第124話 役割を終えた先にあるもの
八月も終わりに近づいていた。
黒沢と続けてきた検証も、当初黒沢が作っていた面会先の一覧は、ほぼ一通り当たり終えていた。
大学の研究者、通信や放送に関わる者、法制度に明るい学者、業界側の人間。話を聞けば聞くほど、政雄の知る未来が荒唐無稽な空想ではなく、いずれ現実になるものだという感触は強まった。
だが同時に、それは法律を一つ二つ直せば済む話ではないことも、かえってはっきりしてきた。
ここから先は、もう大蔵省の内輪の話になるのだろう。政雄はそう考えていた。
外の人間の知恵を借りて見取り図を確かめる段階は終わり、あとは役所の中で話を通していく作業になる。
そうなれば、自分の出る幕もそろそろなくなるのかもしれない。
そんなふうに思っていたころ、黒沢から呼び出しがあった。
省へ出向き、いつもの会議室へ通される。
扉を開けた政雄は、そこで足を止めた。
黒沢のほかに、もう一人先に来ている男がいた。
「どうぞ、座ってください」
黒沢はそう言ってから、隣の男に目をやった。
「こちらは証券局の橘です。同期でね。少し話を聞いてもらおうと思って来てもらった」
「橘です。君が山本君だね。黒沢が迷惑をかけているそうだね」
橘はそう言って笑った。
「双葉銀行の山本です。迷惑だなんてとんでもないです。こちらこそ勉強させてもらってます」
政雄はあわててそう答えて頭を下げた。
その人物は、黒沢と気軽に話をする間柄のように見えた。
とはいえ、黒沢が静なら、橘は動だった。
快活でエネルギッシュに見えた。
人に声をかけるまでの間が短く、相手との距離を詰めるのにためらいがない。
その気安さの奥で、何を言う人間なのかを手早く観察しているようでもあった。
橘は政雄の方へ向き直った。
「当初、黒沢が君を呼んだのは、銀行の提携の話だったんだよね」
「ええ、そうです」
「それがどうして、ここまで大きな話になったのか。まずはそこを聞かせてほしい」
政雄は一度うなずいた。
「はい。初めはATMの提携からでした。これまで窓口でしかできなかったことが、外でもできるようになる。それ自体は、まだ銀行業界だけの話だったと思います。
ですが、ご存じの通り、パソコンや携帯電話が広がっていけば、この便利さは銀行だけにはとどまらないだろうと考えるようになりました」
橘は小さくうなずいた。
「銀行以外というと、たとえばどんなものを考えていたのかな」
「最初に思いついたのは株取引でした。家庭のパソコンから注文できるようになれば、もっと手軽になるはずですし、流れとしては、個人投資を促進したい国の方針とも合致することになるのではないかと思いました」
橘はそこで少し身を乗り出した。
「なるほど。株取引か。たしかに、銀行より先にそちらから形になるかもしれないね。だが、それだけでは済まないんだろう」
「はい。その便利さが定着すれば、次は買い物の方にも広がるはずです。たとえばテレビや雑誌などの通販です。決まった時間に電話で申し込むのではなく、いつでも注文できる形になっていくのではないかと思いました」
そこで言葉を切ってから、政雄は続けた。
「これはインターネットでの取引になると思いますが、そこで生じる問題は、今までとは違った形になるのではないでしょうか。取引だけではなく、著作権や肖像権の問題も出てきそうです」
橘はすぐには口を開かなかった。
さっきまでの気安さが少し引っ込み、政雄の話を一つずつ確かめているようだった。
「君は、そういう社会になると考えているんだね」
「はい。最初は漠然と考えていましたが、黒沢さんとご一緒して、いろいろな分野の方に話を聞き、確かめてきました。今はそうなると思っています。人は便利なものへ流れます。そこに商機があります。そうなれば、社会も変わります」
橘はしばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「黒沢から聞いたときには荒唐無稽だと思ったが、今の話を聞くかぎり、そうとばかりも言えないな」
政雄は黙っていた。
「とりあえず、聞きたかったことは聞けたよ。山本君、ありがとう」
「いえ、お役に立てたなら良かったです」
それ以上引き止められることもなく、政雄は会議室を辞した。
扉が閉まると、橘は椅子に深く腰を下ろした。
「話の筋は分かった。必要なのも分かる。だが黒沢、これは話がでかすぎる。銀行局と証券局だけで扱える話じゃない」
黒沢は苦笑した。
「分かっているよ。だから橘を呼んだ」
「この話にいちばん早く反応するのは、証券局だと思ったからか」
「それもある。それに橘なら、この話をまともに聞いてくれると信じていたからな」
橘は小さく笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「だが、急ぐなよ」
黒沢は黙ったまま橘を見た。
「法整備まで持っていきたいんだろう。それは分かる。だが、こんな話を銀行局だけで先走って動かしたら、かえって警戒される。話が大きいときほど、手順を間違えると進まん」
黒沢は少し考えてから言った。
「では、どうする」
「まず官房に話を通せ。そのうえで、小委員会を招集してもらうんだ。銀行局と証券局、それに必要なところだけで始めればいい。最初から法案の話にするな。論点を整理する場として立ち上げた方が通しやすい」
黒沢は橘を見た。
「そこまで付き合ってくれるか」
「ここまで聞いた以上、知らないふりはできんよ。ただし、順番は守れ。法整備を本気で目指すなら、なおさらだ」
黒沢はふっと息をついた。
「分かった。まずは官房だな」
「そういうことだ」
その日を境に、省の中でも話が動き始めた。
*
大蔵省を出た政雄は、夕暮れの霞が関を駅へ向かって歩きながら、ようやく肩の力を抜いた。
もともとは銀行の提携の話だった。
それが証券取引や通信販売に広がり、ついには法整備の話として役所の中で進み始めようとしている。
自分の知る未来からすれば不思議な流れではない。
だが、そこからはもう役所の仕事だった。
今日の会議で、その境目ははっきりしたように思えた。
ここからは黒沢たちが進めていく。
自分の役目も、おそらくここまでなのだろう。
そう思うと、政雄は胸の奥の重みが少しだけ軽くなるのを感じた。
*
その後、政雄はまた調査室の日常へ戻った。資料を読み、報告の下書きを直し、必要な統計や記述を確かめていく。目の前の仕事はいつも通り途切れず、日が過ぎればまた次の案件が机に届く。
それを一つずつ片づけていけば、日々は何事もなく進んでいった。
水曜の退勤後、政雄はいつものように地下二階の講堂へ下りた。
三曲ほど合わせたところで小休止になり、講堂のあちこちで椅子が鳴った。
政雄もアルトサックスを膝に置き、息を整える。
京子がキーボードの前から振り返った。
「お義兄さん」
「ん?」
「式場、ようやく押さえられそうなんです」
「決まりそうかい」
「うん。第一希望そのままではなかったんですけど、十二月で何とか」
京子はそこで少し苦笑した。
「でも今度は招待客で母が細かいことを言い出して」
「どんなふうに」
「親戚をどこまで呼ぶかとか、職場の人を何人にするかとかです。向こうとの兼ね合いもあるのに、うちの方だけで話が進みそうになるんですよ」
「まあ、そういうものなんだろうな」
「たぶんそうなんでしょうね」
京子はそう言って笑った。
「式場が決まれば少し落ち着くかと思ったんですけど、次がすぐ出てきます」
「順番に片づけるしかないな」
「ですね」
それだけ言って、京子はまたキーボードへ向き直った。
政雄もマウスピースをくわえ直す。
誰かが軽くドラムを鳴らし、田口が次の曲の出だしを確認していた。
講堂には、いつもの水曜の夜が流れていた。




