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ロバート教授の幻獣生態調査記録  作者: ロバート・クロフト
第八章 一九七八年 蒸気地帯における鏡像遅延および局所視覚誤差の反復報告について、その環境条件を調査
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第三節

**一九七八年六月十四日 旧浴舎裏の蒸気地、夜半過ぎの記録**


前夜の観測を読み返して、私はひとつだけ自分を戒めた。

蒸気の外縁を使う、という仮説は魅力的だが、まだ仮説以上ではない。

見えた黒い影が実際に同じ線を二度辿ったわけではなく、こちらの目がそう整理しただけかもしれない。

蒸気地では、現象を少しでも美しく繋げてしまうことが最も危うい。

熱、湿り、反射、光、疲労。

そのどれもが人間の判断を手伝わず、むしろ整った説明を急ぐ気持ちだけを先へ押し出す。

私はこの調査で、それに抗う必要があった。


そこでこの日は、観測の前にまず失敗を増やすつもりで歩いた。

妙に聞こえるが、意図的に観測位置を変え、見誤りやすい場所とそうでない場所を切り分けたかったのである。

旧浴舎跡の正面、湯溝の脇、蒸気地上縁、そして昨夜見た壁際の低い石の前。

同じ時間帯に同じような灯を置き、それぞれでどの程度、像の遅れや影の二重化が起きるかを見比べた。


結果から言えば、かなり不愉快なほどよく起きた。

正面の石面では像が半歩遅れ、湯溝の脇では灯が細く長く引き延ばされる。

蒸気地上縁では人の肩幅が妙に広く見え、壁際の低い石では逆に影だけが痩せる。

つまり、この土地では「見え方の異常」そのものは珍しくない。

その点を曖昧にしたままでは、何を見ても対象のせいにできてしまう。

私は昼過ぎの時点で少しうんざりしていた。

ここまで観測者の側が外される土地もそう多くない。


ただし、そうやって嫌になるほど見比べたことで、一つだけ分かったことがあった。

像の遅れが最も強く出るのは、蒸気が低く流れる帯そのものではなく、その帯がいったん岩の縁で切れ、次に湯溝の湿気へ繋がる「継ぎ目」のような場所だったのである。

連続した湯気の中では像は崩れるだけで、遅れとしては残りにくい。

むしろ、熱と冷え、乾きと濡れが狭い範囲で入れ替わるところで、像は妙に半歩ぶんだけズレる。

私はこの点を、かなり重要だと感じた。

対象がいるとすれば、単に蒸気を好むのではなく、その継ぎ目を使っている可能性が高かったからだ。


夕方、湯治宿の裏木戸で、硫黄運びの老人と話をした。

彼は宿の客ではなく、蒸気地の外れで析出した鉱物を昔から掃き集めている男で、番頭よりもずっと土地の温度差を身体で知っているらしかった。

私が壁際の擦れと、低い蒸気の継ぎ目の話をすると、しばらく黙ってからこう言った。

「湯気の腹を歩くやつはいる」

「見たことが?」

「姿はない。だが、朝になると、熱い石と冷たい石の境目だけ濡れ方が違う」


これは、証言としてはかなり信頼できる種類のものだった。

姿を断言しない。

ただ、毎朝見る偏りだけを言う。

私はその老人に、どのあたりで差が出るのかを図の上で示してもらった。

すると昨夜私が像の遅れを見た壁際と、ほぼ同じ線が選ばれた。

偶然もありうる。

だが観察が別の口から同じ帯へ集まるのは、軽視しにくい。


この夜は、観測点をもう一段低くした。

旧浴舎裏の石積みが崩れてできた窪みに身を伏せると、湯溝と壁際と蒸気地上縁の三つが同時に見える。

視界は狭いが、そのぶん、継ぎ目の変化だけに集中できる。

私は灯を一つだけ使い、自分の手帳もなるべく開かず、見えたものは短く記号で控えることにした。

文章を書き始めると、どうしても頭の中で現象がまとまりすぎるからである。


夜半を過ぎたころ、最初の変化が来た。

湯溝の表面が、理由なく一度だけ静かになった。

水が止まったのではない。

流れている。

だが表面のさざなみだけが、細い帯状に消える。

その帯が壁際へ寄った瞬間、像の遅れが出た。

私は身を起こしかけたが、こらえた。

その次に来るものを見たかったからだ。


ややあって、黒い影が現れた。

昨夜より近い。

だが、やはり見やすいとは言えなかった。

体の前半分は蒸気の薄れた帯にあり、後ろ半分は濡れた石の遅れた像に混じる。

そのため、輪郭の前後で時間差があるようにすら見える。

本当にそう見えた。

頭部が先にあり、胴があとからついてくるような、不快な見え方である。

私はこの時、ようやく「人が一人多く見える」という宿の言い方の意味が少し分かった。

対象そのものが二重なのではない。

本体の一部と、遅れた像の一部とを、人間の目が別の存在として拾ってしまうのだ。


影は壁際を低く進み、湯溝の継ぎ目で止まった。

そして、昨夜と同じように、小さなものを探る仕草をした。

だが今回は獲物らしき動きがない。

代わりに、対象の前肢か口元か、そのどちらかで、壁の低い石面を一度だけこすったように見えた。

乾いた音はしない。

しかしこすったあと、濡れた石の光り方が少し変わった。

私はそこで、もしこの生きものが存在するなら、採食だけでなく、蒸気や析出物のつき方そのものを確かめているのではないかと考えた。

猫が縄張りの草を嗅ぎ、イタチが石の隙間を探るように、熱と湿りの継ぎ目を読むための接触行動があるのかもしれない。


ここで、思いがけないことが起きた。

湯溝の向こう側、蒸気地上縁の暗がりに、もう一つ遅れが立ったのである。

像だけではない。

今度は、遅れの中心に、はっきり低い影が一拍ぶんだけ重なった。

私は息を止めた。

別個体か。

それとも、こちら側の対象が別の反射面へ移っただけか。

判断するには一瞬しかなかった。

見えた影は、先ほどのものと大きさが近いようにも、少し小さいようにも思えた。

そして、それは本体らしい動きを一度もしないまま、像の遅れとともにほどけた。


この瞬間について、私は今でも確信を持って書けない。

二個体いた、と断じるのは危険である。

しかし、同一個体の移動としても、位置の変わり方が速すぎた。

湯溝を横切ったのなら、少なくとももう一度、湿った石の帯へ影が乗るはずだが、それがなかった。

私はその場でかなり混乱した。

珍しく、ノートの記号すら一度書き損ねた。

研究者が「分からない」と感じる時には、たいてい理由がある。

この夜の私は、まさにその理由の中にいた。


最初の影は、そのあいだに蒸気地上縁へ戻っていた。

戻る、というより、見える条件から外れただけかもしれない。

追うべきか迷った。

だが、ここで立ち上がれば観測そのものが崩れる。

私は結局、その場に留まった。

結果として、その判断は正しかったとも間違っていたとも言える。

それ以降、対象は二度と明確には見えなかったからだ。

残ったのは湯溝の一時的な静まりと、石面の遅れだけである。

もし追っていれば、さらに確かなものが見えたかもしれない。

逆に、全部が台無しになったかもしれない。

こういう後味の悪さもまた、野外記録には必要なのだろう。


観測を終えて戻る前に、私は壁際の石を手で触れた。

熱いところと冷たいところが、思った以上に細かく入り混じっている。

しかも、先ほど対象がこすったように見えた箇所だけ、薄い鉱物膜が少し削れていた。

偶然かもしれない。

私の目がそう見たかっただけかもしれない。

だが今夜は、そうした「かもしれない」を、むやみに削らず残すことにした。


ノートには、最終的にこう記した。


一、像の遅れは蒸気そのものではなく、熱・湿り・反射の継ぎ目で最も強く現れる。

二、対象らしき影は少なくとも一度、その継ぎ目を追うように移動し、採食に似た動きのほか、石面への接触行動を示した。

三、夜半過ぎ、別位置に二度目の遅れと影の重なりが短時間出現したが、別個体か、同一個体の別反射か、判別不能。

四、したがって現段階では本種を単独性とも複数性とも断定せず、「蒸気地の外縁帯を利用する中型幻獣候補」として保留する。

五、本件の核心は姿の視認より、見える条件そのものが対象の行動とどの程度同期するかにある。


これはあまり胸のすく記録ではない。

しかし、少なくとも嘘は少ないはずだ。

グレーヴァルトでは、生きものの輪郭が土地の見え方そのものへ食い込んでいる。

そういう調査報告が一つくらいあっても、悪くないだろうと思い始めている。


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