1. 空欄の一行
「沈む国の王冠なんて要らない。お前にやる」
王太子の長兄マッシミリアーノが署名してペンを放り、金の巻き毛が揺れた。父王の葬儀の翌朝、大広間には椅子十三脚の長卓。窓に掛かった喪の黒布が、朝の光まで細くしている。卓の端に控える宮内卿が用意した放棄書は、上座から回ってくる。
〈我ら、王位の継承権を放棄する〉
王冠を私の前へ滑らせて、長兄は父譲りの大きな顎を突き出す。
「沈む船の舵を握るのは、馬鹿のすることだ。私は公国の妻の実家へ行く。お前も、城と一緒に沈みたいなら残ればいい。泣いて引き止めるなよ」
次姉は修道院へ、三番目のお兄様は留学へ。四番目から下も妻のご実家や南の別荘へと、署名を済ませて立つ。ペン先が紙を引っかく音が、十二回。国庫は空で、帝国の軍は国境の橋の向こうだ。
紙には十二人の署名が並んでいた。いちばん下に空欄が一つ、その下には細かい字の一行。末席の椅子に座る私の足は、爪先しか床に届かない。
私はアンネッタ、二十歳、十三番目の末っ子。洗濯場なら、数え忘れられた手巾だ。なくなっても、誰も探さない一枚。けれど、ここで働く人たちを、給金も払わずに置いてはいけない。冠の縁にかけた指が震えた。金が冷たいせいだ。そういうことにして、私は顔を上げる。
「……本当に、いいのですか?」
私を覗き込み、コスタンツァお姉様は針のように細い体を折った。細く描いた眉が吊り上がる。高く結い上げた黒髪に手をやるお姉様の、すみれ色の目が細くなる。
「要らないって言ってるでしょう、おチビさん」
ぱん、と私は手を叩く。
「はい、決めました。いただきます」
いただきます、とは。食卓の挨拶ではないか。頬が熱い。けれど、もう口にした言葉だ。王冠を手元へ引くと、長兄の口が開く。
「……は?」
卓に残る長兄の手が止まった。淡い青の目で私を見下ろし、長兄は声を張る。
「お前に、何ができる? 王冠をかぶれば、城の者が養ってくれると思っているのか? 甘えるのもいい加減にしろ!」
「洗濯と、芋の皮むきと、帳簿の読み方なら」
手袋で口元を打って、お姉様が笑い出す。
「帳簿ですって? ほほ。厨房の買い物を国のお仕事と一緒にするなんて、ずいぶん立派な女王さまね」
「ありがとうございます、お姉様。買い物でも、払うお金と品物は確かめますので。まずは、城で働いた方の給金を払います。働いた手を、空のまま帰したくありません」
お姉様の手袋が、口元で止まった。
「給金ですって? 王冠をもらって、考えるのが使用人の給金なの? おチビさん、喜ぶところを間違えているわよ」
「私が冠をかぶっても、皆さんのお腹は膨れませんので。お姉様も、王冠をお召し上がりにはならないでしょう?」
長兄が吐き捨てる。
「勝手にしろ。沈む船の舵だ。私を呼んでも助けには戻らんぞ。泣きついても無駄だからな」
「承知いたしました。王冠は私がお預かりします。お兄様方の荷物には入れませんので、ご安心くださいませ」
にこやかに頭を下げると、長兄の顔が赤くなる。
「この……! お前が、王の真似事か? ずいぶん偉くなったものだな!」
「真似事ではございません。今朝から、本物になりましたので。皆様の署名も、きちんと頂戴しております」
お姉様が肩をすくめる。
「放っておきなさいな、お兄様。三日もすれば、泣いて手紙を寄越すわよ。もう、付き合いきれないわ」
恰幅のいい長兄が肩をそびやかして出ていき、兄姉が続いた。宮内卿の指輪の手が伸びる前に、私は放棄書を畳んで袖へしまう。空いた椅子は十二脚。袖の中では、紙の角が手首に当たっている。
戴冠式に来たのは使用人だけだった。
昼過ぎの礼拝堂。大神官は病だと言い、貴族も来ない。洗濯場の女官長ジョコンダ、門番の老兵、厨房の料理長、侍女と洗濯女たちが、蝋燭の匂いの中に並ぶ。皆、仕事の途中で抜けてきた手をしている。
父王の王冠を試すと、目の上までずり落ちた。重さは濡れた敷布二枚ぶん。手巾を一枚、四つに畳んで内側に詰め、私の蜂蜜色の癖っ毛を撫でつける女官長。
「じっとしててくださいよ。冠のほうを合わせればいいんです。姫さま――いえ、陛下。頭の大きさまで、冠に合わせることはありませんからね」
今度は額で止まった。磨いた金に、若葉色の目をした私が小さく映る。詰めてもらった布に触れて、私は笑う。
「この手巾、私も畳みました。洗濯場の仕事が、こんなところで役に立つものなのですね。おかげで、皆さんのお顔もちゃんと見えます」
「そりゃあ、陛下の手で畳んだものですから。頭に当たって痛いところは、あたしに言ってくださいよ。冠に遠慮なんか要りませんよ」
前掛けを外してきた料理長が腰を折った。
「今夜は芋の煮込みにしときますよ。厨房で召し上がっても結構です。陛下の椅子は、いつものところにありますから」
「では、あの椅子も取っておいてくださいませ。こちらの冠を外したら、皮むきのお手伝いに参ります。……いつものところ、ですね。安心しました」
冠を外しても、私の席がある。袖を直してくれる手も、小さい頃から同じだ。折り目を指で伸ばして、侍女が頭を下げた。
「陛下のお支度は、私どもにお任せください」
「ありがとうございます。皆さんが来てくださって、……よかったです。冠が落ちても、拾う方がいてくださいますから」
声の終わりが、少しだけ揺れる。皆が私のために集まったのは、生まれて初めてだった。俯けば冠が落ちるので、私は顔を上げている。礼拝堂の冷たい石の床で、足の裏だけが温かい。冠を支える指に、洗いたての布の匂いが残る。
本日の国の様子。国庫は空、軍は門番ひとりと剣を抜いたことのない衛兵が少し、兄姉は全員ご退場、女王は私。城で仕事のできる人は知っている。洗濯場、門、厨房。それから、地下牢のいちばん奥にも。
◇
夜の地下牢へ、私は厨房でもらった砂糖菓子を持っていった。燭台の灯りが、奥の房の格子を照らす。湿った石の匂いは、子どもの頃と少しも変わらない。
六つから十六まで、厨房の娘について食事を運び、死刑囚とカードで遊んだ。賭ける品は砂糖菓子。帳簿の読み方も、ここで習った。
〈帳簿は、国の日記じゃ〉
そう教えたボニファチオは九十で、前々王の宰相だ。三十年前、父王の借金に逆らって死刑を言い渡され、刑は延び続けている。
藁の上から起き上がると、鳥の巣のような白髪から藁がこぼれた。よく動く黒い目が、冠を通り越して私の砂糖菓子へ走る。骨と皮ばかりの手で格子を握り、ボニファチオは口を開く。
「王が死んだそうじゃな。牢番が言うておった。兄姉も逃げたと聞いたぞ。小娘の靴音だけは、まだ覚えとるわい」
「はい。兄も姉も、今朝みんな逃げました。私の靴は同じですけれど、頭の上だけ少々重いのです。……笑うのでしたら、お手柔らかにお願いします」
「ひゃっひゃ。それで、余りものの小娘が冠をかぶってきたか。傾いとるぞ。そっちの耳まで王にしたいのか?」
私は王冠を指で押し上げた。
「ぶかぶかです。手巾を詰めてもらいました。耳まで任せるわけにはいきません。まず私が、使い方を覚えませんと。笑っていないで、傾いていたら教えてくださいませ」
格子越しに顔を寄せるボニファチオの、大きな鷲鼻の脇に笑い皺が寄る。
「丸い顔も、そのそばかすも減らんのう。燭台で照らしたところで同じじゃ。女王になると磨けるものではなかったか?」
「そばかすまで磨かれては困ります。帳簿を読むのに、今の顔で足りますでしょう? お菓子は持ってきました。三十年分には足りませんけれど、私の顔より、こちらをよく見てくださいませ」
包みを格子に載せると、ボニファチオは菓子へ伸ばしかけた指を止める。燭台の火が、ひとつ揺れた。
「女王が死刑囚に何の用だ」
国でいちばんの切れ者が三十年ここにいる。父が聞かなかった声を、私は聞く。菓子から上がった黒い目を見て、王冠から手を離す。
「宰相を、お願いしに来ました」




