第二節
**一九七四年九月十一日 ラドリス北東礫丘野営地、白塩地縁**
夜の乾燥地は、昼の誇張をいくらか取り去る。
熱に浮かされていた地平は沈み、白土の照り返しも消え、残るのは冷えた空気と、石の位置と、水袋の重さだけになる。こういう土地で野営をすると、人はようやく自分がどれだけ視覚へ頼って歩いていたかを知る。昼には近く見えた礫丘が、夜半には思いのほか遠く、逆に名もない低い窪みが風を集めてひどく重要に感じられる。
私たちは低い礫丘の陰で火を小さく保ち、交代で見張りをした。
夜のあいだに群れが近くを通るなら、蹄音がわずかでも拾えるかと思ったが、風向きのせいか、あるいは本当に遠かったのか、明確な音は得られなかった。ただ夜明け前、まだ空が白み切らぬ時刻に、荷獣が二度、理由なく耳を立てた。乾燥地の家畜は無闇に怯えない。私はその時刻を記し、明るくなるのを待ってから周囲を調べることにした。
朝の地面は、夕方より雄弁である。
白塩地の縁へ出ると、昨夜は見えなかった新しい蹄跡が、薄い影を伴って並んでいた。
少なくとも九頭分。
歩幅は大きいが、急いだ跡はない。広がりながら進み、ときおり二頭か三頭が近づいてからまた離れる。群れの中で位置を調整しているのだろう。
私はしゃがみ込み、蹄の形を一つずつ見た。先端は尖り気味だが、岩地の偶蹄獣ほど鋭くない。左右の割れは深いが広がりすぎず、接地面は予想より柔らかい。硬い蹄だけでなく、縁の内側にいくらか弾性があるように見える。塩の浮いた脆い地面を割りすぎず、沈まずに歩くための形かもしれない。
ハーリドは足跡の列を見て、今日の進路をすぐ決めた。
「北へ行きません」と彼は言った。
「見えていたのは北東でしたが」
「見えていたものの話です。実際に抜けたのは東寄りです」
彼がそう断じた根拠は、蹄跡だけではなかった。
塩草の食痕が、白地そのものではなく、その外側の灰色の土へ薄く連なっている。さらに、群れの糞が一箇所へ固まらず、緩やかな弧を描いて残っていた。
これは単に歩いたのではなく、いったん白地の縁を舐めるように回り、その後、風下を避けて進路を変えた証拠に見えた。大型草食獣の群れは、しばしば先頭個体だけでなく、群れ全体が地味と風を相談しながら動く。その読み方は家畜よりはるかに慎重で、したがって人の目には一貫しないように見えることがある。
今回の調査では、見えたものを追うのではなく、群れが実際に使っている道筋を、足跡と食痕と地表の条件から先に復元するほかない。
それが定まってはじめて、なぜ彼らが遠くへずれて見えるのかを論じられる。
見え方を先に説明しようとすると、獣を忘れて現象だけが肥大する。この種の記録でいちばん避けたいのはそれだった。
午前のうち、私たちは白塩地を離れ、東寄りの浅い窪地へ回った。
そこには乾ききらぬ草地が帯のように残り、塩の薄い地面に灰緑の草が低く出ている。水場と呼べるほどのものはない。だが地下の浅い湿りがあるらしく、踏むと土の締まりが微妙に違う。
そして、その草帯の縁に、私は初めて明確な体の痕跡を見た。
草が、ただ食われているのではない。
群れの一部が膝を折って伏せたらしい広い圧痕が、いくつも残っていたのである。
大型草食獣が休む時の跡に似ているが、家畜のように一箇所へまとまらず、互いの距離が一定以上離れている。しかも風上側にだけ、見張り役のように立ち続けた個体の深い蹄跡が残る。
群れはここで採食だけでなく、短時間の休止を取っていたらしい。
私はこの時点で、対象を単なる「蜃気楼の群れ」ではなく、相当程度にまとまった社会行動を持つ大型草食幻獣群として扱うべきだと考え始めていた。
レイムが圧痕のひとつに手を当てて言った。
「まだ新しいです」
その通りだった。朝の冷えが残る時間にしては、地面の戻りが少ない。昨夜遅くか、明け方近くまでここにいたのだろう。
さらに東へ半刻ほど進んだところで、風景が少し変わった。
低い礫丘の列が切れ、その向こうに白土ではなく、赤みを帯びた硬い地面が広がる。そこだけ、空気の揺らぎ方が鈍い。
ハーリドはそこへ入る前に足を止めた。
「ここから先で見え方が変わります」
「熱のせいですか」
「熱だけではありません。この地面は音も返します」
音、という語は意外だった。
乾燥地で問題になるのはまず光だと思っていたからである。
だが彼の言うとおり、その赤土へ入ると、自分たちの歩行の響きがほんのわずかに遅れて返る。反響というほどではない。靴底が地面へ当たるたびに、空気ではなく地表の浅いところを何かが撫でているような感触が足へ返ってくる。
私はそこで、以前に別の土地で経験した地形と生きものの干渉を思い出した。土地そのものが情報を運び、それを対象が利用している時、人間はたいてい光や音の片方だけへ理由を求めて見誤る。
正午を過ぎたころ、レイムがふいに立ち止まり、手をかざした。
前方の熱の揺らぎの中に、再び黒い点が浮いていたのである。
今度は昨日より少ない。五頭か六頭ほど。
だが双眼鏡を上げるまでもなく分かることがあった。
点の並び方が、今朝の圧痕と蹄跡の配置に似ている。
一頭が少し離れ、残りが緩く弧をなしている。
つまり、見えるものは不規則ではない。地表の条件で位置がずれ、足元が浮いて見えるだけで、群れの隊形そのものはかなり安定している。
「追いません」とハーリドが言う。
私はすぐうなずいた。
むしろ、彼らがどの地面へ乗った時に最もずれて見えるかを観察したほうが有用である。
私たちは礫丘の陰へ身を寄せ、そこでしばらく遠望を続けた。
群れは見えたり薄れたりを繰り返しながら、ゆっくり右へ移った。
奇妙だったのは、その移動が実際より滑らかに見えることである。普通の大型草食獣の群れなら、個体ごとの歩調や首の上げ下げで、輪郭がもう少し途切れる。だがこの群れは、熱と地表の照りをまとって一続きの影に近くなる瞬間がある。
そのせいで頭数が増えて見えるのだろう。
一頭と一頭のあいだの空白へ、揺らいだ影が差し込まれ、見慣れた人間の目が勝手に個体数を補ってしまう。
ただし、現象をそれだけで片づけるのは早計だった。
群れのうち離れていた一頭が、不意に首を高く上げ、ほかの個体より明らかに長い時間、こちらの方向へ静止したからである。
距離はまだ十分ある。風もこちらから向こうではない。にもかかわらず、その個体はこちらの存在を計っているように見えた。
見張り役。
あるいは進路を決める先導個体。
どちらにせよ、群れは単に地形のいたずらで増えて見えているのではなく、隊形そのものが観察者に対して都合の悪い見え方を作りやすい配置を取っている可能性がある。
午後遅く、ようやく比較的はっきりした姿を一度だけ得た。
群れが赤土帯を抜け、白塩地よりやや低い灰色の窪みへ入った時である。熱の揺らぎが少し和らぎ、足元の浮きも弱まった。
その瞬間、成体と思しき個体の全身が、二、三呼吸ほどだけ輪郭を保った。
背は高い。馬より高いが、駱駝ほど重くない。
首は長いが、一直線ではなく、基部が力強く、先でややしなる。頭部は鹿のように細すぎず、草を広く刈るのに向いた平たい口元をしている。角は見えない。ただし頭頂から耳の後ろへかけて、短い房毛か骨質の突起のような影がある。体は乾燥地の偶蹄類に似て引き締まっているが、肩から背にかけての線はもっとなだらかで、尾は驚くほど短い。脚は長く、膝下が細いわりに着地は静かだった。
何より印象的だったのは、毛色である。
単色ではない。
灰、薄茶、白、そして地面の照りを拾う鈍い銀色が、歩くたびに斑のようにずれる。
保護色と呼ぶには出来すぎていた。
むしろ、熱の揺らぎと乾いた反射を受けた時に、輪郭の境界だけを曖昧にするような毛並みだった。
私はそこに、現象の一部が彼ら自身の体表にもあると考えた。
蜃気楼がすべてではない。
彼らはこの土地の光を読むだけでなく、自分たちの体の見え方もまた、その光の中へ馴染むようにできているのかもしれない。
「水なき水辺」と人々が呼ぶ理由も、少し分かった気がした。
遠目には、群れのいるあたりだけが水面のように揺らぎ、近づけば何もない。
だが本当には何もないのではない。
そこには群れがいて、塩と草と浅い湿りを渡っている。
人間が勝手に水を見ているだけだ。
日没近く、群れは低い窪地の向こうへ完全に消えた。
私たちはそこまで近づかなかった。近づけない距離ではなかったが、そうしてしまうと、翌日の行路を外す危険が高い。今回の調査で必要なのは、一度の接近より、彼らがどのような地形と時刻を選ぶかを積み重ねることだった。
野営地へ戻りながら、レイムが珍しく自分から訊いた。
「先生、あれはこっちを見えていたんでしょうか」
「見えていた可能性は高いです」
「この距離で?」
「見えていたというより、こちらの形を測っていたのかもしれません」
ハーリドはその会話を聞いて、少し遅れて言った。
「だから追うと外すんです。あちらのほうが、地面の事情をよく知っている」
この言葉は記録に値した。
大型草食獣というと、人はつい鈍重で受動的なものを想像しがちである。だが長い行路を持つ群れは、往々にして地形の読みにおいて人間より鋭い。特にこのような乾燥地では、見える水、見えない湿り、踏める塩地、踏めない白土、その違いが生死へ直結する。
彼らが人の目を欺いているのだとしても、それは魔術のためではなく、移動し続ける生活の副産物なのだろう。
今夜はさらに東へ野営地を移し、明日の夕刻、群れが塩地から低草地へ戻る局面を待つ。
今のところ、対象は攻撃性を示していない。
しかし大型である以上、こちらの入り方を誤れば危険はある。とくに群れの若い個体が混じっている場合、見張り役がどの段階で退避から牽制へ移るかは分からない。
慎重さを欠く理由はない。
この土地では、焦りはたいてい、水より先に判断を干上がらせる。




