第120話 暗い時代のささやかな幸せ
法制化または法改正が必要と思われるものの洗い出しを、黒沢と進めているうちに、気づけば十二月も終わりに近づいていた。
双葉銀行の十階フロアーでは、政雄について何か言う声がまたあるらしかったが、政雄はもう気にしないことにしていた。
年の初めには、現状維持で悪目立ちは避けるつもりでいた。
それでも結局は目立つ側へ押し出されてしまったが、黒沢との仕事を邪魔されないなら、それでいい。
いまはそう割り切っていた。
一九九五年は重いことばかり続いた。
春先からの円高、不況の深まり、震災、地下鉄の事件。
年の後半には、知っているだけではだめだと思い知らされることもあった。
けれど黒沢との仕事を通して、知る者として動ける場がまだあると気づいてからは、気持ちの置き場も少し変わった。
忙しさは増していたが、春から夏前のような息苦しさはもうなかった。
*
二十九日の調査室にも、年末だからといって浮ついたところはなかった。
大山はいつも通りの顔で机の上を片づけ、片岡も黙って手を動かしている。
榊は手帳を閉じ、机の端へ置いた。
しばらくして、榊が視線を落としたまま言った。
「最近、調子よさそうだな」
政雄は書類を揃える手を止めた。
「そう見えますか」
「前よりは」
それだけだった。
榊はまた自分の机へ目を戻し、政雄もそれ以上は続けなかった。
大山は何も言わなかったが、否定する様子もない。
片岡だけが、少しだけ口元を和らげる。
悪い気はしなかった。
夏前までの自分を思えば、そう見えるのも無理はない。
あの頃は、知っていても手が届かないことばかりが気にかかっていた。
今も世の中が急によく見えるわけではないが、少なくとも、自分にできる事がある。
そう思えるだけで違った。
仕事納めのあと、政雄は机の引き出しを閉めて鍵を掛けた。
黒沢絡みの件は休みに入っても頭のどこかに残るだろうが、年末年始くらいしっかり休もう。年明けになれば、また続きがある。
銀行を出ると、街はすっかり年の瀬の顔つきになっていた。
店先の飾りや行き交う人の荷物に正月前らしい華やぎはあるが、景気まで明るくなったわけではない。
そのあたりが、今年らしいといえば今年らしかった。
帰宅すると、良子はすでに正月の支度へ気持ちを切り替えていた。
優美は床に座って絵本を広げている。政雄が鞄を置くと、良子が振り向いた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
「明日はどんな予定?」
「それほど大がかりにはしないつもりよ」
そう言う声は落ち着いていた。
優美は政雄に気づくと、絵本をそのままにして近づいてきた。
抱き上げると、キャッキャと嬉しそうに笑った。
三十日は、良子の言った通り、大掃除は軽めだった。
政雄は窓ふき、良子は部屋の掃除。
全部をひっくり返すような真似はしない、今年はそのくらいにした。
窓を開けると、冬の空気が思ったより鋭かった。
政雄は順に拭いていったが、しばらくすると腕より先に単調さがこたえてくる。
向かいの家からも何やら片づけの物音がして、どこも似たような年末らしい。
ひと区切りついたところで、政雄の口から小さく息が漏れた。
「少し休憩しましょうか」
部屋の掃除をしていた良子がそう言った。
「まだ少し残ってるけど」
「続きはすぐ済むでしょう」
言われてみればその通りだ。政雄は素直に手を止めた。
ダイニングテーブルに座ると、良子が温かい飲み物を運んできた。
優美は少し離れたところで絵本を見ていたが、二人が向かい合って座ると、何となく気にしている様子がある。
「ここ数か月、仕事が大変そうだったけど、大丈夫?」
政雄は湯気の向こうで少し笑った。
「確かにちょっと頑張りすぎたかな。でも、気分は悪くないよ」
「そう。だったらいいのだけれど、無理はしないでね」
「良子と優美が癒しになってくれてるから大丈夫」
良子は困ったように笑った。
「またそんなことを言って」
その声につられたのか、優美が絵本を置いて、とことこと近寄ってきた。
両手を伸ばして、
「ユミも食べるー」
と言う。
政雄は抱き上げて膝に乗せた。
良子が幼児向けの菓子を渡すと、優美は一粒口に入れ、何か大事なことでも考えるような顔で噛んでいる。
その様子がおかしくて、政雄は思わず笑った。
午後も細かな用事は続いたが、朝ほどの気負いはなかった。
良子に言われたことをし、足りないものがあれば動く。
それだけで一日が埋まっていく。
仕事とは違う種類の忙しさだったが、不思議と気は休まった。
三十一日の午前中は、年越しの買い物に出た。商店街は人で混み合い、店先には正月向けの品が並んでいる。
良子は必要なものを手際よく見て回り、政雄は荷物を持った。
優美は最初こそ大人しくしていたが、途中から気になるものが増えたらしく、あちこちへ目を向けている。
道の端へ寄って荷物を持ち直しながら、政雄は行き交う人波を眺めた。今年も終わるのだと思う。
ひどいことの多い一年だった。
それでも、春先とは違う気持ちで年の瀬を迎えている。
知っているだけではなく、それを役立てる場がある。
その感覚が、自分の中にまだ残っていた。
*
優美が先に寝つき、しばらくして良子も休んだ。
家の中が静かになるのを待ってから、政雄はリビングのテーブルにノートを広げた。
元日恒例の脳内会議である。
今年は誰が最初に口を開くか、考えるまでもなかった。
仕事担当が、待っていましたと言わんばかりに胸を張る。
「ほら、申し上げた通りでしょう」
家庭担当がすぐに眉をひそめた。
「新年早々、その言い方はどうなんですか」
「どうもこうもありませんよ。昨年は目立たないように、現状維持で、などとおっしゃっていたはずです。ところが実際はどうでした。目立たずに済みましたか。済まなかったでしょう」
ずいぶん得意そうである。
趣味担当はもうこの時点で少し居心地が悪そうだった。
仕事担当は勢いを緩めない。
「しかも、ただ巻き込まれただけではない。後半はむしろ、自分から踏み込んでいたじゃありませんか。だったら最初から、仕事を軸に据えると決めておいた方が話が早いんです」
「踏み込んだと言っても、好きで火中の栗を拾いにいったわけではないでしょう」
家庭担当が言い返す。
「春から夏前まで、誰がいちばん危なっかしかったと思ってるんですか。家でちゃんと息がつけたから、後半を持ち直せたんじゃないですか」
「それは家庭担当の自己評価が高すぎますね」
「そちらこそ自信満々すぎます」
毎年のことながら、この二人は立ち上がりが早い。
そこへ親戚担当が静かに割って入った。
「どちらも少し落ち着いていただけますか。新年から声を張る話でもないでしょう」
落ち着いた声なのに、言う内容はたいてい面倒である。今回も例外ではなさそうだった。
「仕事が大事なのは結構です。家庭が支えになったというのも、その通りでしょう。ですが、今年は両家の親御さんのことも、昨年までと同じようには見ていられませんよ」
家庭担当が、ああ来た、という顔をした。
「それ、今年も言いますか」
「言います。毎年年を取るのですから、毎年言います」
理屈としては正しい。正しいだけに逃げにくい。
その隙をうかがうように、趣味担当がそっと手を挙げた。
「あの、まだ始まったばかりのところ恐縮なんですが」
誰も止めなかったので、趣味担当は少しだけ勢いづく。
「昨年は、私のところがだいぶ削られたと思うんです。かなり、というか、いちばん」
仕事担当がすぐに顔を向けた。
「優先順位の問題です」
「それは、はい、その通りなんですが」
趣味担当はそこで少し声を小さくした。
「でも、仕事や家庭とは別に個人の時間と言いますか……」
「仕事が疎かになるよりはいいでしょう」
趣味担当は反論せず、ただ小さく肩をすくめた。
「ですから、なくさない程度でいいんです。少しで」
これ以上続けると、また担当同士の押し引きが長くなる。政雄はそこで口を開いた。
「これは各担当というより、全体でのことだが」
頭の中がひとまず静まる。
「昨年は、将来を知っていることに引っ張られすぎて、かえって目標を見失いかけたね。後半は何とか持ち直したけど」
そこで一度、言葉を切る。
「結局のところ、知っている知っていないにかかわらず、目標に向かってやれることをやるしかないんだと思う。それを去年の反省にしたい」
仕事担当が満足そうに腕を組みかけたので、その前に続けた。
「それを踏まえたうえで、仕事は今年も中心になると思う」
仕事担当がわずかに顎を上げる。
家庭担当は露骨に嫌そうな顔をした。
「ただし、何でも前に出ればいいわけじゃない。昨年みたいに、目立たないつもりで結局流されるのは避けたい。本当にやるべきことを見極めて、引き受けるものは引き受ける。その代わり、抱えなくていいものまで抱え込まない。仕事はそういう方針でいきたい」
仕事担当は少し考える顔になったが、反対はしなかった。去年の結果を思えば、全面勝利とまでは言えなくても、かなり悪くない着地なのだろう。
「家庭については、優美もだいぶ大きくなってきたし、家族で出かけられるなら、そういう機会も増やしたい」
家庭担当の表情が明るくなる。
「それから、今年は良子の実家とも何かできるといいなと思う」
親戚担当がすかさず口を挟んだ。
「今の後半は私の管轄にも少し触れていますね」
「触れてるけど、これはまず家庭の話だよ」
政雄が言うと、親戚担当は不満そうではないものの、少しだけ姿勢を正した。議事録に異議を残したい種類の顔である。
「もちろん、良子に無理をさせないことは続けたい。優美との時間も、減らさないようにしたいね」
家庭担当は満足そうにうなずいた。
「そのくらいは、ぜひ」
「親戚については、明日と明後日でまず様子を見よう」
親戚担当が待っていましたとばかりにうなずく。
「そこから先は、今年どこまで気を配る必要があるか考える。すぐに何か決めるというより、まず観察だね。連絡の頻度や、こちらから動くことも含めて、そのあとで決めたい」
「妥当ですね」
親戚担当は落ち着いていた。落ち着いてはいるが、これで終わらない気配もある。
「ただし、見て見ぬふりだけは避けていただきたい」
「それは分かってる」
先回りして釘を刺されるあたりが、実に親戚担当らしい。
「最後に趣味だね」
趣味担当が背筋を伸ばした。ここまでずいぶん待たされた顔をしている。
「昨年は、たしかにいちばん削れてしまったと思う。あれは落ち込んでいた時期もあったし、仕事のことばかり考えていたせいもある」
趣味担当は深くうなずいた。うなずき方に恨みがこもっている。
「だから今年は、もう少し意識して守りたい。仕事の時間をうまくやりくりして、水曜の夜はできる限り減らさないよう努力しよう」
「あ、ありがとうございます」
趣味担当は、ほっとしたように言った。
仕事担当がすぐに牽制する。
「努力、ですか」
「努力だよ。絶対とは言えないからね」
「はい、それで結構です。覚えておいていただければ」
趣味担当はそれ以上強くは言わず、控えめにうなずいた。
一通り出そろったところで、政雄はノートに要点を書き留めた。
全体方針。仕事は中心、ただし見極める。家庭は時間を減らさない。親戚はまず観察。趣味は水曜の夜を意識して守る。
仕事担当がまだ何か言いたそうだったので、政雄は先に締めに入った。
「今年もたぶん、予定通りにはいかないかもしれない。途中で崩れることもあるだろう。でも、そのたびに立て直せばいい。去年よりは、そのやり方が少し分かった気がする」
家庭担当が、今度は素直にうなずく。
親戚担当も異論はなさそうだった。
趣味担当は、水曜の夜という具体名が入っただけでだいぶ安心した顔をしている。
仕事担当だけが最後にひとつ、もっともらしく咳払いをした。
「では、本年も計画的に」
「そうだね」
政雄はノートを閉じた。
リビングは静かで、台所のほうからももう音はしない。
良子と優美が眠っている家の中で、こうして新しい年の配分を考えていると、不思議と気持ちは落ち着いた。
全部を思い通りにはできなくても、やるべきことを見失わなければ何とかなる。
去年よりは、そう思える。
冷めかけた茶を飲み、政雄は灯りを落とした。
新しい年は、もう始まっていた。




