10.仮面の裏
今日も、完璧に演じられた。
謁見の間を出たアシュリードは、廊下を歩きながら小さく息を吐いた。
貴族たちの前では終始ヘラヘラと笑い、政務の話になると「難しいことは苦手で」と肩をすくめ、父の視線を軽やかにかわし続けた。
誰も気づいていない。
それでいい。気づかれてはいけない。
「お疲れ様です、殿下」
レインが後ろから追いついてきた。
書類を抱えて、いつも通りの真面目な顔をしている。
「疲れてなんかないさ」とアシュリードは言った。
「俺はただ笑っていただけだから」
「そうですね」とレインは言って、それ以上は何も言わなかった。
自室に戻ると、机の上に手紙が置いてあった。
叔父からだった。
アシュリードは上着を脱ぎながら封を開けた。
几帳面な文字が並んでいる。
近況報告、庭の花が咲いたこと、エレナが新しい刺繍を始めたこと
——そして。
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リーゼは今日、市場で値切り交渉に成功したと言って、鼻を高くしておりました。
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アシュリードは思わず、口元が緩んだ。
すぐに気づいて、手で口を覆った。
レインがいなくてよかった。
こんな顔を見られたら、何を言われるかわからない。
もう一度、その一文を読んだ。
値切り交渉。リリーが。
なんとなく、その場面が目に浮かんだ。
真剣な顔で、でも目はきらきらして、相手の商人が苦笑いしながら折れていく
——そういう場面が。
おかしくて、でも温かくて、それ以上は何なのかうまく言えなかった。
アシュリードは手紙を置いて、窓の外を見た。
ラクリアの空は、今日も灰色だった。
石造りの建物が整然と並んで、その間を軍服の兵士たちが歩いている。
笑っている人がいない。
声を上げている人がいない。
みんな、どこかを向いて、黙って歩いている。
ヴェルダの市場は違った。
色とりどりの布、野菜の山、魚の干物、晶石の欠片を飾った屋台。
人々が笑いながら話して、子どもが走り回って、どこかから歌が聞こえてきた。
あの国には、音があった。色があった。
だが、もうない。
アシュリードは視線を手紙に戻した。
返事を書こう、と思った。
当たり障りのない内容を、丁寧な文体で。
それがアシュリードにできる唯一のことだった。
でも——少しだけ。
ペンを取って、紙に向かった。
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叔父上、お便りありがとうございます。
リーゼ殿の値切り交渉の件、思わず笑ってしまいました。
次はどんな武勇伝を聞かせていただけるか、楽しみにしております。
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書いてから、読み返した。
楽しみにしております、か。
それは本当のことだった。
この手紙が届く日が、今のアシュリードにとって唯一、仮面を外せる瞬間だった。
謁見の間でも、貴族たちの前でも、父の前でさえも、アシュリードは常に何かを演じていた。
でもこの手紙だけは違った。
誰も見ていない部屋で、ただ自分でいられた。
リリーが元気でいることを、知ることができた。
それだけで十分だった。
毎日持ち歩いている包みを取り出す。
丁寧に折り畳まれたヴィンセントの家族の絵と、その下に、小さな紙に包まれた押し花。
手のひらに乗せると、薄く透き通った白い花びらが見えた。
持っていて、と言った声を思い出した。
まっすぐな目で、迷いなく差し出した小さな手を。
「……ちゃんと今も持ってるよ」
誰もいない部屋で、アシュリードは小さく言った。
押し花を包みに戻して、胸のポケットへしまう。
ペンを持ち直して、手紙の続きを書いた。
窓の外では、夜が深まっていた。




