
「山本君、テーブル二つ入ったよ。奥と真ん中」
「はい」
政雄は、壁に掛かったエプロンを手早く身につけ、コップとメニューを持って店内に出る。
四人がけのテーブル席がいくつか。
壁際には小上がり。
その奥に、小さな座敷。
まだ全席埋まっているわけではないが、もうすぐ「戦場」になるのが分かる。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
水を出してメニューを置くと、すぐに客のほうから声がかかった。
「天ぷらそばと、ざるそば。大盛りで」
「天ぷらそば一つと、ざるそば大盛り一つですね」
復唱してからカウンターへ戻り、小さな店内用の伝票に書き込む。
テーブル番号と注文を書いた紙を、厨房側に滑らせる。
「テーブル三、天ぷら一、ざる大です」
「おう」
店主が、鍋から立つ湯気の向こうで短く返事をした。
そのとき、電話が鳴る。
「はい、○○そばです──ああ、はい、いつもの」
おかみさんが、受話器を肩にはさみながら、もう片方の手で出前用の伝票に走り書きしていく。
聞き取った注文を、慣れた調子で紙に落としていくのを見るのも、だいぶ見慣れてきた光景だ。
「また山田さん? 出前ね」
「うん。二階の角のとこ」
カウンターの端には、出前用の台帳が一冊置いてある。
今日の日付のページには、時間と名前と注文が縦に並んでいた。
「山田」「佐藤」「○○商店」──常連らしい名前が、上から順に並んでいる。
政雄は、そゆうものかと気にもしない。
今の主な仕事は、
・店内の水出しと片付け
・出前用の器や盆の準備
・洗い物の手伝い
あたりだ。
「山本、そっちのテーブル、片付けとけ」
「はい」
空いたどんぶりとコップと箸立てを一気に持ち上げ、慎重に厨房に運ぶ。
残り物をざっと分け、シンクに重ねていく。
お湯のはねる音。
そばをすする音。
電話のベルと注文の声。
全部が一緒くたになって、日曜の店内は朝からすでに賑やかだ。
「いい感じに、戦場だな」
心の中でそうつぶやいて、もう一度ホールに出る。
*
「すみません、出前お願いしたいんですけど」
カウンターに、近所のおばさんが顔を出した。
「あいよ。どちらさん?」
「○○通りの、青い自販機の角曲がったとこ」
「ああ、あそこね。天ぷら二つね」
すでに完全に常連扱いである。
おかみさんが電話のときと同じ調子で伝票に書き、台帳の今日のページにもさらさらとメモを足す。
時刻と名前と注文。
その横に、「青自販機角」とだけ、小さく書き添えられる。
「坂口、出前いけるか」
店主が厨房の奥に声をかけると、奥からエプロン姿の青年が顔を出した。
「はいよ」
髪を軽く後ろで結んで、片耳に小さいピアス。
別の高校の二年生、坂口さんだ。
「坂口さん、これ、さっきの山田さんと一緒の方向だよね?」
「だね。まとめて行ってきます」
坂口さんは、出前用のどんぶりが並んだカウンターをざっと見渡し、器を盆に載せていく。
どんぶりの前には伝票代わりの小さな紙が立てかけてあって、それを軽く確認しては手際よく並べていく。
「じゃ、山田さん、○○商店、それから青自販機んとこ、行ってきます。
山本君、あとは店内よろしく」
「はい。いってらっしゃい」
政雄が頭を下げると、坂口さんは「行ってきまーす」と明るく言って、戸をがらりと開けて出ていった。
その背中を見送りながら、政雄はカウンターの上を見回す。
さっきまで山のように並んでいた出前用の器は、いったんきれいに消えた。
今は、店内用のそばが次々と出来上がっていく番だ。
注文の声と、厨房の動き。
それに、台帳と伝票。
何とか回っている。
けれど、ときどき「ギリギリだな」と感じる瞬間がある。
*
「テーブル四、かけそば一、ざる一ね」
「はい」
注文を復唱して店内用の伝票に書き、厨房に滑らせる。
すぐに別のテーブルから「すみませーん」と声が飛んでくる。
忙しい時間帯は、とにかく声と紙が飛び交う。
電話が鳴る。
おかみさんが出て、耳と手を同時に動かす。
「はい、○○そば店です。……あ、はいはい、佐藤さんね。今日も二階で?」
「佐藤さん、うどん二つ、出前ね」
「はーい」
台帳には、時間と名前と品物が簡潔に書き足されていく。
方向や距離は、書いていない。
書かなくても、この店の人たちには「佐藤さんはあの辺」「山田さんはこっち」と自然に分かるからだ。
「これ、覚えるの、ちょっと時間かかりそうだな」
器を拭きながら、政雄はちらっと台帳を見て思う。
あとでじっくり見返せば、「きょうはこの辺からの注文が多かったんだな」とかは分かりそうだ。
でも、ピークの真っ最中に、ノートを広げて考える余裕はあまりない。
「山本、そっち下げてくれ」
「はい」
店主の声に現実に引き戻される。
テーブルを片付けていると、入り口の戸ががらりと開いた。
「いらっしゃいませ」
反射的に声をかけると、「お、新人いるな」と笑って入ってきたのは、近所の常連らしい男性だった。
新しく覚える顔と、見慣れた顔。
日曜の昼は、人と器と紙の行き来で、気づけば時間が流れていく。
*
昼の山がひと段落したころ。
出前から戻ってきた坂口さんが、額の汗を拭きながらカウンターの中に戻ってきた。
「ふー、さすが日曜だわ」
「お疲れさまです」
「ただいま。山本君、だいぶ慣れてきたね」
「皿はだいたい落とさなくなりました」
「それ、めっちゃ大事」
坂口さんは笑いながら、戻ってきたどんぶりをシンクの近くに重ねていく。
「さっきの青い自販機の角って、どのへんなんですか」
政雄は、手を動かしながら前から気になっていたことを聞いてみた。
「ああ、あそこ? ○○通りずーっと行って、右に曲がったとこの青い自販機ある家。
その裏っかわの家だよ」
「台帳には“青自販機角”ってだけでしたけど、あれで分かるもんなんですね」
「まあ、うちはそれで分かるからさ」
坂口さんは、台帳を指で軽く叩く。
「ここに書いてあるの、ほとんど常連さんだからね。
新しいお客さんは、最初ちゃんと住所もメモってる……はず。どっかに」
「どっかに」
「そう、“どっかに”」
肩をすくめる仕草が、妙に板についている。
「坂口さん、これ、全部覚えてるんですか」
「全部はムリだけど、だいたいはね。1年位やってると、勝手に頭に入ってくんだよ」
勝手に。
その「勝手に」が、それなりに時間と回数を要求してくるのは想像がつく。
「山本君は、まだ店ん中優先でいいと思うよ。出前はそのうち。
最初から両方やると、マジでこぼすから」
「まずは、こぼさないところから、ですね」
「そうそう」
二人で少し笑ったところで、また電話が鳴る。
会話は、そこまででいったん途切れた。
*
昼のピークを越えたころ。
「一回休憩入れとけ。水でも飲んどけ」
店主にそう言われて、政雄はカウンターの端に腰を下ろした。
冷たいお茶を一口飲むと、体の中の熱が少し落ち着く。
坂口さんも隣にどさっと座り込んだ。
「高校、何年だっけ。山本君」
「一年です。入ったばかりで」
「お、ピカピカじゃん。どこ?」
「○○高校です」
「やるなあ。あそこ、賢いとこでしょ」
「いや……それなりに、です」
褒められるほどの自信はない。
「部活とかは?」
「中学で吹奏楽やってたんですけど……
高校では、勉強とバイト優先にしたくて。
正式には入らないで、必要なときだけ手伝う感じで先生に相談しようかなって思ってます」
「ちゃんと考えてんなあ」
坂口さんは、感心したように目を丸くした。
「俺、高一のとき何も考えずにサッカー部入ってさ。
すぐバイトと両立できなくて辞めたからね」
「そうなんですか」
「うん。部活は楽しいんだけどさ、時間も体力も持ってかれるじゃん。
うちも『ちょっとは稼いでくれ』って感じだったから、今はこんな感じでやりくりしてる」
「学校そこそこで、バイトもそこそこ、って感じですか」
「そうそう。全部一番にはなれないけど、つぶれないラインで。
まあ、欲張りすぎないってやつ?」
さらっとした口調だけど、その「折り合い」の取り方は、自分にも近い。
「俺も、そんな感じでいけたらいいなって思ってます」
「お、仲間じゃん」
坂口さんは笑って、空いたコップを手に取った。
「じゃ、ぼちぼち後半戦だな、山本君」
「はい。よろしくお願いします、坂口さん」
呼び方は自然と「坂口さん」になった。
年上で、先にここにいる人。
距離は近すぎず、遠すぎず。
今はそのくらいでちょうどいい。
*
午後に入ると、店は少しだけ落ち着いた。
それでも、ぽつぽつと客が入ってくる。
「出前、これとこれとこれ、同じ方向なんだけどなあ……」
台帳を見ながら、店主がぼそっとつぶやいた。
紙の上では、確かに同じあたりの名前が並んでいる。
ただ、それがきれいにそろうのは、あくまで「あとから見たとき」だ。
注文が入るタイミング。
麺をゆでるタイミング。
他の仕事との兼ね合い。
全部を同時にさばいているうちに、「まとめて行けそうな出前」が、少しずつバラバラに出ていく。
「まあ、こういうのはしゃあないって」
坂口さんが、盆に器を載せながら笑う。
「お客さん、あんまり待たせなきゃオッケーでしょ」
「そりゃ、そうだな」
店主も苦笑いを返す。
そのやりとりを横で聞きながら、政雄は何となく、台帳のページを頭の中で並べ替えてみる。
「この三軒、地図で見たら、たぶんひとかたまりなんだよな……」
そんな気がする。
けれど、いきなり「こうしたらどうですか」と言い出す立場でもない。
今はまだ、皿を割らないことと、注文を聞き間違えないことが先だ。
「山本、そっちのどんぶり、下げとけ」
「はい」
思考を一度たたんで、空いた器をまとめて持ち上げる。
洗い場で水と洗剤に手を突っ込んでいるあいだに、さっき頭に浮かんだ「ひとかたまり」は、湯気と一緒に少しぼやけていった。
*
夕方前。
その日のバイトが終わり、エプロンを外して店に頭を下げる。
「お疲れさん、山本。また来週だな」
「ありがとうございました。お疲れさまでした」
外に出ると、さっきまで体にしみ込んでいたそばの匂いが、少しずつ薄れていく。
私服のシャツの袖を少しまくりながら、家までの道を歩く。
ここから五分で着く距離は、やっぱりありがたい。
部屋に戻ると、シャツをハンガーにかけてから、机の上のルーズリーフを開いた。
「バイト」と書かれたページの隅に、今日の日付を小さく記す。
その下に、短くメモを書く。
「出前の家の場所、覚えにくい。
同じ方向の注文、まとめられたら楽そう」
書いてから、「楽そう」という言葉に少し笑う。
店にとっても、自分たちにとっても。
「こっち行って、あっち行って」を少しでも減らせたら、たぶん楽になる。
「でも、今は仕事覚えるのが先だな」
そうつぶやいて、ルーズリーフを閉じる。
机の一方の端には、高校の教科書の山。
もう一方には、バイトのメモ帳。
どちらも、自分の「これから」に関係がある。
「学校だけじゃなくて、そば屋も、けっこう勉強になるな」
ベッドにごろんと横になりながら、天井を見上げる。
日曜の昼のそば屋は、もう一つの教室みたいなものだ。
先生は店主とおかみさんと坂口さん。
教科書は台帳と伝票と、湯気の向こうの忙しさ。
そこに通っているうちに、何かしら自分のやり方も見えてくるだろう。
「とりあえず、皿を落とさないとこから、だな」
小さくそう締めくくって、目を閉じた。
そばの香りが、まだ少しだけ、鼻の奥に残っていた。




