第123話 梅雨空の下で
六月も終わりが近づいていた。
朝のうちはやんだかと思えば、昼前にはまた細かい雨が落ちてくる。
降るなら降る、晴れるなら晴れるで、もう少しきっぱりしてくれればいいものを、この時季の空はどうにも煮え切らない。
年明けから続いている検証作業も、それによく似ていた。
大学の研究者も、関連業者も、政雄が順を追って説明すれば、それぞれ自分の専門の範囲では理解を示す。
だが、そこから先へ進むと話は変わる。
通信の話は通信だけで終わり、制度の話は制度だけで止まる。
社会全体がどう変わるのか、その先まで同じ眺めを持てる相手はなかなかいなかった。
進んでいるのに前へ出た気がしない。ここ数か月、そんなことの繰り返しだった。
その日も政雄は傘を差し、雨に濡れた革靴の重たさを覚えながら霞が関へ向かった。
省へ出向く道すがら、濡れた歩道の鈍い照り返しばかりが目についた。
未来の話をしに行くのに、足もとはひどく湿っていた。
*
翌日は休みだった。だが朝から雨で、出かけようという気にはならない。
晴れていれば片づけたい用事もあったのだろうが、こう降られると急ぐ気も失せる。
昼を過ぎても部屋の明るさは変わらず、窓の向こうが薄ぼんやり白いままだった。
良子は朝から洗濯をしていた。
梅雨に入ってから後回しになっていたものが、少したまっていたらしい。
一度目の洗濯が終わると、それを乾燥機へ入れ、その間にまた次の洗濯を始める。
機械のうなる音が途切れず続いていると、それだけで部屋の中までじめついて思えた。
政雄はソファーに座ったまま、優美を眺めていた。
子供は三歳までがいちばんかわいいなどと世間では言うらしいが、優美にかぎっては、その先もずっとかわいいに決まっていると、あてもなく考えていた。
「さっきから何にやにやしてるの」
良子に言われて、政雄は我に返った。
「いや、優美はかわいいなと思ってさ。あとは良子みたいに、思いやりのある子になってくれれば十分だなって」
「またそんなこと言って。お世辞を言っても何も出ませんよ」
そう言いながらも、良子の機嫌は悪くなさそうだった。
乾燥機が止まると、良子は立って洗濯物を取り出し、代わりに二度目に洗い上がった分を入れた。狭い部屋の中で、洗濯機と乾燥機だけが休みなく働いている。
政雄はその様子をぼんやり眺め、それから部屋のあちこちへ目をやった。結婚したばかりの頃には、同じ間取りでももう少し広く使えていた気がする。
優美のものが増え、暮らしに要るものも増えた。
押入れにしまいきれないものが、いつの間にか部屋の隅へ寄せられている。
「そういえば、お義姉さんのところが言ってた住み替えの話、あれからどうなったのかしら」
良子が洗濯物をたたみながら言った。
「あのあと、その話は出てないな。でも普通に買うなら、まだ少し待った方がよさそうだよ」
政雄は、最近ようやく外につながるようになった調査室の端末で、実家のあたりの地価の推移を少し調べていた。
まだ高い。特別な話でもあるなら別だが、そうでないなら、いま慌てて決める時期には思えなかった。
「そうなの」
「うん。何か話があるなら、もう少し様子を見た方がいいとは言うつもりでいる」
良子はそれには答えず、たたんだ洗濯物を脇へ寄せた。
政雄もまた、優美と部屋とを交互に眺めた。
仕事では三十年先のことを話しているのに、自分の暮らしの少し先となると、まだうまく思い描けない。ただ、この部屋もいずれは手狭になるだろうと、雨の午後の部屋でなんとなく思う。
時計を見ると、午後三時を回っていた。
「コーヒーいれるけど、良子も飲む?」
政雄が声をかけると、良子はワイシャツにアイロンをかけながら「うん」とだけ返した。
湯を沸かしに台所へ立つと、おもちゃで遊んでいた優美もついてきた。何をするのかと思っていると、優美は戸棚の前で菓子を出そうとしている。
本人なりに、お茶の支度をするつもりらしい。
政雄は苦笑して戸棚を開け、菓子を取ってやった。
ついでに蓋つきのコップにジュースを注いで渡すと、優美はそれを持って先に戻っていった。
コーヒーをいれて居間へ戻ると、良子もアイロンを終えていた。
三人で一息ついたところで、電話が鳴った。
良子は立って受話器を取り、そのまましばらく話し込んでいた。
政雄はコーヒーを飲みながら、ときどき相づちの調子だけを聞いていたが、相手が誰なのかまでは分からなかった。
やがて電話を切ると、良子は受話器を戻してから政雄の方を向いた。
「京子からだったわ」
「何かあったの?」
「結婚の話、だいぶ進んだみたい。たぶん十二月に式を挙げることになりそうだって」
「年内に式を挙げるのか」
「うん。式場とかそのほかの準備次第らしいわよ」
政雄は少し考えてから言った。
「それで、京子ちゃんの相手ってどんな人なの?」
良子は優美の口元についた菓子くずを指でぬぐった。
「京子より二つ下で、レコード会社で制作の仕事をしてるんですって」
「レコード会社っていうのは、また想像のつかない世界だな」
「そうよね」
「それなら、会社員になってからまだそんなに経ってないのかな」
「そうね。やっと生活のめどがついたって言ってたから」
「そうか。京子ちゃんはどこでそんな人と出会ったのかな」
「もともと京子の友達が、その人のバンドで歌ってたらしいのよね」
「ああ、そういうことか」
政雄はうなずいた。京子が選んだ相手なら、ひとまずそこは心配いらないのだろうと思った。
カップが空になっているのに気づき、政雄は立って台所へ持っていった。流しですすいで戻ると、良子は優美がこぼした菓子のかけらをつまんで片づけていた。
優美は何がおかしいのか、良子の手もとを見て声を立てている。
雨はまだやんでいなかった。
けれど、この雨がやめば、次はもう夏なのだろうと政雄は思った。
それは毎年のことだった。毎年同じように梅雨が来て、やがて明ける。
だが、だからといって、毎年同じ夏が来るわけではない。
良子が優美に何か話しかけると、優美も何か言って笑っていた。
政雄はその様子を眺めながら、今年の夏は去年の夏とも、来年の夏とも違うのだろうと、そんな他愛のないことを雨の午後の部屋で漠然と考えていた。




