第115話 秋の風景 杞憂と楽しみ
10月も終わりに近づき、朝の机の上に触れた指先が、少しだけ冷たく感じられるようになっていた。
企画調査室では、いつものようにそれぞれが自分の担当案件に向かっていた。
榊は届いたばかりの照会文を読み、片岡は前日からの続きを片づけていた。
政雄も、前夜のうちに頭の中で整理しておいた順に、午前中の仕事へ手をつけていた。
そこへ、朝から上へ呼ばれていた大山が戻ってきた。
「おう、ちょいと皆聞いてくれ」
声の大きさだけで、部屋の向きがそろった。
榊が先に腰を上げ、片岡も政雄もあとに続く。
三人は打ち合わせ用のテーブルへ移った。
「また何か面倒ごとですか?」
椅子に掛けるなり、榊が低い声で言った。
「いや、今日は良い話だ」
大山がそう返すと、片岡が小さく息をついた。
政雄も腰を下ろしながら、肩のあたりの固さが少し抜けるのを感じた。
大山は立ったまま、三人を見回した。
「先だっての件な。あれ、先方との話もきちんとついて、ひとまず片がついたそうだ」
店の経営者の口座から始まった一件だった。
解約と預け直しが妙に続き、証書の番号に抜けがある。
上東支店から相談が上がり、調査室で調べ、最後は別の金融機関に出していた担保の控えまで届いた。
そこで裏が取れた。
あれから何日かたち、もうこちらへ戻る話ではないと思っていたが、結末だけはちゃんと伝わってきたらしい。
「それでだ。今回の件について、行内で表彰が出ることになった」
片岡が目を丸くした。
「へえ。それはまた、めずらしいこともあるものですね」
榊は顔色を変えなかったが、視線だけがわずかに上がった。
大山は続けた。
「第一の功労者は、妙だと気づいた支店の窓口と、そこから急いで報告した上東支店だ。まずはそこがいちばん大きい」
そこは政雄にも異論がなかった。
最初の引っかかりを見過ごしていたら、こちらへ話は来ない。
支店の担当者が迷わず本店へつないだからこそ、その先が動いた。
「それで第二の功労者として、調査室と山本だそうだ。調べが速かったてぇことと、支店に返した中身が的確だったこと、そのへんが評価されたらしい」
言い終わるころには、政雄の耳の後ろがじわりと熱くなっていた。
「私が、ですか」
思わずそう返すと、大山は鼻で笑った。
「おぅよ、山本が評価されたてぇことだ」
政雄は口を閉じた。
仕事ぶりを評価されるのは、ありがたいことだ。
ただ、表彰などと大事になるのは、目立ちたくない政雄としては喜ばしいとは言い切れない。
片岡が先に口を開いた。
「よかったじゃないの。山本さん、ずいぶんがんばっていたものね。あれだけ早く返せたから、大きな損害を出さずに済んだのだから」
「いえ、支店の動きが良かっただけです」
政雄がそう言うと、片岡は半分あきれたように笑った。
「そうやってすぐ謙遜する、謙遜も度が過ぎると……って言うわよ。今回は気持ちよく受け取っておけばいいのよ」
榊もそこで、短く言った。
「……評価されるだけのことは、していました」
それだけだったが、その言い方には余計な飾りがなかった。かえって逃げ道がない。
政雄は軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
大山は腕を組み、椅子の背に体を預けた。
「まあ、派手な賞状が出るわけでもない。だが、上で名が通ったのは事実だ。そこは覚えとけ」
前にも似たようなことを言われた。あの時よりも、今回は一段はっきりしていた。
名が通る。
それは、良いことと悪いことの表裏一体だ。後々面倒になるのは避けたい。
大山は政雄の顔を見て、少しだけ口元をゆるめた。
「そんな顔するな。別に壇上へ引っ張り出されるわけじゃない。金一封があるだけだ」
「それなら、まだ助かります」
「まだって何だ、まだって」
片岡が吹き出した。
榊も、ほんのわずかに視線を伏せた。
笑ったのかどうかは、政雄には分からなかった。
大山は机の上の手帳を開いた。
「伝達は来月の頭だそうだ。上東支店にも別で話が行く」
「支店のほうが、よほど落ち着かないでしょうね」
片岡が言うと、大山はうなずいた。
「窓口で気づいた人間なんて、余計にそうだろうな。だが、気がついて声を上げた者がいちばんえらい。そこは間違いない」
その言葉に、政雄は小さくうなずいた。
そこだけは本当にそうだった。
こちらは、届いたものを並べて、抜けやつながりを確かめただけだ。
最初の違和をつかんだ人がいなければ、何も始まらない。
ひと息おいて、大山が手帳を閉じた。
「じゃあ、良い話はここまでだ。ここからはいつもの話をするぞ」
「やっぱり面倒ごとじゃないですか」
片岡がすぐに言い、大山が笑った。
「面倒じゃねぇ仕事なんぞ、そうそうあるか」
それからは、いつもの打ち合わせになった。
誰がどこまで受け持つか。榊が短く要点を確かめ、片岡が日取りを見て引き受ける。
政雄にも二つほど担当が回ってきた。
話しているうちに、さっきまでの表彰の話は、薄まっていった。
ありがたさも照れくささも消えたわけではないが、通常業務に戻っていった。
打ち合わせが終わると、三人はそれぞれの席へ戻った。
椅子に座り直した政雄は、机の端に寄せてあった書類を手前へ引いた。
今日は今日の分を進めるしかない。名前が知られようが、伝達があろうが、目の前の手順は変わらない。
それでも、さっきの言葉だけは耳のどこかに残っていた。
評価されるだけのことは、していました。
榊にそう言われるとは思っていなかった。大山の大きな声とも、片岡の明るい調子とも違う、普段あまり人を褒めない榊のひと言は嬉しくもあった。
政雄はひとつ息をつき、最初の一枚に手を付ける。
それにしても、今回は予想外のことだった。
やはりもう少し目立たぬよう行動しようと思う政雄だった。
*
そんな話があった次の水曜日、政雄は定時で仕事を切り上げ、地下2階の講堂へ下りた。
扉を開けると、もう何人か来ていた。
譜面台を広げる者、音を合わせる者、軽く指を動かして具合を確かめる者。
退勤後のゆるんだ空気の中に、金管と木管の乾いた響きがまばらに混じっていた。
政雄も一通りあいさつをして、自分の席へ向かった。
ケースを開け、楽器をつなぎ、リードの具合を見ながら口元で軽く息を通す。
しばらくすると、講堂の入口が開き、田口が入ってきた。
政雄の姿を見つけると、そのままこちらへ歩いてきて、隣の椅子に鞄を置いた。
「よう」
「お疲れさまです」
田口は短く返して腰を下ろし、慣れた手つきでクラリネットの準備を始めた。
何回も組んできた手つきだった。管をつなぐ動きにも無駄がない。
「そういえば聞いたぞ。お手柄だったんだってな」
いきなりそこへ来るのか、と政雄は思ったが、顔には出さなかった。
「いや、たまたま私が担当しただけですよ」
「そうなのか。ずいぶん噂になってるぞ」
「そこが怖いんですよ。実力以上に見られても、ろくなことはありませんからね」
田口は組み上がった楽器を膝に置いたまま、少しだけ口元をゆるめた。
「まあ、そういうこともあるな」
それから、少し声を落とした。
「今はなおさらだ。この業界、何がどう転ぶか分からん時期だからな」
政雄も小さくうなずいた。
行内の統廃合だの、人の出入りだの、春先から落ち着かない話はいくらでもあった。
やがて、他の面々もそろってきた。
トランペットが二人、トロンボーン、ベース、ドラム、それにギター。譜面台の並びが埋まっていくと、講堂の中もようやく落ち着いた形になる。
*
その日の練習は、年末に人前で演奏する曲を中心に進んだ。
まだ十月の終わりだが、年末の予定は思ったより早く決まる。
通しで吹くたびに、入りの甘いところや、息の合わない小節が見えてくる。
政雄もアルトを吹きながら、微妙な箇所を調整していった。
仕事のことが頭からまるっきり消えるわけではない。
だが、譜面を追っているあいだだけは、それだけに集中できる。
政雄にとって水曜の夜は、そういう時間だ。
ひと区切りついたところで休憩になり、講堂のあちこちで人がばらけた。
飲み物を取りに行く者、譜面を見直す者、そのまま座って雑談を始める者。
政雄が楽器を膝に載せたまま息をついていると、少し離れたところから京子が手を振ってきた。
「お義兄さん」
「やあ」
京子はキーボードの前から立ち上がり、そのままこちらへ来た。いつもの明るい顔だった。
「この前、お姉ちゃんから電話が来たんですよ」
「ああ、遊園地のことだね」
「そうそう。あそこ、私も前からちょっと気になってたんですよ」
それを聞いて、政雄は少し気が楽になった。
良子の思いつきに付き合わされる形だったら、京子にも気をつかわせるかもしれないと思っていたからだ。
「それならちょうどよかった」
「ええ。予定も、たぶん合わせられると思います」
「優美も喜ぶよ」
そこまで言ってから、政雄は少しだけいたずらっぽい気分になった。
「優美の相手も、よろしく頼むね」
京子はすぐに眉を上げた。
「ええ、そこ?」
「そこです」
きっぱり返すと、京子は一拍おいてから吹き出した。
「もう。お義兄さん、そういうところだけ正直なんだから」
「大事な役目だからね」
「まあ、いいですけど。優美ちゃん、かわいいし」
そう言う声が、思った以上にやわらかかった。
政雄はうなずいた。実際、その通りだった。
優美は毎日そばにいるのに、気がつくと昨日までしなかったことをしている。
言えることがひとつ増え、歩き方が少し変わり、気になったものへ向かう足取りにもためらいがなくなっていく。
見ているつもりでも、育つ速さは親が思うより早いようだ。
「みんなで行きたいと、良子も思ってるみたいだから」
「お姉ちゃん、楽しみにしてる感じでした」
「そうだよね」
多摩のほうの遊園地だと言い出した時の顔を思い出し、政雄は少しだけ笑った。
優美のため、という話ではあったが、良子自身が乗り気なのもよく分かっていた。
京子もつられて笑った。
「その時は、任せてね」
「頼りにしてる」
そう返したところで、休憩の終わりを知らせる声がかかった。
講堂の中の人が、またそれぞれの持ち場へ戻っていく。
京子は「じゃあ、戻りますね」と言ってキーボードのほうへ歩いていった。
政雄も楽器を持ち直し、リードの位置を指先で整えた。
なんだかんだ言っても、優美は身内の気持ちをやわらかくする。
京子のあの顔を見ていると、なおさらそう思う。
そして、そんなふうに考える自分が、いちばん分かりやすくあの子に甘いのかもしれないと、苦笑いするしかなかった。




