第109話 足りないもの
調査室での仕事にもだいぶ馴染んできたころ、午後の給湯室で、政雄は自分の分のコーヒーを入れていた。
そこに、盆を持った相沢久美子が入ってきた。
「山本さん、久しぶりですね」
「そうだね。同じフロアにいても、なかなか会わないもんだね。相沢さんの入れてくれたお茶が懐かしいよ。まだ一年も経ってないのに」
久美子は笑った。
「そんなこと言っても、何も出ませんよ」
「それは残念」
久美子は湯飲みに茶を注ぎながら、ふと思い出したように言った。
「この前、安東さんが寄っていったんですけどね。田口さんと話してて、ちょっと聞こえちゃったんです」
政雄は黙って先を待った。
「安東さんのいる支店、かなり大変みたいですよ、前に無理した融資が多かったらしくて、担保の値打ちも下がってるし、返済が遅れがちな先も出てるとか」
「そうか……」
「田口さんも、今の部長さんとあまりそりが合わないみたいで。何だか、数年前より職場がぎすぎすしてますよね。私もそろそろいい人を見つけて寿退社したいです」
「本店の管理部門はまだましかもしれないけど、支店は大変そうだね」
久美子はいたずらっぽく笑った。
「そうだ、山本さん。私なんてどうです?」
「いやいや、俺は既婚者だよ」
「あら、山本さんならお妾さんでもいいですよ、私」
「やめてよ。そんな話聞かれたら女房が……いや、娘に嫌われてしまう」
「うーん、娘さんが相手じゃ私の出番はなさそうですね」
久美子は笑いながら盆を持ち上げた。
「じゃ、失礼します」
給湯室を出ていく後ろ姿を見送りながら、政雄はコーヒーをひと口飲んだ。安東も田口も、それぞれ苦労しているらしい。
*
十一月も半ばになると、政雄にもようやく少し余裕が出てきた。毎週水曜日のサークルにも、前よりは顔を出せるようになっていた。その日も定時で仕事を切り上げると、十階から地下二階の講堂へエレベーターで下りた。
扉を開けて入ると、先に来ていたメンバーがもう思い思いに音を鳴らしていた。ドラムが軽く刻む横で、ベースが低く響き、トランペットが試しに高い音を出している。
まだ合わせる前の、ばらばらな時間だった。
「お義兄さん、今日は来れたのね」
キーボードの前にいた京子が、すぐ政雄に気づいて笑った。
「その言い方だと、ずいぶんさぼってたみたいじゃないか」
「みたいじゃなくて、そうだったじゃない」
そんなやり取りをしながらケースを開け、サックスを組み立てる。
ほどなく声がかかって、その日の曲をひと通り合わせた。
行内のクリスマスイベント向けに選んだ曲は耳なじみのあるものばかりで、久しぶりでも何とかついていけた。
休憩に入ると、政雄は講堂の隅で水を飲んだ。そこへ京子が寄ってきた。
「この前、お姉ちゃんから聞いたわよ。優美ちゃんが熱出した日に、義兄さん、ずいぶん大騒ぎだったんですって?」
「大騒ぎってほどじゃないよ」
「保育園で抱いた時、このままどうにかなるんじゃないかと思ったって言ってたって」
「確かに、あれはちょっと驚いたな」
京子は肩を揺らして笑った。
「珍しい、お義兄さんがそんなに慌てるなんて」
そこへ田口も缶コーヒーを持って加わってきた。
「男なんてそんなもんだよな」
「田口さんまで」
「俺だって昔、手伝おうとしたら、あんたはそこで見てるだけでいいって言われたことがあるからな」
田口はそこで少し遠い目になった。
京子が吹き出す。
「それ、ぜんぜん助けになってなかったってことじゃないですか」
「そういうことを、はっきり言うなよ」
政雄もつられて笑ったが、田口の話がまるで他人事とも思えなかった。
京子がほかのメンバーに呼ばれて離れていくと、政雄と田口はその場に残った。休憩に入って気の抜けたところへ、トランペットが高い音をひとつ鳴らし、ドラムが軽く刻みを試している。
政雄は残っていた水を飲み下してから、田口を見た。
「先日相沢さんから、少し聞きましたよ」
田口は眉を上げた。
「久美子ちゃん?」
「この前、安東さんが本店に来た時の話です。支店の方も、だいぶ大変みたいですね」
田口は小さくうなずいた。
「ああ。安東さんのところは、引き継いだ時から楽じゃないよ」
「田口さんの方も、今の部長とうまくいってないとか」
「それも久美子ちゃんか。よく聞いてるな」
田口は苦く笑った。
「別に喧嘩してるわけじゃないんだが、反りが合わないのさ。向こうは向こうで、自分のやり方があるんだろうしな」
政雄はそれ以上は急いで口を挟まなかった。
少し間があいてから、田口がぽつりと言った。
「安東さんが、いま苦労してるのは、部長が後ろで動いたんじゃないかって噂があるんだ」
「どういうことです」
「NOOPができる前、安東さんも俺も部長の下にいたのは知ってるだろう」
「ええ。もっとも、そのころのことは詳しく知りませんが」
「NOOPができて、安東さんが任されて、部長を越えて上とつながるようになった。それが面白くなかったんじゃないかってな。解散の時に、業績の悪い支店へ安東さんを推したって話だ」
「ほんとうですか」
「いや、噂にすぎんよ。あくまでも噂だ」
政雄は少し黙った。
「噂でも、穏やかじゃないですね」
「そうだな」
田口はそこで話を切り替えるように政雄を見た。
「ところで、山本の方はどうだ。うまくやってるのか」
「まあ、なんとか。まだ手探りのところはありますが」
「そうか。調査室の仕事は山本の性分に合いそうだからな」
そう言った田口の口ぶりには、からかいよりも、いくらか気遣うような響きがあった。
*
講堂を出てから家に着くまでのあいだ、政雄は田口の話を何度も思い返していた。
前の人生の記憶は、これまで確かに役に立ってきた。
学生のころも、銀行に入ってからも、どちらへ進めばうまくいくかくらいは、たいてい予想できた。
だが、この最近はそうもいかない。子どもの熱ひとつ取ってもそうだし、職場の人の思惑にしてもそうだった。。
前の人生では、組織の中の出世や権力争いなど、自分には最初から縁遠いものだった。
だから気づきもしなかったことが、今は目の前にある。
前世の記憶が役に立たなくなったわけではない。
しかし、それだけを頼りにして済む時期は、もう過ぎつつあるのかもしれなかった。
これから先は、知っていることに寄りかかるだけでは足りない。
自分の考え方そのものを、少しずつ変えていかなければならないのだろう。




