第117話 新時代の足音と1995年の脳内会議
12月に入っても、調査室の空気は相変わらずだった。
表彰の一件以来、政雄を見る目が少し変わった者もいたが、もうそれもさして気にならない。
大声の江戸弁を響かせる大山、そのすぐそばで、榊はいつも通りの調子で淡々と仕事を進めている。
片岡もまた、家庭では母親なのだろうが、職場ではそんなことを感じさせない手際のよさで書類を片づけていく。
ここへ来た当初は、どうなることかと思った。
癖の強い顔ぶれがそろっているように見えたからだ。
だが、日々を重ねてみれば、案外居心地は悪くなかった。
もっとも、外から見れば、政雄自身も十分に癖のある人間と思われているのかもしれないが。
*
昨年、ウィンドウズNTが出て、今年の秋口には調査室にも共用のPCが一台入った。
まだネットにつながっているわけではなく、使い道も書類や資料作りが中心である。
それでも政雄には、それがただの備品には思えなかった。
景気の先行きが見えにくい一方で、世の中は別の方向へも動き始めている。
今はまだ目立たない変化でも、そのうち仕事のやり方も、情報の扱い方も、少しずつ変えていくはずだった。政雄にとって、その一台はそんな時代の入口のように見えていた。
共用のPCが入ってしばらくしたころ、政雄は誰も使っていない時間を見て、試しに資料を打ち直していた。
画面の上で文章を入れ替え、数字の並びを整え、不要な行を消していく。
ワープロより手数が少なく、考えた通りに直せるのがありがたかった。
「山本さん、ずいぶん手慣れているのね。まるで使い慣れてるみたいよ」
後ろから声をかけられて振り向くと、片岡がのぞき込むように画面を見ていた。
「そうですか」
「ええ。ワープロの時より、ずっと自然に見えるわ」
政雄は小さく笑った。
「どうも、マウスで作業するほうが、私には合っているみたいです」
片岡は感心したようにうなずいた。
「そういうものなのね」
前の人生でも、使いこなしていたとまでは言えないが、仕事で触る機会はそれなりにあった。
少なくとも、ワープロよりはこちらのほうが圧倒的に使いやすい。
画面の上で文章を動かせるだけでも、その違いは大きかった。
*
今年も景気はぱっとしなかった。
調査室で扱う資料の端々にも、その重たさはにじんでいる。
それでも一年は一年として終わっていく。
行内でも、表立って口には出さないまでも、どこか落ち着かない空気が薄く漂っていた。
そうこうするうちに、仕事納めの日がやってきた。
朝から慌ただしいのはいつものことだったが、午後になると、さすがに机の上を片づける者が増えてきた。年内に済ませるべき書類を確認し、年明けに回すものを脇へ寄せる。
電話の本数も、昼を過ぎるころには少しずつ減っていった。
「まったくよ、今年もばたばたしたまんまで終いだな」
大山がそう言うと、近くで小さな笑いが起きた。
「静かな仕事納めなんて、ここでは見たことありませんよ」
片岡がそう返し、榊は顔も上げずに書類へ目を落としたまま、
「静かだったら静かで、気味が悪いでしょう」
とだけ言った。
そのやり取りに、政雄も思わず口元をゆるめた。
こういう空気にも、もうすっかり馴染んでしまったらしい。
夕方が近づくにつれ、室内の空気も少しだけほどけていく。
まだ机に向かっている者もいるが、仕事の手はほんのわずかに緩み、年末の挨拶めいた言葉があちこちで交わされ始める。
今年もいろいろありましたねと笑う声があれば、来年こそは少しはましだとぼやく声もある。
政雄は自分の机の上を整えながら、何とはなしに室内を見回した。
調査室で年の瀬を迎えるのも、これで二度目になる。
最初はどうなることかと思った顔ぶれも、今ではもう見慣れたものだった。
景気は冴えず、先行きも明るいとは言えない。行内にも、
世の中にも、どこか落ち着かない気配がある。
それでも、ここへ来てからの日々は、思っていたよりずっと良かった。
机の引き出しを閉めたところで、年内の仕事はひとまず終わった。
*
仕事納めのあと、年の瀬は思いのほか充実したものだった。
三十日は、朝から大掃除になった。
例年なら手の回るところだけで終わるのに、今回は妙に体が動いた。
窓を拭き、換気扇を外し、風呂場を洗い、ついでに便所まで手を入れる。
良子にも少し呆れられたが、政雄自身、ここまでやる気になるとは思っていなかった。
大晦日は、午前のうちに近所のスーパーへ出て、正月用の買い足しを済ませた。
帰ってから、政雄は台所に立った。
結婚してからはやっていなかったが、手順は案外しっかり体が覚えている。
鍋に湯を張り、そばをゆで、優美には別にうどんを用意した。
「年越しそばを作ってくれるの?」
良子がそう言うので、政雄はうなずいた。
「久しぶりにやってみたくなったんだ」
元日の朝は、もう少し寝ているつもりだった。
だが優美が早くから起き出して、ごそごそ動き回り始めたので、そうもいかない。
結局、支度をして近くの神社へ初詣に出かけた。
境内はほどよい賑わいで、屋台もいくつか出ていた。
優美は綿あめを持たせてもらったものの、食べるより先に顔じゅうへつけてしまう。
頬も口元も指先も甘ったるくなって、それでも本人は大きな飴と格闘していた。
「かわいいけど、ひどい顔ね」
良子が笑うと、政雄もつられて笑った。
午後は家でのんびりした。
正月料理をつまみながら、優美の相手をし、気が向けばテレビを見る。
それだけのことなのに、ずいぶんゆるんだ一日だった。
*
夜になって良子も優美も寝ると、政雄はリビングに残った。
コーヒーを一口飲むと、頭の中の面々が今年もぞろぞろと席に着く。
まず口を開いたのは仕事担当だった。
「景気は今年も良くならない、行内の状況も良いとは言えません。やはり今年も、仕事を軸に考えていただきたい」
家庭担当がすぐに口を挟む。
「いやいや、昨年はかなり安定していたじゃないですか。今年これから特に何か控えているわけでもないのに、そこまで仕事を優先しなくてもよろしいのでは」
仕事担当は不服そうだった。
「家庭についても、昨年は相応に時間を割いたはずです。夏の水族館や、先日の遊園地もありましたし、家事も例年より積極的だったでしょう」
親戚担当が間に入る。
「まあまあ、そう熱くならずに」
だが仕事担当は引かなかった。
「何を言っているんですか。水族館も遊園地も、家族だけの話ではないでしょう。男は仕事です。仕事がなくなれば、趣味はもとより、家族も親戚もありませんよ」
親戚担当は落ち着いた調子のまま答えた。
「それを承知のうえでの会議でしょう。そのうえで申し上げますが、両家の親御さんは毎年年を取っていきます。その年齢がどういうものかは、実感としてお分かりでしょう」
「あのー」
趣味担当が小さく声を出したが、誰も聞いていない。
家庭担当はそのまま続けた。
「昨年、家庭にかなり時間を割いたとおっしゃいますけど、良子だって働いているんですよ。優美はますます手がかかるようになってきました。家庭担当としては、なお一層のご配慮をお願いしたいですね」
「あの、私にも一言言わせてください」
そこでようやく、他の面々が趣味担当のほうを向いた。
「毎年同じで恐縮ですが、音楽サークルは何とか続けたいです」
今年は少し立場の弱い仕事担当が、ややふてくされた調子で言う。
「続けるのは結構です。ただ、そのために仕事の分を削られるのは納得できませんね」
少し収まりがつかなくなってきたので、政雄は口を開いた。
「これ以上なければ、まとめるよ」
頭の中がいったん静かになる。
「たしかに男として仕事は大事だと思う。ただ、当面は目立ちすぎないよう気をつけるくらいでよさそうだ。だから仕事は現状維持でいく」
仕事担当は黙って腕を組んだ。
「家庭については、優美の成長に合わせて、もう少し良子の負担を減らしたい。それだけじゃなくて、疲れや不満もためこまないよう気をつけたいな。そこは良子の考えも聞いてみる」
家庭担当は納得したようにうなずく。
「親戚関係は、たしかに気をつけたほうがいい年齢に入ってきたと思う。明日と明後日の年始の挨拶でも、やんわり様子を見ておこう。ふだんも、もう少しこまめに連絡する」
親戚担当もうなずいた。
「最後に趣味だね。サークルは行内のほかの部署ともつながりがあるし、仕事と無関係とも言えない。それほど多くはできなくても、昨年よりは参加できるようにしたい」
趣味担当は、ほっとした顔でうなずいた。
一通り決まったところで、政雄はノートに要点だけを書き留めた。仕事、家庭、親戚、趣味。今年もまた、きれいに割り切れる話ではない。書き終えるとノートを閉じ、居間の静けさの中で冷めたコーヒーを飲んだ。
*
二日と三日には、それぞれの実家へ年始の挨拶に出向いた。
良子の実家では、優美の顔を見たいのだから、もっとまめに来なさいと義母に言われた。笑ってはいたが、半分は本気だろう。政雄も曖昧に笑ってうなずいた。
政雄の実家では、挨拶に来ていた姉夫婦と子どもたちにも会えた。半年ぶりに見る和子と幸太は、前に会った時よりずいぶん大きくなっていて、子どもの育つ早さにあらためて驚かされた。
四日の仕事始めに出勤すると、正月気分はもう残っていなかった。
ひと通り年始の挨拶を済ませるころには、政雄も今年の仕事へ気持ちを切り替えていた。
調査室へ戻ると、そこにはもう、いつもと変わらない調子の一日が待っていた。




