第122話 未来の話と、予期せぬ昇進
一月、黒沢との会合は、昨年までとは違う段階へとなっていた。
きっかけは政雄の方だった。
金融業同士の提携や再編だけなら、まだ今ある制度の延長で考えられる。
だが政雄の知る三十年後は、そこだけでは収まらない。
通信の発達で銀行取引は店頭を離れ、記録は一か所ではなく広く結びつき、個人に関する情報は本人の知らないところでも集められ、組み合わされ、使われる。
便利になることと、守られなくなることが、ほとんど同じ速さで進む社会だった。
もっとも、政雄が知っているのは、その時代を生きた者なら誰でも知っている程度のことにすぎない。
前の人生でも凡庸な勤め人だった政雄には、技術の仕組みも、制度改正の細かな経緯も分からない。
ただ、そういう社会が実際に来ることだけは知っていた。
だから黒沢に話す時も、証拠を並べることはできず、どうしても話は飛躍したものになった。
それでも黒沢は途中で切らなかった。政雄が話し終えるまで黙って聞き、それから言った。
「そこまで行くと、私の想像を超えますね」
政雄はうなずいた。
「私も、理屈までは説明できません。ただ、そうなります」
黒沢はすぐには続けなかった。机の上の資料に目を落としたまま、しばらく考えていた。
「では、確かめましょうか」
「確かめる、と言いますと」
「本当にそこまで進みうるのかということです。二人だけで話していても、予想できる範囲には限りがありますから」
昨年までにも、黒沢は各業界の人間を呼んで意見を聞いていた。
だが今回は、それだけでは足りなかった。
今を生きている実務家に三十年後の社会像を問うても、返ってくるのは今日の商売の話になる。
今回まず必要なのは、制度として成り立つのか、技術として到達しうるのかを考えられる相手だった。
「大学の先生方、ですか」
「そうですね。法学はもちろんですが、それだけでも足りないでしょう。通信や情報の研究をしている方にも聞いてみたいですね。その上で、仮にそうなった場合に実務で何が起きるかを、業界に聞く方が順序としてはよいのではありませんか」
黒沢の考えは明快だった。未来の話を笑い話で終わらせないためには、いきなり業界に投げるべきではない。
まず大学で、理屈の上でどこまで成り立つのかを確かめる。
その後で、もしそうなったなら何が壊れるのかを、実務の側に問う。
政雄にもそれが最も筋の通ったやり方に思えた。
一月の終わりから、黒沢は法学部の教員や、通信や情報処理を専門にしている研究者に声をかけ始めた。政雄も同席を許され、黒沢とまとめた資料を持って回った。
最初のうち、反応はおおむね似ていた。
そこまで広く個人情報が結びつく社会を前提にするのは飛躍がある。
通信網がそこまで普及するのか分からない。
画像や文章や音声をまとめて扱うにも、まだ機械の性能が足りない。
銀行取引を画面の向こうだけで済ませるなど、安全性の点で話にならない。
そうした答えが多かった。
それでも、完全な否定では終わらなかった。
通信速度がもっと上がるなら。
記憶装置の価格が十分に下がるなら。
端末が家庭に広く入るなら。
検索や照合の精度が上がるなら。
条件を一つずつ付けながら、教授たちは少しずつ政雄の話を理解し始めた。
最先端の研究をしている者ほど、荒唐無稽だと言い切らなかった。
今すぐには無理でも、技術が進めば理屈の上ではありうる。
その認識に届くまでが早かった。
法学の側からは、別の懸念が出た。
著作物の複製と流通が今よりはるかに容易になれば、権利処理の仕組みは持たないのではないか。
人の顔や名前が本人の知らないまま広く行き来するなら、既存の保護では足りなくなるのではないか。
本人確認を伴わない取引が増えれば、利用者保護の考え方そのものを変えねばならないのではないか。
黒沢が重く受け止めたのは、むしろその部分だった。
二月に入ると、黒沢は大学で得た反応を踏まえて、今度は業界の人間を呼び始めた。
銀行だけではなく、通信、流通、広告、情報サービスに近いところまで範囲を広げた。
聞き方は以前とは違っていた。
漠然と将来を論じるのではない。
もし非対面の取引が広がったら、本人確認はどうするのか。
もし顧客情報がいまより多く蓄積されるなら、どこで管理するのか。
もし画像や文書を大量に扱う仕組みが一般化したら、権利の処理はどうするのか。
そういう問いに変わっていた。
すると、業界の人間もようやく答えやすくなった。
最初は首をかしげていた相手でも、自分の会社の話に引き寄せると、急に口数が増えた。通信会社の者は回線の能力と料金の問題を挙げた。
広告に近い者は、画像や名前の利用に商売の可能性を見ながらも、苦情処理の難しさを口にした。
流通の者は、本人確認と決済事故の責任の所在を気にした。
銀行の人間は、便利さより先に不正利用と信用不安を言った。
今の時代の人間にとって、政雄の話は、ほとんど漫画に出てくる未来に近かった。
空を飛ぶ車や、無人で走る乗り物を当たり前の前提にして商売の話を始めるようなものだった。
それでも大学の者が条件つきで理屈を示し、黒沢が実務に引きつけて問い直すと、荒唐無稽な話は少しずつ仕事の話へ変わった。
三月に入る頃には、黒沢の机の上には論点がかなり増えていた。
金融機関同士の提携や再編だけではない。
非対面取引、本人確認、個人情報の集中、検索と照合、著作権、肖像権、責任の所在、事故が起きた時の補償。技術の問題より、制度の遅れの方が深刻ではないかと政雄には思えた。
住専問題で金融への不信が広がっている時期でもあった。
既存の金融機関が自分たちの始末もつけられないと見られている時に、さらに取引が画面の向こうへ移る社会を考えることには、皮肉なところがあった。だが黒沢は、その皮肉から目をそらさなかった。
今の不信があるからこそ、これから先の安全性と利用者保護を曖昧にしたままにはできない、と考えているようだった。
これは推測ではあるが、政雄にはそうとしか思えなかった。
政雄の方は、自分の役割が以前とは変わってきていることを感じていた。
前なら、知っていることをどこまで隠すかを先に考えた。
だが今は違う。自分に分かる範囲の未来なら、理解できる形に直して差し出す。
それが黒沢の仕事の助けになるなら、出し惜しみする理由はなかった。
もちろん、理屈も証拠もなく言い切れることではない。
だから断定は避ける。けれど、黙って引っ込めることもしなかった。
*
三月の終わり、職場の雰囲気は朝から落ち着かなかった。
年度末が近づけば、仕事の量だけでなく、人の動きでも空気が変わる。
異動だの昇進だのという話が、聞くともなく耳に入る時期だった。
もっとも、政雄はそれを自分のこととしては聞いていなかった。
調査室へ移って三年になる。
仕事の中身はずいぶん変わったが、役職が動くならまだ先だろうと思っていた。
「山本、ちょいといいか」
大山に呼ばれて顔を上げる。
政雄は席を立って大山の席へ向かった。
大山は書類を脇へ寄せると、少し声を落として言った。
「四月から調査役、昇進だ。人事から話が来た」
政雄はすぐには返事が出なかった。
言葉の意味は分かるのに、それが自分のこととして頭に入るまでに間が要った。
「……調査役ですか」
「そうよ。まだ口外すんなよ。じき人事からも呼ばれるだろうがね」
あっさりした言い方だった。
かえって、その方が現実味を欠いた。
調査役といえば、自分より少し上の年次の人間が就く肩書という印象がある。
遠すぎる役職ではないが、もうそこへ来たのかと言われると、政雄にはまだしっくりこなかった。
「驚いたかい」
「はい。少し」
「少しか。もっと妙な顔をするかと思ったがね」
「人前ですから」
「人がいなけりゃ、もう少し情けねえ顔になるってことか」
政雄は笑った。
「そこまでは言いませんが」
大山も口元だけで笑った。
「まあ、主任になって六年だろう。飛び抜けて早えってほどでもねえ」
そう言われると、年数としてはその通りだった。
主任になったのは平成二年の四月である。支店勤務を四年半、その後は本店の事務企画課へ移り、次世代オンライン事務企画係に入った。
調査室へ来てからは詐欺事件の件もあったし、黒沢のところへ顔を出す仕事も続いている。
並べてしまえば、理由がまるでないとも言えない。
それでも政雄には、どこか座りの悪い話に思えた。
「私でいいんでしょうか」
大山はそこで政雄を見た。
「人事が決めたことに、俺が今さら太鼓判を押したって始まらねえ」
少し置いてから続ける。
「だが、評価はされたんだろうさ。そうでなきゃ上がらねえ」
慰めるでもなく、持ち上げるでもない言い方だった。その分だけ、かえってまっすぐ入ってきた。組織の中では、結局そこに尽きるということなのだろう。
政雄はうなずいた。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋じゃねえよ。決めたのは人事だ」
大山は書類に手を戻した。
「もっとも、四月になったからって仕事が軽くなると思うなよ」
「それは期待しておりません」
「そうかい。少しくらい夢を見てもよさそうなもんだがね」
「夢を見るなら、残業が減る方にしたいです」
今度は大山が声を出して笑った。
「そいつは人事じゃなくて天に頼みな、いや黒沢さんか」
笑いが引くと、大山は軽く手を振った。
「じきに呼ばれるだろうから、行って話聞いてくると良い」
政雄は一礼して自分の席へ戻った。
歩きながら、ようやく少しずつ実感が出てきた。調査役。
肩書だけ聞けば立派だが、四月一日になった瞬間に中身まで変わるわけではない。
昨日までの自分に、その名前だけが先につく、そういう話だった。
席に着いて書類を開いたものの、文字はしばらく頭に入らなかった。
昇進そのものより、別のことが気にかかったからである。
片岡のことだった。
片岡は政雄より一つ上の年次で、一歳年上でもある。
調査室の仕事も堅実で、雑なところがない。
ただ、子どもが小さい以上、急な残業や長引く案件で無理を重ねることはできない。
そうなると政雄の方が動きやすかった。
その違いが評価に響いたとしても不思議ではない。
理屈ではそう分かる。
だが、気持ちの方はそう簡単には割り切れなかった。
妙に遠慮しても角が立つ。
かといって、何も考えていない顔もできそうになかった。
さらに言えば、また余計な噂が出るだろうという面倒もある。
省の仕事に出入りしているだの、誰かに引き上げられているだの、好きに言う者はいる。
今回もきっと何か言うだろう。
もっとも、それを一つずつ相手にしていたら仕事にならないことも、政雄はもう知っていた。
政雄は書類へ向き直った。
昇進の理由が何であれ、四月から始末することが減るわけではない。
そのことは、考えるまでもなかった。
*
数日後、人事課から戻ると、調査室はいつもの空気だった。
大山は机に向かったまま書類をめくり、榊は電話の相手に短く返事をしている。
片岡は政雄の顔を見るなり、すぐに言った。
「山本さん、人事課だったでしょ。もしかして昇進とか?」
声は抑えているが、遠慮しすぎてもいない。
その聞き方が片岡らしかった。
「ええ。四月から調査役だそうです」
片岡は目を丸くした。
「やっぱり。おめでとう」
「ありがとうございます」
「早いわね」
政雄は苦笑した。
「自分でもそう思います」
「そこ否定しないんだ」
「変に謙遜するのもおかしいですから」
片岡が笑う。
「それはそうね」
大山が書類から目を離さないまま言った。
「山本、話は済んだかい。済んだなら手ぇ動かしな」
「はい」
片岡が小さく笑う。
「ほら、余韻なし」
「この部屋でそれを期待する方が無理でしょう」
「それもそうね。とにかく、おめでとう」
「ありがとうございます」
政雄は席に着いた。
片岡がそこで話を切り上げてくれたのは、ありがたかった。
余計なことを考える前に、政雄は書類を開いた。




