第四節
**一九八二年七月六日 リュネ入江を発つ前の記録**
入江のような土地は、離れる朝になると急に単純に見える。
北の岩棚も、南の舟着き場跡も、昨夜まであれほど別々の声を持っていたのに、朝の引いた潮の下ではただの石と浅い水路に戻ってしまう。
おそらく、どの海辺でもそうなのだろう。
人間が伝承を持ち帰るのは、海そのものが神秘的だからではなく、時間と潮位の条件が崩れると、たちまち何もなかったように見えてしまうからかもしれない。
見えたものが本当にいたかどうか、こちらの側で確かめておかねば、あとはただ話だけが残る。
発つ前に、私はもう一度だけ北の切れ目と南の舟着き場跡を歩いた。
昨夜までに見たものを、朝の地面へ戻し直しておきたかったのである。
まず北の干潮洞では、洞の奥の棚に新しい魚鱗が少し増えていた。
北側はやはり、短く入り、短く処理し、すぐに水へ戻る場所らしい。
支持痕も一対だけ新しく残っており、前日に測った幅とほとんど変わらなかった。
少なくとも、洞の中で見ていたものが毎回別の大きさの個体である可能性は、今のところ高くない。
ただ、それだけで単独とも言い切れない。
沿岸では、同じ場所を時間差で使うものの痕が、朝には一つの流れへ重なることがあるからだ。
南の舟着き場跡では、石段の三段目の湿りが、やはり人の腰ほどの高さではなく、もっと低い帯へ限って残っていた。
あの位置へ体を預けるなら、後半身は常に水へ残る。
人魚の尾が見えないのではなく、そもそも水から上がりきらない。
そのことを、私は改めて強く感じた。
人間は見えぬ半分をすぐ魚の尾へ補ってしまうが、実際には、ただ濡れた後半身が水面の下へ残っているだけなのだろう。
そう考えるほうが、北と南の両方の観察に無理なく合った。
宿へ戻ると、女主人が干した網を畳みながら、
「結局、歌っていたんですか」
と訊いた。
私は少し考えて、
「人の歌のように聞こえるようにはしていました」
とだけ答えた。
これは、いくらか逃げた言い方かもしれない。
だが、今のところそれ以上の言い方も難しかった。
対象自身の発声はある。
しかし、それだけで人の声に似るわけではない。
洞と石段と水面と灯りが加わって、ようやく「歌うもの」の形になる。
沿岸の伝承というのは、そうした共同作業の産物なのだろう。
私は荷をまとめる前に、今回の記録を一つへ整理した。
リュネ入江で確かめられたことは、次のようにまとめてよいと思う。
リュネ入江で人魚または歌い手として語られてきた対象は、完全な人型水棲種とみなすより、岩棚と石段へ前半身を支持し、後半身を常に水側へ残す沿岸捕食性幻獣として扱うほうが自然である。
北の切れ目では、干潮洞と潮だまりを短時間の処理場・待ち伏せ場として用い、魚群の散開と短い反響音が人の返歌のように聞こえる。
南の舟着き場跡では、石段と杭穴の構造のため、より長く半身を支え、同じく短い発声または水音が“歌”として増幅されやすい。
人魚像の成立には、頭部周辺の感覚糸状・皮膜状構造、前方の支持器官、下方灯火、水平な石段の縁が強く関与している。
したがって当地の伝承の核には実在の沿岸幻獣があると見てよいが、その姿をそのまま美女型半魚人として受け取るのは適切でない。
私はここで、仮の見出しを一つだけ置いた。
**潮棚返声獣(仮)**
あまり良い名ではない。
だが、入江で見たもののうち、私にとって重要だったのは、海そのものより、潮の引きで現れる棚と、そこで返る短い声のほうだった。
名というものは、時に見えた姿より、繰り返し確認できた条件のほうへ置くべきなのだろう。
リュネ入江の記録は、ここでいったん閉じる。
再訪するなら、魚の群れがもっと厚く入る時期か、あるいは逆に海が痩せる晩夏がよい。
その頃なら、北と南の使い分けが、もっと極端に出るかもしれない。
また、もし複数個体が同じ入江を時間差で使っているなら、その兆候も今より拾いやすくなるはずである。
今のところ、私はそこまでの材料を持たない。
だが、持たないことをそのまま書ける程度には、この浜の輪郭が見えたとも思っている。
入江を出る馬車の上から振り返ると、北の岩棚も南の石段も、昼の光の中ではただ白いだけだった。
村の者があそこに歌い手を見、舟人が呼ばれたと思い、外から来た者が人魚の名を当てた理由も、離れてしまえばよく分からなくなる。
それでも、潮が合えばまた同じ姿勢で岩へ上がり、同じように短い返りを重ねるのだろう。
海辺の生きものは、そうして人間の誤りを長く育てる。
その誤りの芯に、確かに一つの生きものがいると分かっただけでも、今回の往来としては十分だった。




