第二節
**一九七九年八月二十七日 ラーン氷河湖東岸、尾根肩の観測点にて**
高山の観測で最も腹立たしいのは、天候が悪いことではない。
悪ければ悪いで、今日は何も見えないと諦めがつく。
本当に困るのは、何か起こりそうな条件だけが揃い、結局どれも半端に終わる日である。
風は変わる。
雪粉は流れる。
湖面は時おり妙な色を返す。
そのくせ、対象そのものは一度も姿を与えない。
研究者の気持ちだけが先へ走り、記録はいつまでも決め手を持たぬまま厚くなる。
この日がまさにそうだった。
朝のうち、ミレナの案内で東岸の尾根肩へ上がった。
昨日、ホルストが示した「風の寄る線」を、今度は下からではなく横から見るためである。
湖の東端から尾根の肩へ向かう斜面は、見た目より歩きにくい。
礫の下に古い氷が残り、踏むとわずかに沈む。
ところどころに雪渓の舌が残り、その縁で風が回る。
ミレナはそうした地面をいちいち見ずに歩く。
ドワーフ系の者は山地に強いと一括りに言うのは好きではないが、少なくとも彼女の足は、どの石が信用できるかを最初から知っているようだった。
尾根肩へ着いた時には、空はまだ高く晴れていた。
だが晴れているからといって、視界がよいわけではない。
高山の空気は澄みすぎて、遠近の手がかりを消すことがある。
すぐ向こうの岩棚が遠くのように見え、遠い尾根の雪筋が手を伸ばせば届きそうに見える。
私はまず双眼鏡を出さず、裸眼で雪粉の流れだけを追った。
昨日の帯は、やはり今日もそこにあった。
尾根全体ではなく、ごく限られた肩の上でだけ、細かな雪粉が横へ引かれる。
しかもその下方、湖の東端寄りの水面では、風紋の向きが周囲と少し違う。
何かが確かに、尾根から湖へ向かう細い通路を作っているように見えた。
「見えるでしょう」
ミレナが言った。
「ええ。だが、風そのものの癖とも言えます」
「それはそうです」
彼女はあっさりうなずいた。
「だから皆、竜だのただの風だの、好きなほうを言うんです」
この返しはありがたかった。
地元の協力者が最初から竜だと決めつけていると、こちらの観察まで引っぱられる。
だがミレナは、現象の寄り方だけは認めつつ、その意味づけを急がない。
山の仕事を長くしている人間には、そういう慎重さを持つ者が時々いる。
午前の観測では、大きな成果はなかった。
雪粉の線は何度か現れ、消え、また少しずれた位置に戻る。
だがそのたびに、帯の中心はほぼ同じ高さへ集まる。
私は簡単な図を何枚か描き、時刻と雲量と風の体感をつけた。
一度だけ、尾根の向こうで鈍い金属音のようなものが聞こえたが、落石かもしれず、記録には保留とした。
高山では音の扱いにいつも困る。
谷が一つ違うだけで、距離も材質も見当が外れるからだ。
正午過ぎ、ようやく具体の痕跡が一つ見つかった。
尾根肩の少し下、風が削った裸岩の棚に、大きな擦れ跡があったのである。
爪痕ではない。
もっと幅広く、硬いものが一度だけ重く滑ったような跡だ。
岩肌の白っぽい風化面が剥がれ、その下の暗い石が細長く露出している。
人為ではない。
金具や荷具でつくような位置ではなく、そもそもここまで人が何かを引き上げる理由がない。
山羊の滑落跡とも違う。
蹄の点ではなく、もっと面で触れている。
私はしゃがみ込み、その周辺を細かく見た。
擦れ跡の脇に、黒褐色の短い繊維が一本だけ付いていた。
毛にも見えるが、羽軸の裂けた先にも見える。
指先でつまむと予想より硬く、しかし完全な羽毛ほど軽くない。
私は紙へ包み、位置を記した。
これが対象のものだと証明する術はまだない。
だが、少なくとも高所の骨だけでなく、「何か大きなものがここへ体を触れた」痕は得られたことになる。
午後、雲が増えた。
高山の雲は、平地のそれより早く判断を迫る。
すぐ崩れるのか、ただ流れるだけなのか、その見極めを誤ると帰路が面倒になる。
ホルストなら観測優先で残りたがったかもしれないが、ミレナは引き際が早かった。
「今日はこれ以上上へ残らないほうがいい」と彼女は言い、私も従った。
この判断が正しかったかどうかは分からない。
ただ、三十分もしないうちに尾根の上で霧が厚くなり、雪粉の線どころではなくなったので、少なくとも愚かではなかったと思う。
観測所へ戻る途中、私は少し気が立っていた。
何かが寄っている。
それは分かる。
だが対象の輪郭だけがいつまでも出ない。
こういう時、人はしばしば、現象のほうを本体にしてしまいたくなる。
竜は見えないが、風と放電だけを研究対象と呼べば話は済む。
しかしそれでは、山羊の骨が高すぎる棚へ集まる理由も、尾根肩の擦れ跡も、全部別々に放り出すことになる。
私はそうしたくなかった。
面倒でも、一つの生きものの生活圏として繋がる可能性を、もう少しだけ保っておきたかった。
夕方近く、観測所の裏でホルストと一緒に湖面を見ていると、唐突に放電が起きた。
昨日より近い。
湖の東端、尾根肩の真下に近い位置で、青白い筋が水面から斜めに立ち、すぐ消える。
音はほとんどない。
しかし今回は、その直後に湖面の上へ大きな影が走った。
私は反射的に双眼鏡を上げた。
影は雲ではない。
雲影ならもっと幅が広く、湖全体へ柔らかく落ちる。
これは狭く、速く、しかも水面に対して妙に低い。
水面ぎりぎりを何か大きいものが横切ったかのような影だった。
ところが実体は見えない。
見えるのは影だけで、その主は尾根の向こうか、雲の下か、どこか別の高さにいる。
私はこの瞬間、自分がまた「見えたもの」へ引っぱられかけていると感じた。
影だけを見て竜だと言うのは簡単である。
だが影しかないなら、なおさら慎重であるべきだ。
「今のを見たか」とホルストが言った。
「ええ。だが本体は見ていません」
「本体なんか、俺だって見てない」
この会話は、少し気持ちを落ち着かせた。
観測者が二人いて、どちらも同じ限界を認める。
それだけで、記録は少し健全になる。
その夜、私は観測所の机で、ここまでをかなり率直に整理した。
一、尾根肩から湖東端にかけて、風帯・雪粉移動・湖面放電が繰り返し寄る細い線が存在する。
二、同帯の高所棚では、大型生物由来を疑わせる擦れ跡と、毛または羽枝に似た硬い繊維片が確認された。
三、湖面放電の直後、実体を伴わぬ大型影が湖面上を横切ったが、本体視認には至らず、雲影・地形影との区別は完全でない。
四、したがって現段階では、竜種相当の大型幻獣候補を排除しないが、断定の材料は不足している。
五、今後は高所骨集積地点の確認と、尾根肩直下の岩棚の利用痕を優先して調べる必要がある。
これは、私自身にとってもやや歯がゆいまとめだった。
だが、歯がゆさを隠しても山は喜ばない。
ラーンでは、今のところ「竜がいる」と書くより、「竜と呼ばれてきた条件が寄っている」と書くほうが、まだ正直に思えた。




