111話 忘れていたこと
一九九四年の春、銀行では大きな人事異動と部署の統廃合が行われた。
不況下での組織いじりだけに、誰も表向きには淡々としていたが、その実、行内の空気はひどくささくれていた。
新しい肩書を与えられても喜ぶ者は少なく、逆に肩書が変わらなかった者も、それはそれで先がないように感じて落ち着かない。
表立って不満を口にする者はほとんどいなかったが、雑談は減り、ちょっとした伝言ひとつにも妙な棘が混じることが増えていた。
企画調査室も例外ではなかった。仕事そのものが急に変わるわけではない。
だが、どこの部署も余裕をなくしているせいで、少し前ならひと声で済んだ確認に時間がかかり、責任の所在が曖昧な案件ほど人の顔色を見ながら進めなければならなくなっていた。
調査室に持ち込まれる話も、将来に備える前向きなものより、傷が広がらないよう先に手を打っておこうという類のものが増えていた。
そういう中で、政雄のところへ回ってくる仕事も少しずつ変わっていた。
片岡は相変わらず手堅く、調べものも書類のまとめも隙がない。
ただ、子どものことがある以上、終業間際から動き出す案件や、他部署との調整が長引きそうな件は抱えにくい。
無理をして残れないのは仕方のないことで、そこに不満を覚えるほど政雄も狭量ではなかった。
だが現実として、時間の読めない仕事は榊や大山から自然と政雄へ回されるようになっていた。
昇進の話があるわけではない。
けれど、何を任されるかという意味では、去年までと同じではなくなりつつあった。
政雄自身も、その変化には気づいていた。
ありがたいと言えばありがたい。
見込まれていると受け取れなくもない。
だが、便利に使いやすいから回ってくるだけかもしれないと思えば、手放しで喜べるものでもなかった。景気は悪い、行内の空気も悪い。
こういう時期に仕事が増えるのは、評価されているからというより、断りにくい者へ皺寄せが集まるからだということも、政雄にはよく分かっていた。
六月も終わりに近づくころには、春からのごたごたも、表面上はどうにか収まりつつあった。
席替えだの書類の移し替えだの、細かな混乱はひとまず片づいて、日々の業務だけを見れば落ち着いたと言えなくもない。
しかし、それで皆の気持ちまで落ち着いたわけではなかった。
むしろ、動くべきものが動ききったぶん、もうこれ以上よくはならないのではないかという諦めのようなものが、行内のあちこちに沈んでいた。
そして六月の終わり、それは起こった。
*
その日も政雄は無難に仕事をこなしてアパートへ戻った。良子はすでに帰っていて、夕食の支度をしながら、足もとにまとわりつく優美の相手をしていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。今日は早かったのね」
「早いと言っても、少しだけだけどね」
政雄は靴を脱ぎながら、良子の足にしがみついている優美を見下ろした。
「優美は保育園で元気に遊べたかな?」
優美が何やら得意そうに声を上げる。
「そうか。それはよかった」
「あなた、優美が何を言ってるのか分かるの?」
「元気だったって言ってる」
「また適当なこと言って」
良子があきれたように笑い、政雄もつられて口もとをゆるめた。
優美はそんな両親の顔を見て、何が面白いのか、また声を上げて笑った。
こういう時間だけを見ているぶんには、世の中が少しずつ悪い方へ傾いていることなど、どこか遠い話のようにも思えた。
もっとも、それがただの錯覚にすぎないことを、政雄はよく知っていた。
夕食を終え、ひと息ついたところで、政雄は何気なくテレビのニュースに目をやった。
そこで流れてきた報道に、思わず表情が固まる。
長野県松本市で、毒ガス事件が起きたという。
*
最初はぼんやりと聞いていた。松本で毒ガス事件。住宅地で、夜のうちに、原因不明の有毒ガスが広がったという。物騒な事件だとは思ったが、その時点ではまだ、どこか遠い土地の異様な出来事にすぎなかった。
だが、次の瞬間だった。
政雄の脳裏に、忘れていた前の人生の記憶が、不意に浮かび上がった。これで終わりではない。
もっと大きな事件が、この先にある。地下鉄だ。朝の通勤時間帯だったはずだ。
車内か、駅か、とにかく大勢の人が巻き込まれる。そこまで一気につながったところで、政雄は息を呑んだ。
地下鉄サリン事件。
その名が頭に浮かんだとたん、背筋が冷たくなったが、思い出したのはそこまでだった。
いつだったか。何線だったか。どの駅だったか。肝心なところが、どうしても出てこない。
松本のすぐ後ではなかったはずだということだけは覚えている。
だが、それでは足りない。足りなさすぎる。
政雄は黙ったまま、ニュースを見つめた。
自分は山手線通勤だ。良子も山手線とバスで、地下鉄は使わない。
父も姉夫婦も地元勤めで東京には出ない。義父も都心通勤ではない。
気になるとすれば京子だけだった。丸の内勤めなら、地下鉄に乗ることがまるでないとは言い切れない。だからといって今すぐ何をどう言えばいいのか分からなかった。
政雄はしばらく黙ったまま、ニュース画面を見つめていた。
「どうしたの。急に黙り込んで」
良子の声に、政雄ははっと我に返った。
「いや……毒ガスなんて、事件ならひどい話だと思って」
「そうねえ。なんだか怖いわね」
少し間を置いてから、政雄はできるだけさりげない調子で言った。
「そういえば京子ちゃん、いつもどういうふうに通ってたっけ」
「え、急に何?」
「この前言ってただろ。サークルで前に使った楽譜、まだ京子ちゃんが持ってるかもしれないって。もし通勤のついでに持ってくるなら重いだろうし、こっちで取りに行った方がいいのかなと思って」
良子は少し考えてから答えた。
「確か、最寄り駅からそのまま電車で東京まで出てたんじゃなかったかしら。そこから先は歩きじゃないの」
「そうか」
「でも、何で今それを思い出すのよ」
「いや、なんとなくな」
良子は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
最寄り駅から東京まで出て歩くならいい。だが、毎日必ず同じとは限らない。政雄の胸のざわつきは、それだけでは消えなかった。
本当は多くの人を助けたい。起こると知っているのだから、止められるなら止めたい。けれど、日時も場所も思い出せない。前の人生の記憶があるなどと言えるはずもない。そんなことを口にして信じてもらえるとも思えなかったし、下手をすれば、事件のあとで妙な目を向けられかねない。
それでも、せめて身内だけでもと政雄は思った。
次に会う時に、それとなく本人にも聞いてみるしかないか。
そう思いながらも、政雄は画面から目を離せなかった。
*
数日後、サークルの帰り際、政雄は何でもないふうを装って京子に声をかけた。
「京子ちゃんは、どうやって通勤してるんだっけ」
「最寄駅から東京駅ですよ。何急に。帰りに何か御馳走してくれるとか?」
「いや、ちょっと気になっただけだ」
「えー、残念」
京子は肩をすくめて笑った。
「それなら今度うちにおいでよ。一家で歓迎するから」
「その時は、お寿司がいいなー」
「ああ、良子にも言っておくよ」
そんな軽口のやり取りのあとで、政雄はようやく胸のつかえが少し下りるのを感じた。
少なくとも京子は地下鉄で通ってはいない。
それが分かっただけでも、今は納得するしかない。




