8.根を張る
花の世話は、思っていたより難しかった。
水をやりすぎると根が腐る。
やらなさすぎると枯れる。
日当たりの強すぎる場所に置くと葉が焼ける。
日が当たらないと花が開かない。
ちょうどいいがどこにあるのか、最初はさっぱりわからなかった。
「ヴィンセント様、これはどのくらい水をあげたらいいの?」
「その子はあまり水を好まない。週に二度くらいでいい」
「この子は?」
「それは逆だ。土が乾いたらすぐにやっていい」
ヴィンセントは花に詳しいわけではなかった。
でもリーゼが何かを聞くたびに、どこかで調べたのか、次の日には答えを持ってきてくれた。
リーゼは、それが嬉しかった。
リーゼは毎朝、庭に出るようになった。
花壇を一周して、土の乾き具合を確かめて、水をやって、枯れた葉を摘む。
最初は何をしていいのかよくわからなかったけれど、少しずつ、花の様子が読めるようになってきた。
この子は今日元気がない。
この子は昨日より色が鮮やかだ。
この子はもうすぐ咲きそうだ。
そういうことが、わかるようになった。
エレナは刺繍を教えてくれた。
針に糸を通して、布の上に花の模様を縫っていく。
最初はうまく針が動かなくて、指に刺してばかりだった。
「痛いっ」
「あらあら、大丈夫?最初はみんなそうよ」とエレナは笑った。
「わたしも最初はケガをしてたわ」
「エレナ様も?」
「そう。ヴィンセントに笑われたくなくて、こっそり練習したの」
リーゼはその話が好きだった。
エレナが昔、こっそり練習していた場面を想像すると、なんだかおかしくて、温かい気持ちになった。
刺繍は少しずつ上手になった。
花の模様が、布の上に咲いていく。
針を動かしていると、余計なことを考えなくていい。
靄の向こうにある何かも、心の穴も、針と糸に集中している間は遠くなる気がした。
でも時々、手が止まった。
白い糸が、白い花びらに見える瞬間があった。
誰かに渡した気がする。
でも誰に、いつ——考えようとすると、また霧がかかった。
胸がきゅっと痛んで、リーゼは針を持ち直した。
ヴィンセントは、時々歴史の話をしてくれた。
夕食の後、書斎に呼ばれて、本を広げながら話を聞く。
大陸の地図、いくつかの国の成り立ち、昔の王様の話。
リーゼは本を読むのが好きで、その時間が楽しかった。
ある夜、ヴィンセントが地図を指さしながら言った。
「ここがヴェルダ王国だ。緑の豊かな、小さな国でな」
その名前を聞いた瞬間、不思議な気持ちになった。
「……ヴェルダ」
リーゼは無意識に繰り返していた。
聞いたことがある。
どこかで、確かに聞いたことがある。
でもどこで、誰から——靄が濃くなって、それ以上は思い出せなかった。
「知っているか?」とヴィンセントが聞いた。
リーゼは首を横に振った。
「知らない、と思う。でも……なんか」
「なんか?」
「懐かしい、気がする」
その夜、リーゼはなかなか眠れなかった。
ヴェルダ、という言葉が頭の中でぐるぐると回った。
知らないはずなのに、懐かしい。
懐かしいはずなのに、何も思い出せない。
何かを掴もうとするたびに、霧がかかって消えていく。
泣きたいわけじゃない。悲しいわけでもない。
ただ、何かが遠くにあって、手が届かない。
それだけがわかった。
リーゼは目を閉じた。
もう一度、ヴェルダという言葉を心の中で繰り返した。
やっぱり、何も思い出せなかった。
春が来て、夏が来て、また冬が来た。
リーゼはヴィンセント邸での暮らしに慣れた。
朝は花壇の世話をして、昼はエレナと刺繍をして、夕方はヴィンセントの書斎で本を読む。
そういう日々が積み重なっていった。
ある朝、花壇の前にしゃがんでいると、ヴィンセントが隣に来た。
「リーゼ」
「なに?」
「花は構いすぎると弱ることがある」とヴィンセントは言った。
「少し待ってやるのも、育てるということだ」
リーゼはその言葉を聞いて、少し考えた。
「……ヴィンセント様も、わたしをそうやって育てているの?」
ヴィンセントが困ったような顔をした。
それからやわらかく笑った。
「さあな」
でもその笑い方が、答えだとリーゼは思った。
花壇の白い花が、風に揺れていた。
根はもう、土の中にしっかりと張っているはずだった。
引っ張ってもそう簡単には抜けないくらい、深く、静かに。
リーゼも、少しずつ、ここに根を張り始めていた。




