第119話 知っている者の役割
黒沢との再会のあと、政雄は忙しく過ごした。
三月から気持ちが乗らず先延ばしにしていた案件を手早く片づけるうちに、久しぶりに仕事の調子が戻ってきた。
考えてみれば、将来を知る者として情報技術の流れに近づくために選んだ道だった。
それがいろいろなことが重なり、調査室の居心地のよさに甘えて、いつのまにか脇へ置いていたのかもしれない。
目の前の仕事に追われているうちに、肝心の目的を忘れかけていた気がした。
家へ帰れば、優美は二歳三か月になっていた。
前よりずっと手がかかるようになったが、帰宅した政雄を見つけて駆け寄ってくる姿を見ると、それだけで気持ちがほどけた。
最近は忙しさに紛れてサークルにも顔を出せていないが、それでも家に帰る楽しみは増していた。
*
そうして迎えた七月、政雄が向かったのはFISC(金融情報システムセンター)主催の講習会だった。
金融機関のシステム監査を基礎から学ぶ数日がかりの研修で、まずは現状を知れということらしい。
会場へ入った政雄は、少しだけ場違いな気分になった。
周りには情報システム部門らしい面々が多く、使う言葉も視点も、調査室の日常とはだいぶ違っていた。政雄は銀行実務の流れなら分かるつもりでいたが、端末構成や監査手続きの話になると、まだ地に足がついていない感じがあった。
だが、つまらないとは思わなかった。
むしろ逆だ。銀行の仕事を裏から支えている仕組みが、どういう理屈で動き、どこで危うくなるのか。
それを改めて言葉にして整理されると、頭の奥が少しずつ熱を帯びていくのが自分でも分かる。
知らない話に置いていかれる感覚と、その先を覗ける面白さが、胸の中で奇妙に並んでいた。
その講習が終わっても、それで済んだわけではなかった。
続けて別の講習やセミナーにも出ることになった。
内容によっては、政雄には畑違いなものもあり、銀行実務なら流れで分かる話も、システム監査や安全対策の話になると、どこに注意を向けるべきかがまるで違う。
話についていくだけで精いっぱいになる日もあった。
そのたびに政雄は、会場で売られている書籍を買って帰った。
家で読み返し、分からない箇所に印を付け、自分なりに考えた将来の問題を書き添えて短い報告にした。それを黒沢へ渡すのが、いつのまにか決まりのようになっていた。
ある日、政雄が出した報告に目を通して、黒沢が言った。
「苦労しているようですね」
「はい。これまで持っていなかった視点ですので」
「そうだろうね。ですが、全体を知るには一度は通っておいたほうがいい」
「はい」
黒沢は報告書を机の上へ戻した。
「着眼点は悪くありません。銀行の現場から見て、どこが先に変わり、どこは簡単には変わらないか。その分け方ができています」
政雄は黙って続きを待った。
「次からは、問題点だけでなく順序も考えてください。何から手を付けないと危ないか。反対に、急がなくていいものは何か。そこまで書いてもらいたい」
「優先順位まで、ですか」
「ええ。思いついたことを並べるだけでは仕事になりません。何を先に扱うべきかまで考えて、ようやく実務です」
政雄はうなずいた。
「分かりました」
「次までに、もう一通お願いします。長くなくていい。君自身の言葉で書いてください」
政雄は一礼して部屋を出た。
銀行へ戻ると、政雄はその日のうちに要点を書き出し、大山にも簡単な報告書を出した。
講習の中身には深く触れず、黒沢から求められたことと、次に必要になる作業だけを記した。
大山はひと通り読んでから言った。
「なかなか楽はさせてくれねぇな」
「そのようです」
「まあいい。そっちはそっちで進めな。こっちのことは気にしなくていい」
その言葉を聞いて、政雄は少し気が楽になった。
*
当面予定されていた最後の講習を終えたあと、政雄はいつものように黒沢へレポートを提出した。
黒沢は目を通しながら、ところどころで質問を差し挟んだ。
認証の考え方を現場へ落とした場合に何が問題になるのか。
事故が起きた時、銀行はどこまで責任を負わされる形になるか。
窓口で済んでいた確認をインターネットに出した時、何がいちばん先に揺らぐか。
政雄は考えながら、一つずつ答えた。
ひと通り聞き終えたところで、黒沢はレポートを閉じた。
「いいでしょう。現状と、これから表に出てくる問題点は、おおよそ掴めましたね」
政雄は少し間を置いた。
「まだ付け焼き刃の部分もありますが」
「それで結構です。必要なのは、専門家の説明をなぞることではないですから」
政雄は黙って次を待った。
「では、次の段階の話をしましょう」
黒沢の声は低く、いつもと変わらなかった。
「これまでは、起こりそうなことを集めてきました。ここから先は、それをどう扱うかです。便利だからで広がってしまえば、現行法では収まらない話が必ず出てきます」
政雄はそこで初めて、黒沢がどこまで先を考えていたのかを悟った。
「法改正、または法制化ですか」
「そうですね。それは必要になってくるでしょう」
その言葉に、政雄はわずかに息を止めた。驚いたのは法制化そのものではなかった。
前世の記憶がある政雄には、そういう時代が来ること自体は、もはや疑いようのないことだ。
黒沢がそこまでを見越したうえで、自分をここまで引っぱってきた。
その事実のほうが意外だった。
黒沢は続けた。
「FISCのような場で基準や考え方は整えられます。ですが、それだけでは足りません。法律にしないと対処できない部分が出てきます」
政雄には、その先もほぼ分かった。
銀行だけの話では済まない。
カード会社も入る。
通信販売のような商売も絡む。
取引の窓口が増えれば、責任の所在は散る。
本人確認も、不正利用も、被害が出たあとの扱いも、今の決まりのままでは曖昧なところが残る。
そして、黒沢が自分に何を求めているのかも、ほとんど察しがついた。
技術そのものの説明ではない。
これから先、どこで歪みが生まれ、どんな悪用が入り込むのか、その形を先に出せということなのだろう。
「私の役目は、そういう綻び方を先に挙げることですね」
黒沢は政雄を見た。
「ええ。そこです」
短い返答だった。だが、それで十分だった。
講習を受けさせたこと。
書籍を読ませたこと。
報告を書かせ続けたこと。
あれらは知識を詰め込むためだけではなかった。
表に出る前の危険を言葉にさせるためだったのだ。
「技術のことは専門の人が考える。ですが、その前に、どういう使われ方をされるか、どこで揉めるか、どこから崩れるか、それを早いうちに出しておかなければなりません」
政雄はうなずいた。
「分かりました」
黒沢はそこで、初めて少しだけ表情を緩めた。
「話が早くて助かります」
*
黒沢は引き出しから数枚の紙を取り出した。罫線で区切られた表に、すでにいくつもの項目が並んでいる。
回線、認証、安全性、費用、責任分担、参加事業者。
思いつきを並べた走り書きではなく、最初から整理するつもりで作られたものだと分かった。
「まずは一覧にします。足りないところは加えてください」
政雄は紙を受け取り、認証の欄で手を止めた。いまはIDとパスワードで足りるとしても、それだけでは済まなくなる。番号を一つ増やせば終わる話でもない。確かめ方が増えれば、その確かめ方ごと騙されるようになる。
「どうしました」
「認証です」
政雄は答えた。
「当面は認識番号とパスワードでも良いのでしょうが、それだけだといずれ足りなくなります。確認を厳しくすれば、その確認そのものを盗らせるやり方が出てきます」
黒沢は何も言わずに聞いていた。
「最初は、盗み見や使い回しのような単純な話かもしれません。ですが先に進めば、本人に打たせる形を悪用するほうが早くなるはずです。一度きりの番号を使っても、その場で入れさせれば同じです」
黒沢は赤鉛筆で認証の欄に印を付けた。
「これは残しましょう」
政雄は小さくうなずいた。
「次までに、この項目ごとに整理します。どの使われ方で問題が出るのか、被害がどこへ及ぶのか、その程度は書けると思います」
「ええ。それで結構です」
黒沢は表を引き寄せた。
「法のことはこちらで確認します。現行法で受け止められるのか、外へこぼれるのか、その仕分けはこちらでやります」
そこでようやく、二人の役割がきれいに分かれた。政雄はこの先に出てくる危うさの形を書きだす。
黒沢はそれを、現行法で受け止められるかどうかに分ける。その積み重ねの先に、変えるべきものが残るのだろう。
黒沢との会議を終えて省の外へ出た時、政雄にはもう、まだ起きていない問題を先に予測し、排除していくことこそ黒沢の狙いなのだと理解していた。




