2. 洗濯場の帳面
燭台の火が、ボニファチオの笑い声に合わせて揺れる。奥の戸口には牢番が立つ。格子の上の包みを指し、ボニファチオは肩を揺すった。王冠を見ても、ちっとも笑いを引っ込めない。
「ひゃっひゃっ。気でも狂ったか、小娘? 王冠をかぶったその足で、宰相を牢から探してくるとはのう!」
「狂っていたら、お兄様たちと一緒に逃げています」
笑い声が、ぷつりと切れた。黒い目に炎が映る。格子の隙間から包みを引き寄せたボニファチオは、菓子を一つ摘まんだまま、私の顔から目を離さない。
「条件がある。わしを死刑にするな」
「三十年延びた刑です。延びたまま、取り消します。これからは格子の外で、国の帳簿を一緒に読んでください」
「もう一つ。砂糖菓子を、毎日三つじゃ。牢を出て働くんじゃぞ。腹を満たすくらいの楽しみは要るわい。そんな顔をしても、譲れんぞ」
まだ牢の中なのに、もう国庫へ請求が来る。格子の向こうの包みを見て、私は唇を引き結んだ。
「二つです。厨房にも皆さんの分を残さなくては。宰相だけ食べ放題というわけにはいきませんでしょう? 私の顔を見ても、お菓子は増えませんよ」
「二つ半。半分なら残せるじゃろ? 大きいほうが、わしの半分じゃ。わしが噛むところまで、小娘に勘定させるつもりはないわい」
くぅぅぅ……。女王の最初の値切りは、半個の負けだ。私が刑の取り消しを命じると、牢番が房の鍵を開けた。包みを抱えたボニファチオが、敷居の外へ足を出す。三十年ぶりの一歩は、拍子抜けするほど軽い音だ。けれど、続く足はなかなか出ない。
「……廊下は、こんなに狭かったかのう?」
「宰相が、お育ちになったのでは? お菓子で。廊下のせいになさらないでくださいませ」
「小娘、口ばかり達者になりおって。骨ばかりのわしを、まだ育てるつもりか? ひゃっひゃ」
◇
翌朝の大広間で、ボニファチオは空いた椅子の一脚に座っている。砂糖菓子をなめ、床に届かない足をぶらぶら。昨日までの死刑囚、今朝からの宰相だ。借りた上着の袖は指先まで余る。菓子をつまもうとして、袖口を振っていた。
宮内卿を三十年務め、城の財布を握るルドヴィーコが入ってくる。撫でつけた薄い金髪に指をやり、細い薄茶の目で空いた椅子を数えた。
「国庫は空でございます。使用人と衛兵の給金も溜まっておりますな。陛下のお考えだけでは、銀貨は増えませんので」
「存じております。ですから、給金を受け取る方々の名簿も、こちらへお持ちください。支払いを先へ延ばすために王冠を受け取ったのではありません」
「帝国への降伏状は、もう用意してございます。城の買い入れは私めにお任せを。陛下は署名をなさるだけでよいかと存じますが。お手を煩わせるまでもございませんな」
封じた紙が、卓を滑る。砂糖菓子が歯に当たって、かつりと鳴った。宰相の椅子へ目を向けたまま、ルドヴィーコが言い添える。
「洗濯と芋の皮むきで、国は回りませんな、陛下」
菓子を口の端へ寄せ、余った袖を払ってボニファチオが身を乗り出す。
「宮内卿、賭けるか? 陛下が今日のうちに銀貨を見つけるほうに、わしは賭けよう。おぬしの財布より、頭はよく動くぞ」
「死刑囚と賭けなど、いたしませんな。陛下も、遊びのお相手をお役目に据えるのはお控えいただきたいものです」
「もう死刑囚ではないわい。宰相じゃ。陛下のお言葉を聞き落とすとは、耳のほうも買い替え時じゃのう。買い入れは得意なんじゃろ?」
私は書棚から宮内府の買い入れ帳を抜いた。ずしり。芋袋なら半分ほど。給金を払わない帳簿が、この厚みか。腕に食い込む角を抱え直し、私は卓の降伏状を脇へ寄せる。
「お金のお話でしたら、洗濯場へ参りましょう。この買い入れ帳も持っていきます。品物を受け取った方に、まず確かめます。署名より先に、数を合わせませんと」
昼前の半地下は、湯気と灰汁の匂いでいっぱいだ。同行したボニファチオの菓子までしっとりしている。ルドヴィーコもついて来て、湿った床に目を落とした。洗濯女たちが手を止める中、ジョコンダは丸太のような腕で敷布を絞る。頭のてっぺんで団子にした白髪まじりの赤毛にも、湯気が絡んでいた。桶を打つ水音。石鹸の泡のはじける音。私が育った音だ。王冠の下で、肩の力が少し抜ける。
私は買い入れ帳を開き、濡れないように持ち上げた。
〈敷布 三百枚 銀貨三百枚 宮内卿ルドヴィーコ〉
ジョコンダが棚から自分の洗濯帳を持ってくる。湯気を吸って波打つ表紙は、角が丸く擦り切れていた。焦げ茶の目が数を追い、濡れた指がぴたりと止まる。
〈敷布 百枚〉
「この三十年、敷布が三百枚あった日は、一日もありませんよ」
毎月二百枚が三十年。濡れた敷布にしたら、この洗濯場が三回埋まる。洗濯帳の隅を押さえながら、ジョコンダが買い入れ先を指す。
「仕入れ先は、宮内卿様の奥方の兄上の店ですよ。あたしは届くたびに数えました。増えた敷布なんて、見たこともありませんからね。手が覚えてるんです。帳面だけ増やしたって、この腕はごまかせませんよ」
洗濯帳を支える指は、赤く荒れていた。首を刎ねても、敷布は戻らない。戻すのは銀貨だ。帳面を支えるこの手に、国の勘定も任せよう。ジョコンダに向き直り、私はぱんと手を叩く。
「はい、決めました。ジョコンダ、今日から財務卿をお願いします。この帳面と同じように、国の銀貨を数えてくださいませ」
指輪の指を強く組み、ルドヴィーコが洗濯帳を見た。湯気の中で、声だけが大きくなる。
「洗濯女の落書きで、宮内卿を裁くおつもりですかな? 買い入れの帳簿には、私めの名がございますぞ! 陛下、それをお忘れなく!」
洗濯帳から手を離したジョコンダが、濡れた拳を腰に当てる。
「落書きなら、三十年も続きませんよ! 届かなかった布まで洗ったことにしろってんですか? その手じゃ絞れませんからね!」
私は洗濯帳の隅に指を重ね、にっこりと顔を上げる。
「宮内卿。お返しいただければ、罪には問いません」
水音まで止んだ。私から帳面へ目を移し、ルドヴィーコは指輪の指を組み替える。
「……い、いかほどでございますかな?」
濡れた手を前掛けで拭い、ジョコンダが顎を上げる。
「銀貨七万二千枚。数えましたからね」
「な、七万……?! ほわぁぁぁ」
ルドヴィーコの青白い面長がさらに白くなった。家の者に金庫を運ばせ、指輪だらけの細い指で鍵を外す。その日の返金は一万二千枚、残りは証文にする。
洗濯女たちの歓声が、干した布の間を通り抜けた。濡れた敷布が揺れ、湯気が白くほどける。金庫の蓋を覗き込んで、ボニファチオが頷く。
「首を刎ねても、銀貨は出てこんからのう。陛下、その手で勘定するがよい。わしの菓子代も、お忘れなく」
夕方、大広間で使用人と衛兵に溜まった給金を払った。銀貨一万枚が名簿の順に手へ渡る。空いた十二脚のうち、宰相と財務卿が座るのは二脚だ。
洗濯帳は国の帳簿の隣に置かれていた。いつもは洗濯場の隅にある、湿った表紙。その丸い角を撫でながら、ジョコンダが四角い顔をくしゃくしゃにして笑う。
「数えた甲斐が、ありましたよ。姫さま……陛下が、あたしの字を読んでくださった。こんな帳面が、国の帳簿の隣に。下手な字でも、読めたんですねえ」
「財務卿、ありがとう。あなたの帳面ですもの。毎日見ていた手の字です。……読めますよ、ちゃんと。ああ、待ってくださいませ。今は、少し読みにくいです」
「あら、陛下まで、目が赤くなってますよ!」
「泣いていません。湯気です」
私は瞬きをこらえた。ジョコンダが帳面を押さえ、私の顔を覗き込む。
「ここは大広間ですよ。……あたしの前でまで、そんなに澄ましてなくていいんですよ」
「でしたら、財務卿も、下手な字だなんておっしゃらないでくださいませ。私には、その字が要るのです」
二人で笑うと、目の奥がもう一度熱くなった。湿って波打つ表紙が、国の帳簿に触れている。私はその端をそっと揃える。灯が短くなるまで、帳面を閉じる手が動かない。
その夜更け、帝国の軍が橋を渡ったと、国境の早馬が門を叩いた。




