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ロバート教授の幻獣生態調査記録  作者: ロバート・クロフト
第三章 一九七三年 河口湿地帯における夜間灯火の異常変調および水面反射異常の予備調査
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第三節

**一九七三年六月七日 ベルンハーフ外縁泥洲、北導流堤の陰**


六日の夜は、結局ほとんど何も見えなかった。

風向きが悪かったのである。南から入った湿った風が河口の表面だけを押し、底の流れとの折れ方が鈍くなっていた。マラは水路へ入ってすぐそれを見抜き、今夜は若いのは出ない、と言った。彼女の言葉どおり、灯火の青化も返す声も、ごく弱いものが一度あったきりで終わった。私はその空振りをそのまま観測帳へ記した。何も起きない条件が分かれば、それだけ対象の輪郭も締まる。


そこで翌日、私は調査地点を少し変えることにした。

旧塩田水路は若い個体を見るには向いているが、成体の広い行動圏を読むには狭い。セラの話と潮位表を合わせると、満ち引きの強い日にはさらに下流、導流堤の外れと泥洲の切れ目で流れが鋭く折れ、その時だけ外海側の魚群が河口へ入り込むらしかった。

対象が火ではなく流れの事情へ来ているのなら、そこは見逃せない。


日中の下見では、町の小舟では危ない場所がいくつかあった。

泥洲の縁は見た目以上に脆く、踏むと膝まで沈む。導流堤の石は藻でぬめり、乾いて見えるところでも靴が逃げる。こういう場所で何度も転びそうになってきたが、年を重ねると無茶の種類が少し変わる。若いころは先に足を出してから後悔した。今は出す前に後悔し、それでも結局は出す。性分はあまり改善しない。


夕刻、観測にはギデオンとマラのほか、セラも加わった。

水門番が夜の観測へ同道するのは初めてだったが、彼女は特別な説明もせず、

「今日は外の流れを見るべきです」

と言っただけだった。

現地の者が、見せたいものではなく見るべきものへ案内してくれる時、調査はたいてい良い方向へ進む。


私たちは日没後まもなく舟を出し、主航路を避けて東へ回り込んだ。

町の灯は背後で低くにじみ、前方にはほとんど何もない。河口の夜は、山の闇よりも境界が曖昧である。上と下、岸と水、近いものと遠いものが、どれも少しずつ確かでない。櫂の先が押し返す重さだけが、今どこにいるかを教えてくれる。

セラは舟首に座り、ほとんど動かなかった。マラは父より浅瀬の読みが速く、ギデオンはその読みが危ない時だけ短く修正を入れる。私はその後ろで、灯火の状態と水音の変化を記録した。


外縁泥洲へ着いたのは、潮が返る直前だった。

導流堤の陰で舟を止めると、流れは二つに割れているのが分かった。表層は海へ向かい、下からは逆に河口へ押し返してくる。そのせいで、水面は大きく荒れていないのに、舟底へ伝わる感触だけが妙に落ち着かない。こういう時の水は、見た目より多くのことを内部でしている。

セラが灯を半分覆うように言った。

「ここでは見ようとするより、何が映らないかを見ることです」


私はその言葉どおり、光そのものではなく、光が拒まれる場所に注意を向けた。

しばらくして、右前方の水面に奇妙な帯が現れた。波ではない。流木でもない。こちらのランタンの光が、そこだけ妙に短く切れている。水はあり、表面も動いている。にもかかわらず、反射だけが細く裂かれ、帯の向こうで途切れる。

同時に、舟の下手側で、あの平たい切水音が一度、二度、三度と続いた。


マラが櫂を完全に引き上げた。

ギデオンも何も言わない。セラは聞いているように見えた。

私はこの時、ようやく理解した。返す声と呼ばれていたものは、人間の呼びかけへの応答ではないのかもしれない。むしろ、人間の灯や舟が水へ立てる情報に対し、相手が位置や流れを確かめるために返している信号である可能性が高い。こちらが声と誤解しているだけで、彼らにとってはごく普通の測り方なのではないか。


次に見えたのは、水の中の背だった。

水面を破るほどではない。だが薄い闇の下で、長いものが二つ、ほぼ並行に移った。魚ならもっと柔らかくうねる。人の泳ぎなら不自然に大きい。これは、水の抵抗を承知したうえで、必要なだけしか表へ出さない動きだった。

帯の切れた水面の手前で一つが止まり、もう一つが少し遅れて寄る。

成体が二頭いた。


そのうち一頭が、導流堤の崩れた石へ前肢をかけた。

初めて四肢がはっきり見えた。短いが指は長めで、水掻きとまではいかないものの、水辺の泥を掴むのに適した開き方をしている。胴は細長く、尾は魚のように大きくはないが、水を切るには十分な厚みがある。頭部は水獺より平たく、鼻先は短い。耳は小さく、体表は濡れると毛並みより皮膜に見えるほど密で暗い。

水から上がった部分だけなら大犬ほどだが、全長はもっとある。

私はそこに、現実のどの動物にも完全には重ならない均衡を見た。半ば哺乳類で、半ばもっと古い水辺のもののような、奇妙に古風な体つきだった。


灯火がまた青くなった。

だが今度は、一頭の首筋のあたりに、ほんのかすかな薄銀色の線が見えた。発光ではない。水滴の反射に近い。けれどそれが動きに合わせて規則的に消えたり現れたりする。

喉の下から胸へ、あるいは顎の縁にかけて、ごく細かな感覚器官めいたものが並んでいるのではないか。

水の振動や灯の変化を拾う器官。

もしそうなら、この現象は魔法というより、彼らの知覚がたまたま人間の火へ干渉して見えているだけなのかもしれない。


私はそれを記録しようとして、ふと手を止めた。

若い個体の声がしたからである。旧塩田水路で聞いた、湿った木を擦るような短い音ではない。もっと高く、細く、明らかに未熟な響き。しかも近い。

振り向くと、舟の左後方、葦の陰の浅瀬に小さな影が二つあった。

若い個体が二頭。

一頭はほとんど水へ沈み、もう一頭だけが首を出してこちらの舟を見ている。

今夜ここにいたのは、少なくとも成体二頭と若い個体二頭からなる家族単位だった。


ギデオンが初めて、ごく低く舌打ちした。

次の瞬間、その理由が分かった。主航路のほうから、別の舟の灯が近づいてきたのである。遅い時間にこの外れへ入る小舟は多くない。漁の舟にしては灯の位置が高く、櫂の間も悪い。

マラが囁いた。

「町の商人です」


前夜に話していた、火を売れると言った連中だろう。

未知の現象が利益へ結びつく気配を見せると、人はたちまち生きものそのものを見なくなる。


接近してくる舟の灯が水面を長く引いた、その瞬間だった。

成体の一頭が、石の上で体勢を低くした。攻撃ではない。若い個体二頭と、もう一頭の成体とのあいだへ、自分の身を入れる位置だった。

同時に、返す声が始まった。


これまでより明瞭で、短い間隔で、二声、三声、四声。

水門の隙間を抜ける風に似ているが、もっと低く、位置が揺れる。すると商人の舟の灯が、はっきり乱れた。青く痩せ、次いで水面への映り方がずれる。舟そのものは真っ直ぐ進んでいるはずなのに、灯だけが少し外れた場所にあるように見える。

水辺で灯の位置感覚が狂えば、人間は自分の舟の向きまで誤る。


「止めないとまずい」

私が言うより早く、セラが立ち上がっていた。

彼女は舟のへさきを回し、流れに対して最短の角度を取ると、商人の舟へ向かって一度だけ鋭く笛を吹いた。道具は使わない。指と唇だけで、鳥とも人ともつかぬ短い高音を出したのである。

すると向こうの舟で誰かが怒鳴り、櫂が乱暴に動いた。網の影が見えた。

彼らは現象を見に来たのではなく、捕まえに来たのかもしれなかった。


その直後、水辺の家族の動きが変わった。

若い個体は一斉に水へ入り、低く、音もなく、葦の奥へ退く。成体のうち一頭はそれを追い、もう一頭だけが導流堤の陰へ残った。

その残った一頭の意図を断定はしない。だが、若いものを遠ざけるために時間を稼いでいると読めた。


商人の舟が網を投げるには、あと数呼吸ほどだった。

その時、残った成体が、水をほとんど跳ね上げずに身を返し、舟の進路を横切った。すると灯の乱れが一気に強くなった。青い火が細り、二つに見え、水面の映り方が裂ける。

案の定、商人の舟は櫂の片方を早く入れすぎ、導流堤の外れへ横腹をぶつけた。転覆まではしない。だが網は水へ落ち、怒声が上がり、舟はしばらくその場で立ち往生した。


こちらの舟で、ギデオンがようやく息をついた。

「今ので十分です」


幻獣が人間を襲ったわけではない。

だが人間の灯と進路の癖を利用し、自分たちの逃げる時間を確保した。反射でも偶然でもなく、少なくともこの場においては、そう読めるだけの行動だった。


騒ぎのあいだに、導流堤の陰の個体も消えていた。

残ったのは、裂けたように乱れた水面と、青みの抜けきらない灯だけである。セラは商人たちのほうを見たまま、

「だから、この土地では順番を飛ばすと水に嫌われるのです」

と言った。

それが土地の言い方であることは分かっている。だが今夜については、その表現を軽く笑う気にはなれなかった。


宿へ戻ってから、私は記録を整理した。

この種の事例は、現象だけを取り出して書くとすぐ怪談へ落ちる。そうならぬよう、まず生態、次いで現象、最後に人間との干渉の順でまとめた。


一、対象は水陸両用の水辺性幻獣であり、少なくとも成体二頭と若い個体二頭からなる家族単位で行動している。

二、活動地点は、流れが折れ、表層と底流の方向がずれ、魚群の動きが偏る境界水域に集中する。

三、灯火の青化、水面反射の欠落、返す声と呼ばれる音響は、対象の知覚・移動・相互連絡に伴う現象である可能性が高い。

四、対象は人間を積極的に襲わないが、人間の灯と進路の癖を利用して距離を取り、若い個体を退避させるだけの認知能力を示したと見てよい。

五、したがって本種は、単なる珍しい水獣ではなく、半知性的な幻獣群として扱うのが妥当である。


名称については、まだ決めない。

ベルンハーフの者たちはそれぞれ違う名で呼び、しかもどれも半分しか当たっていないように思える。

呼ぶ水。

返す声。

青い灯のもの。

どれも現象の一部は捉えているが、生きものそのものには届いていない。もっとも、それは研究者の仮称も同じことかもしれない。名前は便利だが、ときに対象を小さくしすぎる。


明日は、観測ではなく聞き取りにあてるつもりでいる。

商人たちが今夜のことで何を言い出すかも気になるし、港の古い漁師たちが、この家族単位の出現をどの程度前から知っていたかも確かめたい。野外では、姿を見た翌日にこそ、土地の人間の言葉が少しだけ具体になることがある。見えなかった時には曖昧だった話が、見えたあとでは急に骨を持つ。

それもまた、調査の一部である。


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