↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
123/125

第123話 梅雨空の下で

六月も終わりが近づいていた。

朝のうちはやんだかと思えば、昼前にはまた細かい雨が落ちてくる。

降るなら降る、晴れるなら晴れるで、もう少しきっぱりしてくれればいいものを、この時季の空はどうにも煮え切らない。


年明けから続いている検証作業も、それによく似ていた。

大学の研究者も、関連業者も、政雄が順を追って説明すれば、それぞれ自分の専門の範囲では理解を示す。

だが、そこから先へ進むと話は変わる。

通信の話は通信だけで終わり、制度の話は制度だけで止まる。

社会全体がどう変わるのか、その先まで同じ眺めを持てる相手はなかなかいなかった。

進んでいるのに前へ出た気がしない。ここ数か月、そんなことの繰り返しだった。


その日も政雄は傘を差し、雨に濡れた革靴の重たさを覚えながら霞が関へ向かった。

省へ出向く道すがら、濡れた歩道の鈍い照り返しばかりが目についた。

未来の話をしに行くのに、足もとはひどく湿っていた。


      *


翌日は休みだった。だが朝から雨で、出かけようという気にはならない。

晴れていれば片づけたい用事もあったのだろうが、こう降られると急ぐ気も失せる。

昼を過ぎても部屋の明るさは変わらず、窓の向こうが薄ぼんやり白いままだった。


良子は朝から洗濯をしていた。

梅雨に入ってから後回しになっていたものが、少したまっていたらしい。

一度目の洗濯が終わると、それを乾燥機へ入れ、その間にまた次の洗濯を始める。

機械のうなる音が途切れず続いていると、それだけで部屋の中までじめついて思えた。


政雄はソファーに座ったまま、優美を眺めていた。

子供は三歳までがいちばんかわいいなどと世間では言うらしいが、優美にかぎっては、その先もずっとかわいいに決まっていると、あてもなく考えていた。


「さっきから何にやにやしてるの」


良子に言われて、政雄は我に返った。


「いや、優美はかわいいなと思ってさ。あとは良子みたいに、思いやりのある子になってくれれば十分だなって」


「またそんなこと言って。お世辞を言っても何も出ませんよ」


そう言いながらも、良子の機嫌は悪くなさそうだった。

乾燥機が止まると、良子は立って洗濯物を取り出し、代わりに二度目に洗い上がった分を入れた。狭い部屋の中で、洗濯機と乾燥機だけが休みなく働いている。


政雄はその様子をぼんやり眺め、それから部屋のあちこちへ目をやった。結婚したばかりの頃には、同じ間取りでももう少し広く使えていた気がする。

優美のものが増え、暮らしに要るものも増えた。

押入れにしまいきれないものが、いつの間にか部屋の隅へ寄せられている。


「そういえば、お義姉さんのところが言ってた住み替えの話、あれからどうなったのかしら」


良子が洗濯物をたたみながら言った。


「あのあと、その話は出てないな。でも普通に買うなら、まだ少し待った方がよさそうだよ」


政雄は、最近ようやく外につながるようになった調査室の端末で、実家のあたりの地価の推移を少し調べていた。

まだ高い。特別な話でもあるなら別だが、そうでないなら、いま慌てて決める時期には思えなかった。


「そうなの」


「うん。何か話があるなら、もう少し様子を見た方がいいとは言うつもりでいる」


良子はそれには答えず、たたんだ洗濯物を脇へ寄せた。


政雄もまた、優美と部屋とを交互に眺めた。

仕事では三十年先のことを話しているのに、自分の暮らしの少し先となると、まだうまく思い描けない。ただ、この部屋もいずれは手狭になるだろうと、雨の午後の部屋でなんとなく思う。


時計を見ると、午後三時を回っていた。


「コーヒーいれるけど、良子も飲む?」


政雄が声をかけると、良子はワイシャツにアイロンをかけながら「うん」とだけ返した。


湯を沸かしに台所へ立つと、おもちゃで遊んでいた優美もついてきた。何をするのかと思っていると、優美は戸棚の前で菓子を出そうとしている。

本人なりに、お茶の支度をするつもりらしい。


政雄は苦笑して戸棚を開け、菓子を取ってやった。

ついでに蓋つきのコップにジュースを注いで渡すと、優美はそれを持って先に戻っていった。


コーヒーをいれて居間へ戻ると、良子もアイロンを終えていた。

三人で一息ついたところで、電話が鳴った。


良子は立って受話器を取り、そのまましばらく話し込んでいた。

政雄はコーヒーを飲みながら、ときどき相づちの調子だけを聞いていたが、相手が誰なのかまでは分からなかった。


やがて電話を切ると、良子は受話器を戻してから政雄の方を向いた。


「京子からだったわ」


「何かあったの?」


「結婚の話、だいぶ進んだみたい。たぶん十二月に式を挙げることになりそうだって」


「年内に式を挙げるのか」


「うん。式場とかそのほかの準備次第らしいわよ」


政雄は少し考えてから言った。


「それで、京子ちゃんの相手ってどんな人なの?」


良子は優美の口元についた菓子くずを指でぬぐった。


「京子より二つ下で、レコード会社で制作の仕事をしてるんですって」


「レコード会社っていうのは、また想像のつかない世界だな」


「そうよね」


「それなら、会社員になってからまだそんなに経ってないのかな」


「そうね。やっと生活のめどがついたって言ってたから」


「そうか。京子ちゃんはどこでそんな人と出会ったのかな」


「もともと京子の友達が、その人のバンドで歌ってたらしいのよね」


「ああ、そういうことか」


政雄はうなずいた。京子が選んだ相手なら、ひとまずそこは心配いらないのだろうと思った。


カップが空になっているのに気づき、政雄は立って台所へ持っていった。流しですすいで戻ると、良子は優美がこぼした菓子のかけらをつまんで片づけていた。

優美は何がおかしいのか、良子の手もとを見て声を立てている。


雨はまだやんでいなかった。

けれど、この雨がやめば、次はもう夏なのだろうと政雄は思った。

それは毎年のことだった。毎年同じように梅雨が来て、やがて明ける。

だが、だからといって、毎年同じ夏が来るわけではない。


良子が優美に何か話しかけると、優美も何か言って笑っていた。

政雄はその様子を眺めながら、今年の夏は去年の夏とも、来年の夏とも違うのだろうと、そんな他愛のないことを雨の午後の部屋で漠然と考えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。