112話 子どもたちの夏
七月も半ばを過ぎたころ、政雄の実家から電話がかかってきた。
「八月の初めだけど、あんたたち一泊で来ない?、幸とももう話してあるのよ」
受話器の向こうで、母の声はどこか弾んでいた。
「二日目にみんなで水族館へ行こうってことになってね。和子が、学校のお友達から聞いて、一度行ってみたいんですって」
「もうそこまで決まってるのか」
「幸とは毎日顔を合わせてるんだから、そのあたりの話は早いのよ。幸のところは日帰りだけどね」
母はそこで少し笑って、それから思い出したように言い足した。
「それにね、父さんが張り切っちゃって。庭にプールを出して、朝から水を温めておくから、優美ちゃんを早めに連れて来いって言うのよ」
政雄は思わず受話器を持ったまま笑った。
「父さんがか」
「そうよ。あんたのところじゃ、こういうことはなかなかできないだろうって」
和子が使っていた小さなビニールプールは、今は幸太が使っているはずだった。それを今度は優美のために出すつもりでいるらしい。
「分かった。ちょっと待って」
受話器を手でふさいで、政雄は台所にいる良子に声をかけた。
「八月の初め、実家に一泊で来ないかって。二日目は姉さんのたちと水族館に行くらしい」
良子は振り向いて、少し考える顔をしたが、すぐにうなずいた。
「その辺なら大丈夫よ。特に用もないし、優美も喜ぶんじゃない」
「良子も大丈夫だって、行ける」
政雄が受話器に戻ると、母は満足したように「あら、よかった」と言った。
「じゃあ詳しいことはまた近くなったら電話するわね」
電話を切ってからもしばらく、政雄の耳には母の明るい声が残っていた。景気の悪い話ばかりが続く夏だったが、家族の予定だけはもう先に決まっているらしかった。
*
約束の日が来ると、政雄たちは朝のうちに支度を済ませて家を出た。
良子は優美の着替えやらタオルやらで荷物をふくらませ、政雄はそれをひとまとめにして持つ役だった。電車の中では、優美は最初こそきょろきょろしていたが、しばらくすると良子の膝の上でおとなしくなった。
実家の最寄り駅で降りて少し歩くと、家の前で母が待っていた。
こちらの姿を見つけるなり、ほっとしたように笑う。
「いらっしゃい。優美ちゃん、暑かったでしょう」
その奥では、父さんが庭先でごそごそやっていた。
ランニングシャツに麦わら帽子、首に手ぬぐいまで下げて、朝からすっかりその気らしい。
見ると、もう小さなビニールプールが出してあり、半分ほど水も張ってある。
「来たか」
父さんはそれだけ言って、少しかがんだまま手で水をかき回した。
「まだ冷たいな。もう少ししたらちょうどよくなる」
どうやら本当に、朝からそのつもりで待っていたらしかった。
優美は最初こそ水に足を入れたとたん身をこわばらせたが、浮かべたおもちゃを政雄がそっと押してやると、すぐに気がそれた。
手を伸ばしてつかもうとし、水面を叩いてしぶきを上げるうちに、すっかり機嫌が直ったらしい。
十五分ほど遊ばせたところでいったん上がらせ、庭先の日向で体を拭いて休ませる。
少ししてもう一度入れてみたが、今度は長続きしなかった。
さっきので満足したのか、ほどなくして飽きてしまい、良子に着替えさせられるころにはもう眠たそうに目をこすっていた。
そのまま六畳に寝かせると、あっけないほどすぐに眠ってしまった。
夕方近くなってから、幸たち一家も顔を出した。
家族で買い物に出た帰りだという。
和夫が車から大きなスイカをひと玉下ろして台所へ運びこみ、母が「そんな気をつかわなくていいのに」と言いながらも嬉しそうに受け取った。
「明日はちょっと用があって、私は行けませんけどね」
和夫はそう言って苦笑し、勧められるまま麦茶を一杯だけ飲んだ。
幸は、明日は自分と子どもたちだけで来るつもりだと、これももう決まったことのように言う。
寝ている優美をのぞきこんだ和子は小声で「優美ちゃん、小さくてかわいいね」と言い、幸太はそんなことより庭のプールの方が気になるらしく、しきりにそちらを見ていた。
幸たち一家が帰ると、さっきまでのにぎやかさがすっと引いて、家の中は急に静かになった。
とはいえ、眠っていた優美はその気配を見計らったように目を覚まし、しばらくするとまた機嫌よく動き回り始めた。
母はそのあいだにも台所に立って夕食の支度を進め、良子も自然にその手伝いに入っていく。
庭先のプールはもう水を抜かれ、父さんはホースを片づけながら、明日は少し早く出た方がいいかなと言い、水族館の話をぽつりぽつりと口にした。
夕食は、そうめんが中心だった。大皿にこんもり盛られた白い麺のまわりに、刻んだきゅうりや錦糸卵、茹でたささみが別皿で並び、暑気を払うにはちょうどよさそうだった。優美には少し短く切ってやると、最初は指でつまんで不思議そうに見ていたが、そのうち口に入れておとなしくなった。
母はそれを見て「食べるわねえ」と嬉しそうに言い、良子もほっとしたように笑った。
父は昼間のプールがよほど楽しかったのか、「あれならまた入れてやってもいいな」と言い、母に「明日もあるんだからほどほどにしなさい」とたしなめられている。
政雄は箸を動かしながら、こうして皆で卓を囲んでいるだけで、夏休みらしい一日になるものだと思った。
風呂をすませ、優美が先にうとうとし始めるころ、政雄たちは六畳に布団を並べた。
ここは以前は政雄の部屋だったが、今ではすっかり子ども部屋になっている。
おもちゃや、小さな着替えが隅の方に寄せてあり、押し入れの中にも見慣れないものが増えていた。
アパートでも似たような広さで親子三人寝ているのだから、不自由というほどではない。
ただ、何気なく見回したとき、以前ならどこかにあったはずの和子のものが見当たらなかった。
今ここにあるのは幸太のためのものばかりだ。和子はもう、この部屋を毎日のように使う子ではないのだと、政雄は布団に横になってからあらためて思った。
*
翌朝、まだ早いうちから、台所の方でごそごそと物音がしていた。目を覚ますと、隣では良子と優美がまだ寝ている。
政雄がそっと起きて台所をのぞくと、母はもう流しの前に立って、大量のおにぎりを握っていた。
「おはよう」
「あら、起きたのね」
大皿の上には、もういくつもおにぎりが並んでいる。
「そんなに作ってどうするの」
「朝ごはんに食べて、あとは持っていくのよ」
「暑いのに傷まないか。水族館だって何か食べられるだろう」
「きっと混むわよ。子どもはお腹がすいたら待てないでしょう。保冷材もあるから大丈夫よ」
母はそう言いながら、手を休めなかった。確かに和子も幸太も、優美だって腹が減れば機嫌は悪くなる。水族館で何でも買えるだろうと思うのは、動き回る子どもを連れていない者の考えかもしれなかった。
*
水姉たちとは、現地で待ち合わせることになっていた。
夏休みの盛りだけあって、駅から人の流れは絶えず、館内に入ってみれば子ども連れでかなりにぎわっている。
それでも中へ進んでしまえば、それぞれに見るものが違った。
優美は群れをなして動く小魚の水槽の前でじっと足を止め、目の前を途切れなく流れていく銀色の影を飽かず見つめていた。
和子はペンギンのところでいちばん声を弾ませ、「かわいい」を何度も口にした。
幸太はなぜかクラゲの水槽の前からなかなか動かず、ふわふわ漂う半透明のかたまりを、黙って見上げていた。
イルカショーまでひと通り見て回ると、最後に寄った土産物売り場でまた足が止まった。
和子はイルカのキーホルダーを、幸太は魚の塗り絵帳を欲しがり、優美は小さなアザラシのぬいぐるみを持たせてみると、そのまま離そうとしなかった。
午後までたっぷり遊ぶころには、さすがに子どもたちも疲れが見えてきたので、そこでおひらきになった。
姉たち一家は車で両親を乗せて帰っていき、政雄たちは電車で帰ることにした。
帰りの車内では、優美は良子の肩にもたれたまま、ほどなく眠ってしまった。
眠ってしまった優美を抱え直しながら、政雄は窓の外をぼんやり眺めていた。
景気のことも、この先のことも、考え始めれば明るい話ばかりではない。
それでも、どんな時代になっても子どもは育っていくのだろうと思う。
和子はもう学校の話を家へ持ち帰るようになり、幸太は目の前のものにまっすぐ心を奪われ、優美もまた今日ひとつ新しい夏を覚えたはずだった。
先の不安ばかりを数えていても仕方がない。
今はこうして、育っていくものを見ていればいいのだと、政雄は眠る娘の重みを腕に感じながら思った。




