第四節
**一九七四年九月十三日 古井戸跡南縁、乾風地の夜営地にて**
使われなくなった井戸というものは、乾燥地ではなお水の記憶として残る。
水そのものは失われていても、人はそこへ道を通し、石を積み、家畜を寄せ、風除けを置き、時には塩を運んで休ませる。そうした名残は、水が枯れたあともしばらく土地の癖として残る。古井戸跡の周りだけ土が締まり、遠回りに見える道が実はそこをかすめる。人間も獣も、かつての水場をそう簡単には忘れない。
ハーリドが群れは必ず一度ここを回ると言った時、私は最初、地下の湿りがまだ残っているのだろうと考えた。
あるいは塩が集まりやすいか、風を避ける微地形があるのかもしれない。
だが午前のうちに現地へ着いてみると、そのどちらも決め手には見えなかった。
井戸そのものは完全に埋まり、石囲いの半分は崩れ、底の気配さえない。周囲の地面も特別柔らかくはなく、むしろ乾いて硬い。塩の浮き方も、これまで見た半塩地と大差なかった。
それでも、痕跡は確かにそこへ集まっていた。
古井戸跡を中心にして、大型の蹄跡がゆるく半円を描いている。直進できる地形であるにもかかわらず、群れはわざわざ井戸跡を避けるでも越えるでもなく、その外縁を一定の距離で回り込んでいる。
この距離感が重要だった。
怖れて離れているならもっと大きく避ける。
気づいていないなら踏み抜くように横切る。
だが彼らは、そこに何かあることを知った上で、ちょうどよい幅を保っているように見えた。
「ここで何をしているんでしょう」
レイムが訊いた。
「それを見に来ました」
私はそう答えたが、内心ではすでに幾つかの可能性を並べていた。
古井戸跡の下にまだ浅い空洞があり、足元の響きが変わるのかもしれない。
あるいは、かつて人や家畜が長く集まったせいで、土の匂いや塩の付き方が周囲と違うのかもしれない。
生きものは、今あるものだけでなく、過去に繰り返された土地の使われ方にも反応することがある。
私たちは井戸跡の南側、低い石囲いの崩れを風除けにして待つことにした。
日中は何も現れない。
ただ、午後の光が傾くにつれて、地面の見え方が少しずつ変わった。白土の照りが弱まり、その代わり、遠くの低い起伏の縁だけが妙に明るく浮く。乾燥地では、強い日差しの時より、むしろ日が斜めになった時のほうが影と照り返しが複雑になることがある。
私は井戸跡の外縁に小石を三つ置き、目印にした。群れが来た時、距離感がずれても位置を見失わぬようにするためである。
群れが見えたのは、陽が地平へ触れる直前だった。
最初に浮いたのは、例によって高い位置の一頭である。
見張り役と考えてよいだろう。
ついで、その左右に影がほどけるように増えた。今日は昨日より群れが大きく見える。実数が増えた可能性もあるが、光の条件のせいかもしれない。
私は数を追わず、隊形と進路だけへ意識を絞った。
群れは予想どおり、古井戸跡へ真っ直ぐ来なかった。
北西から現れ、いったん白土の縁で速度を落とし、それから弧を描いて南へ寄る。先頭の二頭は井戸跡を中心に一定の距離を保ち、後続はその線へゆるく従う。若い個体らしい小さめの影は群れの中央に置かれていた。
この配置だけで、かなり社会性の高い群れだと分かる。
大型草食獣の群れで、しかも若い個体を含むなら、ただ水と草を求めて漫然と動いているのではなく、移動のたびに役割のようなものが生じている。
ハーリドがごく低く言った。
「見ます」
その声に促されるように、私は双眼鏡を井戸跡の外縁へ向けた。
一頭目が、弧の頂点にあたる位置で止まった。
昨日見た首の払いと同じ動きではない。
今度は首を高く持ち上げたまま、前脚をゆっくり置き直し、足元の地面を二度ほど軽く打つ。掘るのではなく、確かめるような浅い踏み方だった。
すると、その後ろの個体が少しだけ進路をずらす。
次の個体は、井戸跡へ最も近づいた地点で首を低くし、地面へ鼻先を向ける。
匂いを取っているのか、風下を見ているのかは分からない。
ただ、その一連の動きがあまりにも整っていたため、私はほとんど儀式のようだと思いかけた。
しかしすぐに考え直した。
人間が理由を理解できぬ整った行動を見ると、すぐ儀礼や神秘へ言い換えたがるのは悪い癖である。
彼らにとっては単に、古井戸跡を通過する際の確認手順なのかもしれない。
その時、風が少しだけこちらへ寄った。
乾いた草と塩の匂いの中へ、かすかに獣臭が混じる。
重くはない。むしろ驚くほど薄い。大型草食獣にしては匂いが軽く、乾いた藁と石のあいだのような匂いだった。
私はその時になって初めて、群れの体表がなぜあれほど地表の揺らぎへ溶けるのかを、匂いの面からも理解した気がした。
湿りの強い獣臭が少ないから、風下へいても家畜ほど存在を知らせないのである。
若い個体のうち一頭が、井戸跡へ寄りすぎた。
すると先頭にいた成体が、あの乾いた鈴に似た音を一度だけ出した。
声というより、喉元か胸元の硬い構造が短く触れ合ったような響きである。
若い個体はすぐに進路を戻した。
私はこの音を、単なる副産物ではなく、群れ内の位置修正に用いられている信号として扱ってよいと考え始めた。
大きく響かず、しかし近い個体には届く。乾いた開けた土地では非常に都合がよい。
やがて群れの中心部が井戸跡の正面へかかった。
その瞬間、見え方が変わった。
足元の浮きや影の増え方ではない。
群れ全体が、一呼吸ぶんだけ遠くへ退いたように見えたのである。
私は目を凝らし、置いておいた小石の位置と照らし合わせた。
群れ自体は動いていない。
ずれて見えたのはこちらのほうだ。
古井戸跡の外縁を通る時だけ、地表の熱の揺らぎでは説明しきれない距離感の狂いが起きる。おそらく井戸跡の下に残る空隙か、そこへ集まる夜の冷気が、光と空気の層をわずかに変えているのだろう。
群れはそれを知っており、その帯をちょうど利用して進む。
人間には遠くへずれた群れに見えるが、彼らにとってはいつもの道なのだ。
レイムが息をのんだ。
「今、遠くなりました」
「そう見えます」
「でも歩いてない」
「ええ」
私たちがそう囁き合っているあいだにも、群れは落ち着いて進んでいた。
誰一頭として慌てる様子がない。
つまりこの見え方は、彼ら自身にとって不都合なものではない。見え方が変わる帯を含めて、彼らはこの土地を地図として使っているのだろう。
今回の調査で私が知りたかったのはまさにそこだった。
幻獣が不思議な現象を起こすのではなく、彼らが生きる場所の条件が、人間には不思議と見えるだけなのではないか。
その問いに対し、この群れはかなり明快な形で答えを見せつつあった。
最も大きい個体が視界の中へ長く残った。
成獣の雄か雌かはまだ判断できない。
ただ、首の基部が厚く、肩の高さも群れの中で明らかに勝る。
この個体は若い個体へ近づきすぎず、しかし全体の動きからも離れない。見張り役でありながら、完全な先導でもない。
私はそこに、群れの位置取りが単純な序列では説明できないことを見た。
長い行路を持つ群れでは、役割は固定ではなく、土地の条件で入れ替わるのかもしれない。
水場の前では若い個体を押さえる者が強く、開けた塩地では見張りに適した者が前へ出る。
もしそうなら、この群れの社会行動は、かなり柔軟で高度である。
群れはやがて古井戸跡を回り切り、南東の低草地へ降りた。
そこで一度だけ、熱と影のずれがほどけ、全体の輪郭が短く揃った。
私はその瞬間に、少なくとも十三頭を確認した。
成体八、若い個体五前後。
もちろん誤差はある。
だがこれで、目撃談の「三頭にも二十頭にも見える」が、単なる誇張ではなく、実数と見え方の双方に由来することが分かった。
私たちは日没後に井戸跡の外縁へ入り、新しい痕跡を調べた。
昼間のものに加えて、浅い踏み込みが二箇所、対になって残っている。先頭個体が足元を確かめた跡だろう。
そのすぐ外に、若い個体の細い蹄跡が迷い、成体の大きな足跡が半歩だけ内側へ寄っている。
音を立てて位置を戻したのは、あの時の出来事に違いない。
さらに井戸跡の風下側では、首を払った痕ではなく、口元で浅く地表を掬ったような跡があった。
舐めているのか、匂いを拾っているのか、あるいは地下の冷えを測っているのか。断言はできない。
だが群れがここを単に避けているのでなく、毎回「読んで」いることだけは確かだった。
夜営地へ戻ってから、私は今回の調査の総括をまとめた。
ラドリス北東の乾燥高原に現れる大型草食幻獣群は、実在する広域移動群であり、塩地、半塩地、低草地、古井戸跡など、地下の湿りと塩分の条件が微妙に変わる地点を結ぶ規則的な行路を持つらしい。
いわゆる「遠くへずれる群れ」や「水なき水辺」は、単なる蜃気楼ではなく、群れが意図的に選ぶ地表条件――熱の揺らぎ、照り返し、空気層のずれ、古井戸跡周辺の距離感撹乱――が重なって生じる視覚的効果と考えるべきである。
彼らはこの見え方に振り回されているのではなく、むしろそれを含んだ土地の条件を利用して移動している。
したがって現象の核心は、群れが魔法のように姿を消すことではなく、人間の知覚が彼らの生活の文法へ追いついていない点にある。
さらに重要なのは、群れが若い個体を含み、音と位置取りによって柔軟な統制を行っているらしいことである。
乾いた鈴に似た短い接触音、見張り個体の高所利用、半塩地での首振りによる地表確認、古井戸跡における一定距離の回避行動。
これらはいずれも、単なる大型獣の移動以上の秩序を示していた。
大学がこの調査へ期待しているのは、言うまでもなく視覚撹乱現象の再現性だろう。
隊商を誤らせる見え方を、逆に利用できるかどうか。おそらくそういう問いが出る。
だが私の記録としては、そこを主題にはしたくない。
この群れが作っているのは幻惑ではなく、乾燥地における生存の技法である。
人間が道を引き、水場を数え、地図へ井戸を書き込むように、彼らは塩と熱と古い湿りの記憶を使って道を通している。
その副作用としてこちらの目が外れるだけなのだ。
名称については、なお保留する。
現地の呼び名は現象に寄りすぎており、私の仮称もまだ安直すぎる。
ただ、記録の便宜上、私は今回の手帳の見出しへだけ、ひとまずこう記しておくことにした。
**乾風地の遊行群**
正式な種名ではない。
しかし少なくとも、彼らが何であるかより、どう生きているかを先に示すには悪くない語だと思う。
ラドリスの調査はこれでひとまず終える。
再訪するなら、次は雨季の終わりか、若い個体がさらに成長した時期がよいだろう。
大型草食獣の群れを一度の調査で理解することはできない。
まして、その行路が地表の見え方そのものへ織り込まれているならなおさらである。
それでも今回、私は一つだけ確信を得た。
この高原で人間が「幻」と呼んできたものの少なくとも一部は、確かに群れであり、道であり、生活の反復だった。
不思議なのは彼らではなく、こちらの目のほうなのかもしれない。




