第108話 優美の発熱
秋も深まるころには、赤ん坊のいる暮らしもようやく日々の段取りに収まってきていた。
その日も良子は優美を保育園へ預け図書館へ、政雄は銀行へ出勤た。
もっとも、その日は館内の作業で良子が遅くなることになっていて、迎えはもともと政雄の予定だった。
昼を少し過ぎたころ、調査室の直通電話が鳴った。電話に出た片岡が、電話を保留にし政雄を振り返る。
「山本さん、奥さんから、1番で」
政雄が1番のボタンを押し電話に出ると、良子は少し急いだ声で言った。
保育園から連絡があり、優美が熱を出したのだという。
予定より早く迎えに来てほしいらしい。
良子はすぐには抜けられない。
政雄が難しければ、実家の母に頼むつもりだとも言った。
政雄は机の上の仕事を確かめ、その日のうちに片づけなければならない急ぎはない。
受話器を置くと、大山の席へ向かった。
「すみません。娘が熱を出したそうで、保育園から迎えに来てほしいと連絡がありました。午後、半休をいただけますか」
大山は政雄の顔を見た。
「そうかい。そりゃ仕事どころじゃねぇな。今日はもう上がっっていいぞ」
「申し訳ありません」
「構やしねぇよ。早く行ってやんな」
「ありがとうございます」
自分の席へ戻ると、政雄は机の上を手早く整えた。
榊と片岡にひとこと伝え、鞄を持って調査室を出た。
エレベーターで下りながら、政雄は保育園までの道筋を頭にたどった。
熱がどれほどあるのかはまだ分からない。
たいしたことがなければいいが、幼い子は昼までは元気でも夕方にはぐったりすることがある。
仕事で感じるものとは違う緊張が、胸の奥にじわりと広がっていた。
本店を出ると、昼下がりの空気は思ったよりひんやりしていた。政雄は足早に駅へ向かった。
*
保育園に着くと、玄関先で職員が政雄に気づいて会釈した。
そのまま奥へ通されると、優美は部屋の隅に敷かれた布団に寝かされていた。
頬が赤く、いつものようにきょろきょろとあたりを気にする元気もない。
「さっき測ったときで三十八度を少し越えていました。お昼のあとから熱が上がってきたようです」
政雄は布団のそばにしゃがみこんだ。
「優美」
声をかけるが、優美はうっすら目を開けた。泣くでもなく、ただ父親の顔を確かめるようにじっとしている。その様子がかえって痛々しかった。
職員から様子を聞き、連絡帳と荷物を受け取ると、政雄は優美を抱き上げた。
体が小さいぶん、熱のこもり方がそのまま腕に伝わってくる。
優美は政雄の胸に額を寄せると、そのままおとなしくしていた。
「ありがとうございました」
政雄は頭を下げると、優美を抱いたまま保育園を出た。
その足で急いで病院へ向かった。
医者に風邪でしょうと言われ、薬を受け取って部屋へ戻るころには、政雄もすっかり汗ばんでいた。
帰るとすぐに優美に薬を飲ませ、布団へ寝かせる。
だが、熱のある子どもを前にすると、さっき医者に言われたことが妙に頼りなく思えてくる。
タオルはこれでいいのか、掛けるのは厚すぎないか、水はどのくらい飲ませるべきか。
ひとつ済むたびに次が気になり、政雄は寝ている優美のそばと台所を何度も行き来した。
ぬらしたタオルを額に当ててやると、優美は少しだけ楽になったのか、ほどなく息づかいも落ち着いていった。
熱が少し下がり、ようやく寝ついたのを確かめてから、政雄はキッチンでコーヒーをいれた。
窓の外はもう西日が傾いている。
平日のこんな時間に優美と二人きりで部屋にいるのは初めてかもしれないとぼんやりと窓の外を眺めていた、それから自分がまだ着替えもしていないことに気づいて苦笑した。
ひと息つくと、こんどは良子が帰るまでに何か作っておこうという気になり、冷蔵庫の中を確かめはじめた。
*
良子が帰ってきたのは、外がもうだいぶ暮れてからだった。部屋に入ると、まず上着を脱ぎ、手を洗ってから寝室へ向かった。政雄もそのあとについていく。
優美は布団の中で静かに寝息を立てていた。
良子は額に手を当て、息づかいを確かめると、小さくうなずいた。
「少し下がったみたいね」
「医者にも風邪だろうって言われた。薬も飲ませた」
「ご苦労様でした、大変だった?」
「いや、まあ……大変だったな」
良子はふっと笑った。
「優美が熱を出したの、初めてじゃないでしょう」
「それはそうなんだけどな。いつもは良子がいたから」
寝室を出て、声をひそめたまま政雄が言った。
「保育園で抱き上げた時なんか、ぐったりしててね。このまま逝っちまうんじゃないかと心配したよ」
良子は少しあきれたように笑った。
「大げさね。でも、あなたが優美を迎えに行ってくれてよかったわ」
「そうか? 俺はむしろ、普段から良子に頼りっぱなしだと改めて思ったよ」
「そうね。たまにはあなたにもそういう思いをしてもらった方がいいかも」
そう言って良子はいたずらっぽく笑い、政雄は頭をかいた。
食卓につくころには、部屋の中もようやく落ち着いていた。
寝室では優美が静かに眠っている。
政雄もひと息ついたものの、ときおりそちらの気配が気になった。
「明日はどうする?」
政雄が言うと、良子は何でもないように答えた。
「休みを取ってきたわ」
政雄は少し驚いた。
「手回しいいな」
「熱を出した子を翌日に保育園へ預けるわけにもいかないでしょう」
政雄は苦笑した。
「そのへんは適わないな」
良子はいたずらっぽく笑った。
「これ以上あなたにお願いしたら、今度はあなたが寝込みそうだもの」
政雄もつられて笑った。
その夜、優美の寝息が落ち着いてからも、政雄はしばらく眠る気になれなかった。
まだ一歳にもならない子を毎日保育園に預けているのだ、優美にとっても負担がないはずはない。
もちろん、それは良子にとっても同じことだ。
自分の給料だけでも、倹約すれば暮らしていけないことはないのかもしれない。
だが、そう考えかけて、政雄はすぐに思い直した。
これから先、景気は長く重たく冷え込んでいく。その中で良子が仕事を続けてくれていることは、やはり心強かった。
安東の処遇を見れば、銀行勤めの自分だってこの先ずっと安泰とは言えない。
そこまで考えて、政雄は小さく息をついた。
今日は優美のぐったりした姿を見たせいで、少し気持ちが振れているのだろう。
あまり極端なことまで考え方が良い。
今の自分にできることを、その都度やっていくしかないのだ。
それにしてもと、良子のことを思う。
おおらかに見えて、肝心なところはしっかりしている。
今日もまた、そのことに助けられたのだと政雄は改めて思った。




