110話 1994年 年のはじめに
一九九三年の年末を迎えるころには、さすがに世間もバブルがはじけたことを実感しはじめていた。
去年の今ごろまでは、まだそのうち持ち直すと言う者もいたが、もうそんな景気のいい話を口にする者は減っている。
金融機関の不祥事や政府の景気対策をめぐる話も続き、これまでと同じようにはいかないのだと、誰もがうすうす感じているようだった。
双葉銀行でも年末が近づくにつれて、明るい話題はめっきり減った。
仕事納めの日を迎えても、以前のような浮き立った感じはない。ひとまず休みに入る安堵はあっても、その先にある年への期待より、不安の方が勝っているように政雄には思えた。
三十日は部屋の中を軽く掃除して過ごした。
三十一日の午前中は、良子といっしょに近所へ正月の買い出しに出る。
午後は家でのんびり過ごし、良子は煮しめやなますの支度をし、政雄もできることだけ手を貸した。
優美は母親がずっと家にいるのがうれしいのか、その日は終始機嫌がよかった。
元日もゆっくり起き、雑煮を食べてからは優美の相手をしたり、テレビを何となく眺めたりして過ごした。
こうして家でのんびりしていると、去年より家族らしい正月になった気もする。
もっとも、優美はまだ小さいから、本人に正月の区別などないのだろうが、それでもいつもより人の気配が途切れないのがうれしいのか、朝からご機嫌だった。
その夜、良子と優美が寝てから、政雄はリビングにひとり残った。
部屋の隅の小物入れからノートとペンを出す。
何年も前から使っているノートで、仕事、家庭、親戚、趣味と分けて、その年の目当てや方針を短く書きつけてある。
ほかの者が見れば、新しい年の目標を書いた、それだけのものにしか見えないだろう。
だが政雄にとっては、毎年恒例の脳内会議の記録でもあった。
表紙を開き、去年の頁をざっと追う。
思ったほど進まなかったこともあれば、最初には考えていなかったのに何とか済んだこともある。
ひととおり確かめてから、新しい頁を開いた。
「さて、今年も始めようか」
その声を合図にしたように、頭の中でいつもの面々が集まってきた。
最初に口を開いたのは仕事担当だった。
「では今年の配分について申し上げます。仕事への比重は昨年より増やすべきです。景気はまだ上向きませんし、行内も去年までとは様子が違います」
家庭担当がすぐに口をはさんだ。
「ちょっと待ってください。その言い方では、仕事最優先で他はどうでも良いように聞こえます」
「家庭を軽んじるつもりはありません。ただ、現状認識として仕事の方がいっそう厳しくなっていると言っているのです。去年の秋ごろから、もう本店の中の雰囲気が違う。安東の異動ひとつ取っても、人事の裏を勘ぐる話が出る。田口だって新しい上司と合わずに苦労している。自分自身、もう仕事だけしていれば済む立場ではないでしょう」
「それは家庭も同じです」
家庭担当も引かなかった。
「優美が熱を出した時のことを、もうお忘れですか。保育園へ迎えに行って、どうしていいか分からず慌てていたのは誰でしたか。良子が負担している分を、少しは戻してもらわないと困ります」
仕事担当が少し言葉を切った。
「それは、たしかに想定より負担が大きかったですが」
そこへ親戚担当が、落ち着いた調子で加わった。
「その件で言えば、家庭だけの話でもないでしょう。両家の親も、もう若くはありません。昨年は大ごとにならずに済みましたが、今年も同じとは限らない。けがでも病気でも、長びく年齢です。何か起きた時にどう動くか、先に考えておいた方がよろしいかと」
趣味担当が遠慮がちに手を挙げた。
「あの、できればその前に少しだけ」
「「あとにしてください」」
仕事担当と家庭担当がほとんど同時に言ったので、趣味担当は口をつぐんだ。
家庭において、夫の趣味はどうしてもあと回しになりがちだ。
政雄の父も、政雄が中学に入るころには、趣味の釣りに出かけることはほとんどなくなっていた。
たまに釣り道具の手入れをしている父の背中を見かけるくらいだった。
政雄は少し苦笑しながら、その先のやり取りに耳を傾けた。
親戚担当は気にせず続ける。
「それに、景気がこの調子では、大きな出費は控えるべきでしょう。こちらから勧める話ではもちろんありませんが、身内から相談を持ちかけられた時にも慎重であるべきです。姉のところもありますし、京子も親戚のうちです。ただ、まず気にしておくべきは両家の親でしょう」
仕事担当もうなずいた。
「その点は異論ありません。今年も金の出入りには気をつけるべきです」
そこで、趣味担当がもう一度おずおずと口を開いた。
「そろそろ、よろしいでしょうか。全面的に趣味を削られるのは困ります。サークルは続けたいです」
仕事担当がすぐに言う。
「優先度は低いでしょう」
「低いのは承知しています。でも、なくしてしまうと息抜きも出来ません。去年も、ようやく行けるようになってからは、やっぱり違ったじゃないですか。サックスを吹くこと自体もそうですし、田口や京子と話せるのも、あれはあれで意味があると思うんです」
家庭担当が少し考えてから答えた。
「全部なくす必要まではないでしょう。ただ、毎週必ずというのは難しいのではありませんか」
「そこまでは求めません。行ける時に行ければ十分です」
親戚担当も助け舟を出した。
「息抜きがなくなると、ほかにしわ寄せが行くこともありますからね」
政雄はそこでペン先を止めた。去年の終わりに考えたことは、やはり間違っていないらしい。
前の人生の記憶だけで渡っていける時期は、もう過ぎている。
家庭でも職場でも、前世では経験のないことが少しずつ増えてきていた。
「では意見が出そろったようだから、まとめようか」
仕事担当がうなずく。
「まず仕事だな。今年は去年までより気をつけてやるしかない。景気もそうだし、行内のことも、もう目の前の仕事をこなすだけではだめだな。
久美子みたいに、人の動きや雰囲気に敏い人の話も、ただの噂だと決めつけて流さないようにしよう。
機会があれば、確かめられることは確かめる」
仕事担当が満足したように言った。
「ただ、それで家庭を後回しにするわけにもいかない。良子が身重だったころは、朝食の支度はやっていたんだし、あれは戻そう。毎日大したことができるわけじゃなくても、朝食くらいは用意するようにする」
家庭担当がすぐに応じる。
「それ良い、そうしましょう」
「優美のことも、休みの日は今までよりちゃんと相手をする。何かあるたびに慌てるばかりじゃ困るしな」
「それは是非お願いします」
政雄はひとつ息をついて、親戚担当の方へ話を移した。
「親のことも気になるな。明日と明後日で顔を出した時に、無理をしてないかよく見ておこう。そのうち、何かあった時にどうするかも良子と話しておく。それから、大きな金は今年も動かさない。もし相談事があっても、その場では返事をしない」
親戚担当がうなずいた。
政雄は最後に趣味担当へ目を向けた。
「サークルは、なくさない。ただ、行ける時に行く。前みたいに毎週きっちりとはいかなくても、続けることには意味があるだろうしな」
趣味担当がほっとしたように肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「それと」
政雄はノートの新しい頁に、短く言葉を書きつけた。
「環境が変わってきている。それに合わせて、自分の考え方も少し変えていかないといけないんだろうな。そうはいっても、すぐにどうにかできるものでもないから、これは今年の課題にしておこう」
そこまで口にして、政雄はペンを置いた。
*
二日と三日は、それぞれの実家へ新年の挨拶に行った。どちらの家でも歓迎されたが、やはり優美がいると場が明るくなる。もっとも、まだ小さいので長居はせず、年始の挨拶と少しのおしゃべりを済ませると、早めにアパートへ戻った。
とくに良子の実家では、初孫ということもあって、優美はすっかり人気者だった。抱かれても機嫌がよく、あちこちから声をかけられても泣き出さないので、義母も京子もかわるがわる相手をしていた。
部屋の隅にあったエレクトーンに優美が興味を示したので、良子が膝の上に乗せて鍵盤に触らせてみると、それだけでずいぶんご機嫌になった。鳴るたびに声まであげている。
それを見て、義父が本気とも冗談ともつかない顔で言った。
「この子は音楽の才があるかもしれんな」
すぐに義母があきれたように返す。
「何を言ってるんですか、まだ鍵盤を叩いてるだけでしょう」
「いや、しかし、楽しそうにやってるじゃないか」
京子まで吹き出した。
「お父さん、それで才能があるって話になるの?」
義父もそこで照れたように笑った。政雄もつられて笑いながら、祖父というのはこういうものかもしれないと思った。
*
両家への挨拶を終えてアパートに戻るころには、正月休みも終わりに近づいていた。休みのあいだだけは家の中も穏やかだったが、休みが明ければまた仕事が始まる。
景気の先行きも、職場の空気も、ここからすぐによくなることはない。
むしろ、まだ始まったばかりだ。
それでも日々は続いていく。優美は機嫌よく声を上げ、良子はそんな娘に笑いかける。政雄もまた、仕事と家庭と親のこと、そのどれも去年までのようにはいかないと承知したうえで、自分なりに考えて新しい年へ向かうのだった。
一九九四年は、そういう年として始まった。




