第118話 変えられぬ流れ、変えられる明日
年が改まり、職場もすぐにいつもの顔へ戻った。
政雄も流れに合わせるように、仕事へ戻っていった。
その空気が変わったのは、ほんの十日あまり後のことだった。
関西で大きな地震があったと聞いた時、政雄は胸の奥がひやりとした。
記憶の底に引っかかるものがあったからだ。
だが、思い出せるのはそこまでだった。
時期も被害の大きさも曖昧なまま、時間とともに伝わってくる惨状だけが重くなっていった。
知っていたはずなのに、何ひとつできない。そのことが政雄には堪えた。
松本の事件のあとには、次は地下鉄だという記憶は有った。
しかし、いつ起きるのかまでは分からない。
政雄にできたのは、良子たちの通勤経路を確かめることだけだった。
地下鉄を使っていないと分かり安心するが、そこまでだった。
そして、やはり都内の地下鉄で事件は起きた。
分かっていたのに、何もできなかった。
仕方がないと頭では分かっていても、多くの人が巻き込まれたと思うと心が痛んだ。
何のための記憶なのかと、政雄はひとり沈んだ。
震災に続いて地下鉄での事件まで起き、世の中全体がどこか落ち着きを失っていた。
そこへ住専問題や再編話、円高の重しまで重なって、行内の空気も目に見えて尖っていった。
調査室の仕事そのものは変わらなくても、飛び交う声は荒くなり、何気ないやり取りにも余裕がなくなっていた。
政雄はそんな空気の中で、知らず知らずのうちに気を張りつめていた。
そんなある日、大山が席のほうへ来て言った。
「山本、ちょいといいかい」
政雄は顔を上げ、黙って席を立った。
応接用の小部屋に入ると、大山は先に腰を下ろし、向かいの椅子を示した。
「まずは座りねぇ」
政雄が腰を下ろすと、大山は少し顔を見た。
「最近、少しまいってるじゃないのかい」
「そう見えますか」
「おうよ。無理に隠したって、そういうもんは顔に出るもんだぜ」
政雄は曖昧に笑ったが、言い返しはしなかった。
大山はひとつ息をついた。
「おっといけねぇ、その話で呼んだわけじゃねぇんだ」
政雄は黙って次を待った。
「上から話が降りてきた。大蔵省の黒沢さんが、山本に仕事を手伝ってもらいてぇらしい」
その名を聞いて、政雄はわずかに背筋を伸ばした。
事務企画課にいた頃、金融の業際問題をめぐる聞き取りの場で、何度もそばについた相手だった。
「私に、ですか」
「おう。こっちは細けぇことまでは聞かされちゃいねぇ。山本にその気があるか、まずは聞いてくれって話だ」
政雄はすぐには返事をしなかった。
黒沢の下で手伝っていたのは、もう二年ほど前までのことだ。
その後は調査室へ移って、仕事も変わった。
何故またこの時期に、という思いがないでもない。
そんな政雄の顔を見て、大山は続けた。
「籍はこのままだ。調査室から動かす訳じゃねぇ。今の仕事をしながら、向こうの仕事も手伝う形らしい」
「出向ではないんですね」
「そういうこった」
大山は軽くうなずいた。
「俺が聞いてるのはそこまでだ。あとは山本が受ける気があるなら、先方から話がある」
政雄は少し考えてから尋ねた。
「急ぐ話ですか」
「急がせるつもりはねぇが、いつまでもってわけにもいかねぇ」
そこで大山は、わずかに声をやわらげた。
「まあ、悪い話じゃねぇと思うよ。少し風向きの違う仕事をしたほうが、かえって楽になることもある」
政雄は黙ったまま、膝の上で手を組んだ。
黒沢がいまさら自分を呼ぶ理由は分からない。
だが、思いつきで人を引っぱるような相手ではないことだけは分かっていた。
「少し考えさせてください」
そう言うと、大山は小さくうなずいた。
「おう、腹が決まったら言ってきな」
政雄は一礼して部屋を出た。廊下へ出ると、政雄はひとつ息をついた。
黒沢がまた自分を呼ぶ以上、何か意味はあるのだろう。
そう思いながら、政雄は自分の席へ戻った。
*
政雄は少し迷ったが、このまま同じ場所で滅入っていても仕方がないと思い直した。
翌日、大山に声をかけ、黒沢の話を進めてほしいと伝えた。
数日後、指定された時間に大蔵省へ出向くと、政雄は係の者に案内されて小さな応接室へ通された。
こういう話なら他にも誰か来ているのかと思ったが、部屋にいたのは政雄だけだった。
しばらくして扉が開き、黒沢が入ってきた。
「お久しぶりです」
政雄が立ち上がり頭を下げると、黒沢は静かにうなずいた。
「ええ。よく来てくれましたね。詐欺事件を解決したんだってね。聞いていますよ」
政雄は一瞬だけ目を見開いた。
「たまたま私が担当した案件だっただけです」
そう答えながら、政雄は内心で驚いていた。調査室の案件まで、もう耳に入っているらしい。
黒沢はそれ以上そこには触れなかった。
「インターネットを使った銀行取引と聞いて、山本君はどう見ますか」
政雄は少し考えてから口を開いた。
「いずれ広がると思います。ですが、すぐに勘定系そのものが変わるとは思いません」
黒沢は黙って先を促した。
「端末は増えるはずです。銀行の外で処理できることも増える。けれど、いま窓口でやっている仕事が、そのまま全部外へ出るわけでもない。変わるのは、まず窓口の有り方だと思います」
黒沢は小さくうなずいた。
「端末は増える。勘定系は急には変わらない。端末(顧客のPC等)が増えた分行員が直接顧客に対応する仕事は減るが、それ以外の新しい仕事が増える。そういう見立ですか」
「はい」
政雄は答えてから、言い過ぎたかもしれないと思った。だが黒沢は気を悪くした様子もなく、むしろそこを確かめたかったように見えた。
「やはり、山本君に来てもらってよかった」
穏やかな声のまま、黒沢は指を組んだ。
「いま省のほうでも、その先を見た整理が必要になっています。銀行だけで話は済みません。メーカーも、回線も、決済も、保険も、いずれは皆つながってきます。その時に何が増え、何が残り、何を先に整えなければならないか。そこを実務の目で見られる人間が要るんです」
政雄は黙って聞いていた。
「表向きには研究会や基準見直しの手伝いになります。すぐに何かを決める仕事ではありません。ですが、次に来る流れを見誤らないための下ごしらえではある。私はそこに、山本君の目を入れたいと思っています」
黒沢はそこでいったん言葉を切った。
「君には、技術の話だけをしてほしいわけではありません。銀行の実務がどこで変わり、どこは簡単には変わらないか。それを整理してもらいたいのです」
政雄はようやく口を開いた。
「私で務まるでしょうか」
黒沢はすぐに答えた。
「経験は積めばいい。だが、変わる場所と変わらない場所を分けて見られる人間は、そう多くありません」
その言い方は静かだったが、妙に逃げ場がなかった。
「形としては、こちらへ籍を移してもらう話ではありません」
黒沢はそう言って、机の上の書類に軽く手を置いた。
「双葉銀行の調査室に籍は置いたままです。そのうえで、省からの要請という形で、いくつかの会合に出てもらうことになるでしょう。中心になるのは、基準の見直しと、その先を見た研究会です」
政雄は黙って聞いていた。
「毎日こちらへ来てもらうわけではありません。必要な時に出席し、議論を聞き、必要なら意見を出す。持ち帰って考えてもらう仕事もあるでしょう。銀行の看板を背負って座ってもらいますが、だからといって銀行の立場だけを代弁してほしいわけではない。現場を知る実務者として参加してほしいのです」
黒沢はそこで一度、政雄を見た。
「双葉銀行にも、その前提で人を出してもらう話は通してあります。今の仕事をまったく減らさずに済むとは思いませんが、片手間では困る。そのあたりは、そちらで調整してもらうことになるでしょう」
政雄は少し間を置いてから尋ねた。
「具体的には、いつからどんな仕事になるでしょう」
「まずは七月に、インターネットを使った銀行取引に関する講習があります。それに出席してもらいます」
黒沢の答えは簡潔だった。
政雄はうなずいた。
「わかりました。どれだけお役に立てるか分かりませんが、やらせていただきます」
黒沢は静かにうなずいた。
「そうですか。ではそれまでに、いま手がけている仕事を整理しておいてください。詳しいことは、またこちらから連絡します」
話はそこで終わった。政雄は一礼して応接室を出た。
大蔵省を出てしばらく歩きながら、政雄はひとり苦笑した。二足の草鞋だ。
また以前のように忙しくなるのだろう。
ひょっとすると、これは上にうまく押し付けられたのかもしれなかった。
大蔵省からの話で、しかも新しい分野だ。
黒沢との接点もあるとなれば、若手の自分に回してしまうのがいちばん手っ取り早い。
そんな見方もできた。
それでも、悪い気はしなかった。ここしばらく胸の奥に澱のように溜まっていたものを思えば、ただ同じ場所で沈んでいるよりは、ずっとましだった。




