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9.音もなく砕けた

ヴェルダが落ちた、という報せが届いたのは、夜だった。



アシュリードは自室にいた。


窓の外に、城下の明かりが見える。

いつもと変わらない夜だった。

なのに、従者のレインが持ってきた一枚の報告書が、その夜を闇の世界へ変えた。


見間違えではないかと、何度も読み返した。

しかし、何度読んでも書かれている文字は変わらない。



===============

ヴェルダ王室、壊滅。

王族、処刑。

===============



持っていた報告書が、床へ落ちる。

何かが音もなく砕けた。



思い返せば、兆候はあった。

叔父が、突然家庭教師をやめることとなり城を追い出され、定期的に参加していたヴェルダへの会議もある日を境に行かなくなった。


父が何度も、会議だと言ってヴェルダへ足を運び、アシュリードも同行した。


あの庭で、リリーと出会い、花をもらった。

笑顔をもらった。


父がなぜヴェルダへ行っていたのか、何をしようとしていたのか、アシュリードは知らなかった。



いや——知ろうとしなかった。



父の政策に疑問を持ち始めていたが向き合うのが怖くて、ヘラヘラと笑いながら、何も見ないふりをしていた。

後継ぎとしての責任から目を背けて、ただ日々を過ごしていた。



自分のせいだという考えが、頭の中でぐるぐると回った。



「殿下」

レインの声がしたが、アシュリードは顔を上げなかった。


「お一人にしましょうか」


「いい、いてくれ」



レインは何も言わず、ただ、部屋の隅に静かに立っていた。

ただ誰かがそこにいてくれれば、それでよかった。



翌朝、アシュリードは父に呼ばれた。

謁見の間に入ると、父は玉座に座っていた。



「ヴェルダの件は聞いたか」

「はい」

「これで大陸の均衡が変わる」と父は言った。

「帝国の未来のために必要なことだ」


アシュリードは何も言わなかった。



必要なこと。

その言葉が、喉のあたりに引っかかった。


あの庭の花が、あの笑顔が、帝国の未来のために消えた。



父を見た。

ずっと尊敬していた人だった。

力強くて、迷いがなくて、いつも正しいと思っていた。

でも今、この人のことが、初めてわからなかった。



「わかりました」とアシュリードは一言告げ、頭を下げて、謁見の間を出た。



人目につかない場所まで来ると、崩れ落ちそうになる足を支えるように肩を壁に預け、ずるずるとしゃがみこんだ。


手で顔を覆い、声を出さずに泣いた。


思い出すのは、リリーと過ごした日々。



——ごめん



声を殺すように小さな声でつぶやいた。

このままではいられない。



それからのアシュリードは、変わった。


表向きは何も変わらなかった。

ヘラヘラと笑い、政務を避け、自由人を演じ続けた。

誰も気づかなかった。気づかせなかった。



でも仮面の裏側で、静かに動き始めていた。


誰にも見られないように剣術を磨き、勉学に励んだ。

国民の様子を確認するために、身分を隠し定期的に街へ出た。

反皇帝派の貴族と、少しずつ、慎重に接触した。


父の悪政を目の当たりにするたびに、決意は固まっていった。


旧ヴェルダの騎士団長と繋がりを持ったのは、準備を進めて数年が経った頃だった。

彼もまた、別の場所でアシュリードと同じ方向を向いていた。


手を組むのに時間はかからなかった。

誰にも言えなかった。誰にも頼れなかった。


笑いながら、一人で抱えて、それでも前へ進んだ。

それがアシュリードの、戦い方だった。



孤独と葛藤の中で、心のよりどころになっていたのは、叔父からの手紙だった。

城を追い出されてからも、変わらず手紙を送り続けてくれていた。


近況報告だけの、短い手紙。

でもその文字を見るたびに、アシュリードは少しだけ息ができた気がした。



ある日、手紙に小さな紙が同封されていた。

叔父が描いた、家族の絵だった。


叔父のヴィンセントと叔母のエレナが並んでいる。

その横に、女の子が描かれていた。


以前もらった手紙に養子を迎え入れたと書かれていたため、その子であろうと思ったが、アシュリードの視線がその女の子に釘付けとなる。



金色の髪。緑の瞳。

息が止まった。


絵を持つ指が震え、目が霞む。



「……生きていた」


誰もいない部屋で、アシュリードは声にならない声で呟いた。



ヴェルダ王室は壊滅したと聞いた。リリーは死んだと思っていた。

あの笑顔も、あの花も、もうこの世にないと思っていた。


あの日を境にアシュリードの世界はモノクロに変わり、誰が敵か味方か分からない中で、冷たさと孤独の中戦っていた。



なのに。生きていた。


アシュリードはしばらく、その絵を見つめていた。

誰にも言えない言葉を、胸の中だけで繰り返した。



——よかった。


目の奥が熱くなった。

それ以上はこらえられなくて、アシュリードは泣いた。

声も出さずに、ただただ涙だけが流れた。


どのくらいそうしていたかわからない。

でも、泣き終わった時、何かが変わっていた。


リリーが生きているという事実が、冷たかった世界に小さな光を灯した。

反乱を進めていたのは、自責と義務からだった。


でも、リリーが笑える国を作りたい。

民が笑顔で暮らせる国を。

あの庭のように、誰もが花をきれいだと思える場所を。


それが、自分の目指すべきものだと思った。



アシュリードは絵を丁寧に折り畳んで、毎日持ち歩いている包みに手紙を入れた。



リーゼからもらった押し花と一緒に。



会いたいが、今は会いに行けない。

今のアシュリードがリーゼに近づけば、彼女の存在が帝国に知られる危険がある。

守りたいなら、近づいてはいけない。


だから文通だけは続けよう。

叔父への手紙の中に、彼女へのことばを少しだけ忍ばせて。


それだけが、今できる唯一のことだった。



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