第113話 変わった仕事
九月も下旬になって、暑さもだいぶおさまってきたころだった。
朝の通勤電車の中でも、窓から入る風に秋の気配が混じるようになっていた。
調査室の窓の外では、向かいのビルの壁面に反射する光が、夏の強さを失い、どことなく柔らかい色に変わっている。
政雄が書類の山を小脇に抱えて入ると、榊はすでに席についていた。
机の上には今日の分の資料が、決まった順序で揃えてある。
「おはようございます」
「おはよう」と、榊は資料から目を上げずに返した。
続いて片岡が入ってきた。鞄を置く動作までが、いつもより少し早い。
「今朝も、駅の階段まで走っちゃったわ」
三人がそれぞれに挨拶を返す。それが済んだところで、大山が入ってきた。
普段なら「おう」と掠れるだけの朝の声が、今日は最初から低かった。
大山は机の間を抜けて、いつもの椅子に腰を下ろした。持っていた茶封筒を机の上に置く。中身を出す前に、ひとつ息をついた。
「……ちょいと、三人とも、面倒な話を持ってきちまってな」
榊が顔を上げずに言った。
「何です」
「それがよ、支店の方から回ってきた相談でな。ちょいと厄介な代物だ」
大山は封筒から、古びた書類を取り出して机に並べた。
定期預金の証書のコピーだった。
金額の欄に、政雄の目にも大きいと分かる数字が記されている。
「ある高級クラブの経営者の口座だ」
「高級クラブ……ですか」と、片岡がつぶやいた。
「ここひと月ほどで、何度も解約と再預入を繰り返してる。金額もでかい。窓口の方で、ちょいとおかしいって気づいてな。こっちに相談が来たってわけだ」
榊が書類を覗き込み、低く言った。
「証書の番号、おかしいですね」
「……よう気づいたな。本来なら連続してるはずの番号が、途中で飛んでやがる」
政雄は証書のコピーを見つめた。
解約と再預入を繰り返すたび、番号は新しいものに振り替わる。
だとすれば、飛んだ番号の証書は、もう帳簿の上には存在しないはずのものだ。
榊の指摘で不自然な点は分かった。
だが数字の羅列そのものは、政雄の中ではまだ、何の重みも持たない記号だった。
重みを与えたのは、大山の次の言葉だった。
「三年前、大阪の料亭の女将がやらかした事件を覚えてるか。偽もんの預金証書を担保に、別のとこから金を引っ張った、あの話だ。今回のは、それを思わせる匂いがする」
背筋に、寒いものが走った。
忘れるはずがない。前世でも新聞を賑わせた事件だった。
「山本、こいつを少し調べてくれねえか。榊は進行中の資料を外せない。片岡は先週からの分を片づける。まずは、この番号の飛びが何を意味するのか、ちゃんとした形で持ってきてほしいんだ」
「分かりました」
返事はすぐに出た。口にした自分の声が、思ったより静かに聞こえた。
*
調べるといっても、最初にやることは地味だった。
そもそも調査室へ回ってくる依頼は、開発部門からの市場調査か、売り出し後の商品の行方を追う調査か、そのどちらかだった。
支店の窓口から相談が直接上がってくるのは、政雄の知るかぎり一度もなかった。
政雄は支店へ照会をかけ、当該口座の解約払戻請書の控えの提出を依頼した。
あわせて、解約と再預入が行われた日付の一覧を作る。
窓口で預かった定期預金を解約すれば、証書は回収される。
新しい期間で預け直せば、新しい番号の証書が出る。
ならば、古い番号の証書は、正規の手順ではこの世に存在しない。
三日後、支店から控えが届いた。請書は一通ごとに別の担当者の印が押され、日付はひと月の間に六回。金額はいずれも大口で、端数が続いていた。
三千万八千円。四千万二千円。
切りの悪い数字が続くのは、手元の資金が足りない者がやる動きだと、政雄は思った。ぎりぎりの額を回して、そのつど証書を作り直している。
問題は、その繰り返しの間に、古い証書がどこへ行くのかだった。
手元に残れば、ただの紙切れだ。だが、どこかへ渡っていれば。
政雄はノートを開き、番号の並びを書き出して、飛んだ番号に丸を付けた。
丸は六つ。六通の、帳簿に存在しないはずの証書。
*
昼前、政雄は上東支店への追加の照会用紙を持って、事務企画課へ向かった。
支店への照会は、調査室から直接かけるのではなく、課の事務を通して回すのが決まりだった。
「相沢さん、これ、支店に送ってほしくて」
相沢の席で用紙を渡しながら、政雄はできるだけさりげない顔を心がけていた。
「山本さん、今日は真剣な顔してますね」
「少しだけ、数字とにらめっこをね」
「あ、上東支店ですか?。昨日、用事で行ったんですけど、窓口のみんなの様子がどこか変だったんですよ。だから、あそこの件かなって」
政雄は顔を上げた。
「窓口の様子というと」
「お客様の預かり物の確認を、いつもよりていねいにしてる感じです。当然のことなんですけど、なんというか、心配そうというか。私の用事の間にも、後ろの方で同じ話をしてました」
政雄はうなずいて、相沢の話をそのままノートの端に書き添えた。
「相沢さんは、面白いたとえをする人だと思ってたけど、観察もいい」
「え、なんですか急に。からかわれてます?」
「からかってないよ」
政雄は軽く片手をあげて部屋を出た。背後では、相沢が用紙を片づける音が続いていた。
窓口が心配そうに確認をしている。ということは、支店もすでに、口座の主以上にこの動きを気にしている。
*
その日の夕食の支度は、政雄が引き受けた。
味噌汁の具をきざみ、魚を焼く。手つきがぎこちないのは変えられなかったが、手順そのものは、前の人生では一人で暮らしたので、体が覚えていた。
良子が寝室から台所に出てきて、足を止めた。
「夕飯の支度ありがとう」
「いや、見た目は良くないけどね」
「手伝うわ」
「うん。優美は寝ちゃったの?」
「そう、子供って突然寝ちゃうわよね」
良子は小さく笑って、腕まくりをした。味噌汁の味見をし、ご飯をよそう。
夕食を終えて、政雄はリビングのテーブルで資料を開いた。良子が淹れてくれた茶を置いて、隣に座る。
「相変わらず、忙しそうね」
「忙しいというより、ちょっと怪しい案件でね。少し時間がかかりそうだ」
「そう。大変なこと?」
「大変かどうかで言えば、面倒な方だと思う。三年前にあった、大阪の料亭の女将の話を覚えてるか」
「ああ、銀行がひどい目に遭ったっていう」
「それを思い出すような匂いが、うちにも届いている。まだ何も確かなことはないけど」
良子は茶を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
「あなたがそう言うなら、ただごとじゃないのねきっと」
「ああ。ただ、まだ言えるのはそこまでなんだ」
「そう。これ以上聞かないでおくわ。でも、家のことは気にしなくていいわよ。優美には私がいるから」
「ああ」
ありがとう、と付け加える前に、良子はすでに立ち上がっていた。
政雄はしばらく、湯のみを流しに運ぶ後ろ姿を見ていた。
前世の、自分だけのがらんとした部屋が一瞬よぎった。
今の部屋には、良子と優美の気配があった。
*
翌週、政雄は途中経過を一枚にまとめ資料を添付した。
結論は、書ける範囲で書いた。口座の主は、預け入れと解約を繰り返すたびに、新しい証書を手にしている。飛んだ番号の証書は、少なくとも六通。正規の手順なら回収済みのはずのものだ。
もしそれらが、どこか別の窓口に担保として差し出されていれば、二重の担保になる。その場合、当行に届いたのは影の部分だけで、形そのものは、まだどこにも出ていない。
確認すべきは三点。担保に差し出された形跡、金の流れの先、そして当行の窓口が違和を覚えた最初の日。
報告は短かった。大山はそれを読み、机に置いて、顔を上げた。
「ほう」
それだけで、続きはなかった。
調査室の「ほう」は、悪くないという意味だと、政雄は最近覚えた。
榊が報告書を引き取って、通しで目を通す。頁をめくる音が三回。閉じてから、低く言った。
「……悪くないですね」
「足りないところは」
「担保の確認が、まだ推測のままですね。それだけ、次に片づけばよろしい」
片岡が報告書を覗き込み、少し笑った。
「この書式は分かりやすいわね」
「だそうだ」
と、大山が口を挟んだ。
「じゃあ山本、残りの二点も、順に頼むぞ。支店にはまたこっちから声をかけとくから。何か出てきたら、いつでもいいから持ってこい」
「はい」
それで会議は終わりだった。
片づけをしながら自分の机に戻ると、政雄は報告書の控えの余白に、小さく書き添えた。
本物の証書は、まだどこにも出ていない。
出るとすれば、その時はもう紙切れではなく、誰かの担保としてだ。
ペンを置いてから、政雄は窓の外へ目をやった。
窓外の秋の光は、朝より少しだけ色を濃くしていた。




