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間章

**一九八三年四月十一日 大学研究棟、ロバート・クロフト教授室**


春先の研究棟は、外から見るより冷える。

石造りの古い校舎は、冬の寒さを手放すのが遅い。窓の外では若い葉が出はじめ、昼の講義へ向かう学生の靴音が中庭の石を軽く打っているというのに、室内の空気はまだ紙と木とインクの温度で止まっていた。

私は朝から、机の上へ積み上げた手記の束を崩しては整え、整えてはまた崩していた。


近年の調査記録だけでも、思った以上に量があった。

霧の谷、鉱山、河口湿地、乾燥高原、北方林業地帯、沿岸の断崖、旧市街の屋根線、湯治場の蒸気地、高山の氷河湖、高原の湧水地、石灰台地の村、南岸の入江。

一つずつは現地で書き付けた短い手帳の束にすぎない。だが、こうして年ごとに机へ並べると、それぞれが勝手に遠征の重さを持ち始める。

調査そのものより、戻ってから紙へ戻す仕事のほうが、歳とともに長くなった気がする。

それが良いことなのか、単に遅くなっただけなのかは、まだ分からない。


今年度から、研究室へ助手がつくことになった。

それも、事務局が書類の上で適当にあてがった人員ではなく、私の講義を取っていた院生が、そのまま補助へ入る。

大学が幻獣生態の講座へそこまで人を割くようになったのは、正直に言えば、私の望んだ順序ではない。

近年の予算がついたのも、現場の報告が評価されたからというより、魔法現象に関する調査項目が、ようやく学内で無視しにくいものになったからだろう。

私はそれをありがたいとも思うし、少し不本意にも思う。

昔からそうだ。

大学は、幻獣そのものには半歩引き、そこに付随する現象へ一歩寄る。

私はその半歩の隙間で、ずいぶん長く仕事をしてきた。


昼過ぎ、扉が軽く叩かれた。

返事をすると、若い女が書類盆を抱えて入ってきた。

エレノア・ヴァイス。

この春から研究室へ正式に配属された院生である。

年齢は二十代半ば。私が最初に単独調査の書式を任された頃と、大して違わないだろう。

講義の席ではよくノートを取る学生だった。質問は少ないが、後から出す報告が丁寧で、現象と伝承を同じ紙へ置いても、安易にどちらかへ流れない。

その点が、記憶に残っていた。


「失礼します、教授。事務のほうから、今期の補助調査申請書の控えです」

「そこへ置いてください」

彼女は盆を机の端へ置き、そのまま無言で部屋を見回した。

手帳の束、地図、鉛筆、古い封筒、乾ききっていないインク、半分まで書いて止まった整理表。

部屋が散らかっていること自体には慣れているつもりだが、他人の目が入ると、散らかり方にも種類があるのが分かる。

今の机の上は、研究の雑然ではなく、どう並べるか迷っている人間の雑然だった。


「近年の記録ですか」

彼女が尋ねた。

「そうです」

「だいぶ量がありますね」

「量だけはあります」

そう言うと、彼女は少しだけ笑った。

この手の笑い方は嫌いではない。

持ち上げるでもなく、気を利かせすぎるでもなく、事実に少しだけ柔らかさを足す。


私は椅子の背へもたれ、机の端の手記を指先で揃えた。

「現地で書いたままの記録は、読む者に不親切です。条件が分かっているのは書いた本人だけですから」

「整理し直すおつもりですか」

「ええ。いずれ誰かが読むなら、少なくとも、どこで何を見て、どこから先が推測なのかくらいは見分けられるようにしておきたい」

「誰か、というのは」

「あなたのような人です」


エレノアはすぐには答えなかった。

その沈黙は、戸惑いというより、言葉の置き場を測っているようなものだった。

彼女は尊敬を隠そうとはしないが、過度にそれを前へ出す人間でもない。

その点は、研究助手としてありがたい。

調査記録というものは、書いた者への敬意だけで読まれては困る。

むしろ、疑われることに耐えなければならない。


「先生の記録は、講義で引用される部分しかまだ読んでいません」

彼女はやがてそう言った。

「そうでしょう。引用に向くのは、整理の済んだところだけです」

「引用されない部分のほうが、たぶん大事ですね」

私はそこで少し顔を上げた。

「なぜそう思います」

「先生は、結論だけを話す時でも、保留したことを消していないからです。なら、講義で言わない部分には、もっと保留や外れや、判断の途中が残っているのだろうと思いました」


悪くない見方だった。

魔法現象寄りの学生なら、ここで「未解明の現象が多く残っているから」と言うだろう。

彼女はそう言わず、判断の途中に興味を向けた。

現場に出る人間の目である。

同時に、読者の目でもある。

私はその時、今年度から助手がつくことになったのを、少しだけ幸運と思った。


「途中のほうが面白い、ということもあります」

私はそう言って、机の上の束を一つ持ち上げた。

「ただ、途中ばかり残していると、後から読む者には、何が見えて何が見えていなかったのか分からなくなる」

「だから整理されているんですね」

「そのつもりです」

「近年のものを、まずですか」

「そう考えていました」


そう言ったところで、私は自然に視線を机の左端へやった。

そこには、最近の整った手帳とは別の、色の変わったノートが数冊まとめて積んである。

紙は古く、角は丸まり、背は何度も開かれた癖でわずかに裂けている。

若い頃のノートだった。

今の手記のように、最初から他人へ見せることを前提とした書き方ではない。

頁の余白には、今なら書かぬような短気な断定や、妙に熱のある言い回しも多い。

それでも捨てなかったのは、そこにしか残っていない調査がいくつもあるからだ。


エレノアが私の視線を追って、その古い束に気づいた。

「それは、もっと前のものですか」

「ええ」

「講師時代の?」

「講師になる少し前から、そのあとしばらくまでです」

「読める状態ですか」

私は少しだけ考えた。

「読めます。ただ、今のものより面倒です」

「字が荒いからですか」

「字も荒い。判断も荒い」

彼女は今度ははっきり笑った。

その笑いに悪意がないことが分かっていたので、私も気を悪くはしなかった。


私は一冊を引き寄せ、最初の頁を開いた。

紙の匂いが、近年の手帳とは違う。

古いインクと、長くしまわれた箱の匂いである。

日付は一九六一年。

まだ正式に教授ではなく、独立した講座を任されて間もない頃のものだった。

あの頃の私は、現場へ出るたびに、自分が何者であるかを証明しなければならない気でいた。

大学に対しても、土地の人間に対しても、そしておそらく自分自身に対しても。

若い研究者というのは、だいたいそういうところがある。

成果が出る前ほど、歩き方に余計な力が入る。


「近年の記録だけ先に整えるつもりでしたが」

私はノートの頁を親指で押さえたまま言った。

「順序としては、こちらも見直したほうがいいかもしれません」

エレノアは机の向こうで静かに待っていた。

急かさないところが、この学生の良い癖だった。

私は続けた。

「最近の報告は、ある程度書き方が固まっています。保留の置き方も、自分で分かっている。ですが、若い頃のものは、どこで見切り、どこで焦り、どこを誤ったかまで含めて、今の私のやり方の基礎になっている」

「なら、そちらから整えたほうが、今の記録も読みやすくなります」

「そうかもしれません」


彼女の言葉で決まった、というわけではない。

おそらく私は、朝からそれを考えていた。

近年の記録だけをきれいに並べても、読まれるのは完成した側の私ばかりになる。

だが実際には、ここへ至る前の、もっと浅く、もっと無駄が多く、いくらか見苦しい手探りの時期があった。

それを抜いてしまえば、手記は整うだろうが、筋が細くなる気がした。


私は古いノートを開いたまま、しばらく黙っていた。

最初の数頁には、調査計画と大学内の書類番号、それから現地の地名が乱暴に混じっている。

若い頃の私は、地図の余白へ感想まで書いていた。

今なら別の紙へ分ける。

そうした違いが、少し可笑しく、少し気恥ずかしかった。


「では」

エレノアが控えめに言った。

「この春からの整理は、近年の記録の清書だけでなく、先生の若い頃の調査ノートも含めて進める、ということになりますか」

「そうなりそうです」

「順番は、時代を遡る形で?」

「ええ。近年のものを一度まとめたあと、そこへ至る前の記録を開くほうが自然でしょう」

「そのほうが、私にも読みやすいと思います」


私はその返答を聞きながら、ようやく机の上の散らばり方が少し変わって見えるのを感じた。

ここ数年の記録は、一区切りついた。

もちろん調査そのものは終わっていない。

だが、少なくとも近年の報告群は、ここでいったん束ねてよい。

そのあとで、もっと古いノートを開く。

今の私を作った時代の、まだ若かった調査者の手記を。


ノートの最初の頁へ、私は新しく紙片を挟んだ。

そこへ短く、こう書いた。


**以下、一九六一年以降の旧手記を整理する。

当時、私はまだ正式教授ではなく、独立した講座を任されて間もない若い研究者であった。

判断に粗さがあり、記述にも熱が多い。

ただし、その粗さの中に、後年の方法の種がある。

そのまま残すべき部分は残し、必要な注のみを加えること。**


エレノアはそれを読み、黙ってうなずいた。

窓の外では、中庭の木の影が少しずつ長くなっていた。

春の午後としては静かな時間だった。

研究棟の廊下を学生たちが行き過ぎる音も、ここまではあまり届かない。

机の上には近年の整った手記と、若い頃の荒いノートが並んでいる。

その間に、今年から配属された一人の助手がいる。

考えてみれば、記録をまとめ直すにはちょうどよい春だったのかもしれない。


次に開くべきは、一九六一年の最初の遠征ノートだった。

表紙の角が潰れ、雨に濡れた跡のある、見苦しい冊子である。

だが、そこにはたしか、私が初めてまとまった形で亜人系先住民の調査を命じられた時の記録が入っている。

当時の大学はそれを幻獣生態の研究としてではなく、辺境地の不穏要素の確認に近い名目で扱っていた。

私はそれを、若い研究者らしい短絡さで、かなり素直に引き受けた覚えがある。


いま思えば、あの遠征は、私の見方を最初にずらした調査の一つだった。

対象は、ゴブリン。

少なくとも、大学も現地の領主も、そう呼んでいた。

だが、ノートを開く前から、私はすでに知っている。

あの記録は、単に「ゴブリンを見に行った話」にはならない。

そこから先のことを、私はまだ若く、今ほど慎重でもなかった。

だからこそ、読み返す価値がある。


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