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ロバート教授の幻獣生態調査記録  作者: ロバート・クロフト
第十二章 一九八二年 沿岸部における夜間音響誤認および小型漁船の接岸判断錯誤の調査
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第三節

**一九八二年七月五日 リュネ入江、南の舟着き場跡と夜の再観測**


同じ入江でも、北の岩棚と南の舟着き場跡とでは、音の返り方がかなり違う。

北側は洞と切れ目が声を細く裂き、遅れて人間的な短さを作る。

南側は逆に、崩れた石段と水の浅さのせいで、低い音がまとまって残る。

村の者が「歌う」と言うのも、北で聞いた者と南で聞いた者とでは、実はまったく別のものを思い浮かべているのかもしれない。

私はそう考えて、この日はあえて北へは寄らず、南の舟着き場跡と、その外側の浅瀬を見ることにした。

人魚として語られてきたものが一つの入り江にいるとしても、その同じ個体が場所ごとに違う見え方をしている可能性があるからである。


南の舟着き場跡は、いまでは石段の半分が崩れ、杭穴だけが水際へ不規則に残っている。

潮が引くと、その石段の下に平たい棚が現れ、細い水路が二本ほど沖へ伸びる。

北の岩棚ほど洞はない。

その代わり、石段の下にできた暗い隙間と、杭穴の列が小さな魚や蟹の逃げ場になっていた。

舟をつけるにはもはや役に立たぬが、何かが待ち伏せるには都合のよさそうな地形である。


朝の干潮時に見た限りでは、ここには北の洞ほどはっきりした利用痕はなかった。

魚鱗はある。

貝殻も割れている。

だが、それだけなら海鳥や蟹でも説明はつく。

私が気になったのは、石段の三段目の縁にだけ、濡れた黒ずみが帯のように残っていたことだった。

潮の引き残しにしては位置が高い。

海藻が擦れたならもっと不規則になる。

ちょうど何かが半身を持ち上げて、その体表の湿りだけを石へ残したように見えた。

北の洞で見た高所擦れほど明瞭ではない。

それでも、場所の使い方としてはよく似ていた。


昼前、海藻採りの女たちと浜で少し話した。

北の切れ目で聞く声と、南の舟着き場跡で聞く声は違うか、と訊くと、年嵩の女がすぐに頷いた。

「北は返してくる。南はまねる」

この言い方は面白かった。

詳しく聞くと、北では人が呼ぶと少し遅れて似た高さの声が返るが、南では最初から人の声にかぶせるように短い音が混じるのだという。

つまり、同じ「歌」でも、地形の都合で聞こえ方が違うらしい。

私はこの話を、そのまま信じはしなかった。

だが、昨夜までの観察とも無理なく合っていたので、今夜はそこを確かめることにした。


夕方までの時間で、私は南の石段の周囲へ小さな木片をいくつか置いた。

北の蒸気地でやったほど露骨な目印ではない。

潮が上がっても流されぬよう、石のくぼみに軽く挟む程度である。

人為の目印を嫌う種もいるし、海辺では余計なものを置くと、それ自体が魚の動きを変えてしまう。

それでも、どこまで水が上がり、どの段に湿りが残るかを夜のあいだに確かめておく価値はあった。


今夜は、村の舟へわざと遅く戻ってもらうよう頼んだりはしなかった。

そういう仕掛けは、最初の一、二度ならともかく、繰り返すと観察より演出のほうへ寄りすぎる。

代わりに、誰も声を出さぬ状態で、魚群と返り音の順序だけを見ようと思った。

潮は昨日より少し高く、上げの勢いも強い。

南の舟着き場跡の石段は、日没のころにはもう半ばまで沈んでいた。

私は見張り台残骸の反対側、小さな石壁の陰に座り、石段と浅瀬の両方が見える位置を取った。


夜の海は、北よりも南のほうがいくらか人間に近い。

村の灯が背後にあり、波の音にも生活の気配が混じる。

そのぶん、ここで起きる誤認は、自然の錯覚というより、人間の声や動作の混じり方と切り離せない。

私は耳を慣らしながら、そのことを何度か考えた。

人魚伝承というのは、海そのものより、人の残した浜の構造とよほど相性が良いのではないか。

もしそうなら、この種は自然の洞だけでなく、古い舟着き場の残骸まで利用していることになる。


潮が石段の二段目へ達したころ、小魚の群れが急に二手に割れた。

北の洞で見たような、外へ散る動きではない。

石段の左右へ寄り、中央だけを不自然に空ける。

私はそこを見続けた。

すると、空いた筋の奥で、水面が一度だけ持ち上がった。

飛沫というほどではない。

濡れた背が、ほんのわずかに水面を押し上げる程度である。

次の瞬間、石段の黒ずんだ帯の上に、昨夜とよく似た半身の姿勢が現れた。


今夜の個体は、北で見たものと同じかどうか、断定はできない。

大きさの印象は近い。

だが南では、背後に村の灯があるせいで、輪郭の縁が少し違って見える。

頭部はやはり短く、首も人のようには長くない。

前方の支持器官は、石段の縁へ掛けると“腕”に見えなくもないが、実際にはもっと幅があり、肘というより胸鰭と前肢の中間に近い。

頭のまわりに垂れる細いものも、北より長く見えた。

これは体の個体差かもしれないし、単に南の灯で濡れた感覚糸が強く光っただけかもしれない。

私はそのどちらにも決めなかった。


個体は石段へ上がりきらず、三段目の縁に体の前半分だけを預けた。

北の洞と同じで、後半身は常に水へ残る。

この姿勢が、人には女の上半身のように見えるのだろう。

だが、今夜はその錯視がどう生まれるかを、昨日よりもっと冷静に見られた。

石段の水平線が腰のように見え、前方器官の曲がりが腕に見え、頭部の周辺の感覚糸が髪に見える。

そこへ村の灯が下から当たると、人間の半身という解釈だけが先に立つ。

伝承の絵姿は、おそらくこうしてできたのだ。


声は、そのあとで来た。

最初は発声だと思わなかった。

個体が頭部を少し横へ向けた時、石段の下の杭穴で、短い空気の抜けるような音がしたのである。

そのすぐあとに、同じ高さの音が水面で細く引き延ばされ、さらに背後の石壁が一拍遅れて返した。

つまり、女が歌ったように聞こえるものの中身は、

一つの発声

一つの水面の変形

一つの石壁の遅れ

この三つがかなり近い時間で重なったものらしかった。

私はそれを聞きながら、海藻採りの女の「南はまねる」という言葉を思い出した。

返すというより、人の声にかぶせるように似たものを作る。

その意味がようやく少し分かった。


個体は石段の縁でしばらくじっとしていた。

北の洞では、魚が散るとすぐに姿を引いた。

南ではもう少し長く留まるらしい。

私はその差を、地形と餌場の違いとして見た。

北は洞と切れ目で、短時間の待ち伏せと処理に向く。

南は石段と杭穴で、魚が水位とともに寄るため、少し腰を据えて待つ余地がある。

同じ種が同じ入江で、場面ごとに違う顔を持つのだとすれば、このくらいの違いはむしろ自然だった。


ただ、その晩は最後に少し意外なものを見た。

個体が石段から水へ戻る直前、沖側の浅瀬で、もう一つ細い返り音が重なったのである。

姿は見えない。

水面も乱れない。

それでも、音の高さだけがわずかに違う。

単なる反響のずれかもしれない。

小魚の散りの向きが変わっただけかもしれない。

だが、私は一瞬、別個体を疑った。

その疑いはすぐ捨てなかった。

北の岩棚での記録でもそうだったが、単独で見えることと、常に単独でいることとは別である。

ただし今夜のこれだけで複数性を言い立てるつもりもなかった。

私は手帳へ、「第二音 別個体か反響差か判定不能」とだけ書いた。


観測を終え、引き潮に取り残されぬうちに石壁の陰を離れた。

帰りに石段の三段目を触ると、朝に見た黒ずみより新しい湿りが、やはり同じ高さへ帯になって残っていた。

木片の一つは押し流され、もう一つは動いていない。

潮位と留まり位置は、だいたい予想どおりだった。

派手な観察ではない。

だが、こうした細部の一致が、後では一番役に立つ。


手帳には、こう残した。


**南の舟着き場跡では、北の洞と異なり、石段と杭穴の構造が音を重ね、対象の短い発声を“人の歌”に近づけている可能性が高い。

対象はここでより長く半身を支持し、待ち伏せあるいは魚群の寄りを利用しているらしい。

人魚像の成立には、体型そのものより、石段の水平線と下方灯火と頭部周辺の感覚糸が大きく関与している。

なお、退出直前に第二の短音を聴取したが、別個体・水音・反響差のいずれかは判定できない。**


ここまで来ると、入江の話もようやく北と南の違いを持ちはじめた。

同じ人魚でも、村がどこで聞いたかによって、話の形が違っていた理由が少し分かる。

沿岸の伝承は、対象そのものだけでなく、浜の構造の差まで一緒に受け継いでいるのだろう。


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