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第10話 高校に入ったら、まずバイト

四月。

新品の詰め襟は、まだ肩になじまない。


県立○○高校の門をくぐりながら、政雄は校舎をちらっと見上げた。


どこにでもある県立の建物だ。

ただ、自分にとっては、ここが「次の四年の入口」になる。


将来は、大学の経済学部に行きたい。

世の中のお金の動きとか景気とか、そういうのをちゃんと勉強しておきたい。


いつかまた大きい景気の波が来たときに、前よりはマシな乗り方ができるように。


ただ、そう思ったところで、うちの財布事情は勝手には変わらない。

姉は都立大に受かって、もう大学に通っている。家の負担はすでに一人分あるから、自分まで私立で好き放題というわけにはいかない。 


だから、今のところ選べるコースはほぼ一択だ。


国立の経済学部を狙う。

学費を抑えるためにも、できれば家から通う。

足りない分や、奨学金の返済に備えて、高校のうちから少しずつ貯めておく。


そのために、勉強とバイトは外せない。

部活は、そのあとで考える。


体育館での入学式は、正直ほとんど耳を素通りしていった。

「努力」「友情」「伝統」といった単語が、反射的に頭の外に流れていく。


「こっちはこっちで、やること決まってるからな」


胸の内で小さくそうつぶやいて、拍手だけは周りに合わせておいた。


     *


その夜、自分の部屋で机に向かう。


新品の教科書の脇に、中学から使っているルーズリーフが一冊ある。

表紙には、マジックで「バイト条件」と殴り書きされていた。


中三の冬。

奨学金のパンフレットを見て軽くめまいを起こしたあと、勢いで書き始めたやつだ。


「続き、更新しとくか」


ペンを持ち、最初のページを開く。


前の自分が書いた文字が並んでいる。


「高校に入ったらバイトをする。

勉強と両立できる範囲で。」


読み返して、うん、と軽くうなずいた。


今も基本線は変わっていない。


大学の経済学部に行く。

そのためには、勉強がいちばん大事。

でも、家のことを考えると、バイトで少しでも足しにしておきたい。


だから、「勉強」「バイト」「部活」の順で考える。


ペン先を走らせる。


・目的:大学進学と、奨学金の返済のタネ金

・場所:家から近い。できれば自転車圏内

・時間:原則土日。平日は基本オフ

・テスト前:シフトを減らせる

・仕事:高校生でもできる飲食か小売


書き出してみると、頭の中のもやもやが、少しだけスッキリする。


「この条件を崩したくないんだよな」


バイトがメインになって、勉強が押し出されるのは本末転倒だ。

かといって、まったく働かないのも、今の状況では落ち着かない。


そのバランスぎりぎりのところが、この条件だと思う。


ルーズリーフの次のページをめくり、「部活」と書き込む。


「さて、こっちが問題」


吹奏楽部。

中学で始めたサックス。

できれば続けたい気持ちはある。


ただ、毎日放課後に練習して、土日は一日中部活、という生活は、どう考えても今の計画とぶつかる。


勉強とバイトを前提にしたうえで、残った隙間にどれくらい部活を差し込めるか、という話になる。


「フルタイム部員は、無理だな」


声に出してみると、意外とあっさり受け入れられた。


楽しいことに全部乗る余裕は、どう見てもない。

そのかわり、「まったくやらない」まで削る必要もない。


中学で三年間やってきたぶん、多少の貯金はある。

それを時々使うくらいの付き合い方なら、きっとできる。


「部活:吹奏楽部には“手伝い枠”で。正式入部はしない」


そう書き込んで、線で囲む。


文化祭前や演奏会前など、「人手が足りないときだけ顔を出す」。

そんな都合のいいポジションが通るかどうかは、顧問の腹一つだろう。


でも、最初から「毎日来ます」と言ってしまったら、もう引き返せない。

だったら、最初から正直に相談したほうがいい。


「本体は勉強とバイト。

サックスは、長く遊べる趣味枠」


そこまで書いて、ペンを置く。


他人から見れば、「高校入ったばかりでいろいろと固めすぎ」のように映るかもしれない。

でも、本人としては、これくらい決めておいたほうが気が楽だ。


なんとなく流されて、あとで「やっぱり無理だった」と言うのは、もうやりたくない。


     *


バイト先の候補を、頭の中で一つずつ挙げていく。


駅前のスーパー。

国道沿いのファミレス。

商店街の小さな本屋。


どこも、「高校生可」の貼り紙を見たことがある。


ただ、どれも家からそこそこ距離がある。

通学とは別にバイトのために往復するとなると、それなりに時間を食う。


「近さ、大事だよな」


勉強とバイトの合間に、移動で体力を削られるのはできれば避けたい。


そこで浮かぶのが、家から歩いて五分のそば屋だった。


昼時には配達用の自転車が出入りしていて、年末には店先に行列ができる。

小さいけれど、地元ではけっこう知られている店だ。


ここなら、自転車どころか徒歩でも通える。

昼メインの店だから、夜遅くまで引っ張られることもなさそうだ。


「バイト募集してなかったら、そのときは次の候補だな」


そう決めて、日曜日を待った。


     *


日曜の午前中。

制服ではなく、地味な私服で、政雄はそば屋の前に立った。


初めて入るわけではない。

年越しそばを買いに来たことが一度だけある。


ただ、「客」として入るのと、「バイト希望」で入るのとでは、足の重さがだいぶ違う。


戸口の横に、小さな紙が一枚貼ってあるのに気づく。


「アルバイト募集 土・日できる方 要相談」


ボールペンで書かれた簡単な文字。

その下に、電話番号と店名。


「……ほんとに、あるのか」


声に出して、ちょっと笑った。


家から近い。

土日。

要相談。


ルーズリーフに書いた条件が、そのまま紙になって貼られているような気分だ。


深呼吸をひとつして、引き戸を開ける。


「いらっしゃい──お、坊主か」


カウンターの向こうから出てきたのは、白い割烹着を着た五十代くらいの男だった。

太い眉に、少し渋い声。


「あの、外のアルバイト募集の紙を見て来たんですけど」


「おう。高校生か?」


「はい。今年、県立○○高校に入りました、山本政雄です」


「ふうん。で、いつ出られる」


話が早い。


「基本は、土日です。

平日は、授業と宿題と予習復習を優先したいので、入らないつもりです。

テスト前の一週間くらいは、土日も減らしていただけると助かります」


店主が、まじまじとこちらを見た。


「最近の高校生にしちゃ、ずいぶん自分の都合をはっきり言うな」


「あとで“やっぱり無理でした”ってなると、お互い困ると思うので」


カウンターの奥から、割烹着姿の女性が顔を出した。

たぶん、おかみさんだ。


「あなた、ちゃんと座らせて話聞きなさいよ、立ったままじゃ、かわいそうでしょ」


「ああ、悪い悪い。そこ座りな」


指さされたカウンターの端に腰を下ろす。


「で、なんでバイトしたい」


「大学に行きたくて、その資金を少しでも自分で用意したいからです。

うち、そんなに余裕がないので。奨学金を借りるにしても、あとで返すのは自分ですし」


自分で言っていて、高一のセリフにしてはちょっと固いな、と思う。

けれど、ここをぼかす理由もない。


店主は「ふん」と鼻を鳴らした。


「自転車は?」


「乗れます。坂がきつくなければ大丈夫です」


「皿洗いは?」


「家で手伝ってるので、まったくの初心者ってほどでもないです」


前世の一人暮らし経験まで含めれば、そこそこ場数は踏んでいる。


横から、おかみさんが口を挟んだ。


「土日の昼どき、配達と下げものが一人足りないのよ。

平日は今の人数で回ってるし、テスト前に休みたいってちゃんと言える子のほうが、こっちも予定立てやすいわ」


「そうだな……」


店主は腕を組んで、少し考えるふりをしたあと、うなずいた。


「よし。じゃあ、まずは日曜の昼前から三時くらいまで。

慣れてきたら、土曜も入ってもらう。

テスト前は、早めに言え。それでいこう」


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


深く頭を下げると、ほっと息が抜けた。


店を出て、商店街を歩きながら、ポケットの中で拳を握る。


「これで、バイトは確保」


あとは、この枠に合わせて、勉強と部活のほうを調整すればいい。


     *


家に戻ると、すぐにルーズリーフを開いた。


「バイト:近所のそば屋 日曜昼〜夕方(慣れたら土曜も)」


そう書き足してから、「部活」のページをもう一度開く。


「さて、ここだな」


吹奏楽部に正式に入る、という選択肢は、そば屋が決まった時点でほぼ消えている。


放課後は勉強に回したい。

土日はそば屋。

そのうえで、毎日部活までとなると、どこかが確実にすり減る。


「楽器は好きだけど、いちばんじゃない」


ぽつりとそう言ってみる。


いちばんは、大学に行くための勉強。

その次が、大学生活とそのあとに備えるためのバイト。


サックスは、その合間に続けられれば十分だ。


「部活:吹奏楽部には、空いてるときだけ手伝う方向で。正式入部はしない」


ペンでそう書き込んで、二重線で囲む。


顧問にどう言うかは、また別途考えよう。

「中学でやっていたので、必要なときだけでも」と頼めば、完全な門前払いにはならないかもしれない。


ルーズリーフを閉じて、背もたれにもたれる。


「高校生活、なんか事務処理多いな」


苦笑しながらも、胸の中はそんなに重くなかった。


たぶん、自分で順番を決めているからだ。


将来のために勉強が一番。

そのために大学に行く。

そのために、今はバイトもやる。

楽器は、その隙間で長く付き合う。


そうやって線を引いておけば、あとはその中でどう楽しむか考えればいい。


「よし、とりあえず今日は教科書を一回開いて、あとは寝る」


自分にそう言い聞かせて、英語の教科書を手に取る。


ページをめくる音が、小さく部屋に響いた。


高校一年の春。 大それたことはひとつも始まっていない。


けれど、自分の中ではすでに、「三年間の土台」を決める一日になっていた。



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