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7.知らない天井

最初に感じたのは、温かさだった。



やわらかい何かに包まれている。

ここは、川の中ではない。


リーゼはゆっくりと目を開けた。


知らない天井だった。



白い、木の天井。

梁が一本、横に走っている。


どこかで小鳥が鳴いている。

カーテンの隙間から、やわらかい光が差し込んでいた。



体を起こそうとすると、肩が重く力が入らない。

ただ横になったまま、天井を見ていた。


ここはどこだろう。


考えようとすると、頭の中に靄がかかったようにぼんやりとした。

何かを思い出しかけて、すり抜けていく。


大切なことがあった気がするのに、それが何なのか、うまく掴めない。



扉が開いた。


入ってきたのは、明るい色の髪をした女の人だった。


リーゼは思わず、布団を少しだけ引き寄せた。

知らない人だ。ここがどこかも、この人が誰かも、わからない。

でも——その目は、不思議と怖くなかった。



リーゼが目を開けているのを見て、その人は少し驚いたような顔をしてから、すぐに微笑んだ。


「目が覚めたのね」


「……ここは」とリーゼは聞いたが、喉がかすれてうまく声が出せなかった。


女の人は優しい笑みを浮かべながら「安全なところよ」と教えてくれた。

それから、机に置かれたコップに水をついでリーゼへ差し出し、ベッドのそばの椅子に腰を下ろした。



「怖いことはないから、大丈夫」


大丈夫。

その言葉を聞いた瞬間、力が抜けたのを感じた。


リーゼは、コップの水をごくりと飲みながら何も言えなかった。

ただ、彼女のやわらかい瞳に安心感を覚えた。



「お名前を聞いてもいい?」と女の人が聞いた。



リーゼは少し考えた。

「……リーゼ」



「リーゼ」と女の人は繰り返した。

「素敵なお名前ね」


それから女の人は、自分はエレナという名前だと教えてくれた。



その日から、リーゼはその家で暮らすことになった。

エレナの夫は、ヴィンセントという名前で、背が高くて、細くて、いつも少し難しい顔をしているけれど、話しかけると穏やかに答えてくれた。



二人はリーゼに何も聞かなかった。

どこから来たのか、家族はどこにいるのか、何があったのか——

一切聞かなかった。


ただ、毎日ご飯を出してくれて、温かい布団を用意してくれて、体の具合を気にかけてくれた。



リーゼはぼんやりとした日々を過ごした。


お医者さまからは、記憶障害だと告げられた。

川に落ちた際に頭を打った衝撃からか、何かショックなことがあったからか理由は分からないが、名前以外何も思い出せなかった。


何かを思い出しかけると、頭の中が靄に包まれる。

大切なことがあった気がするのに、それが何なのか掴めない。



夢を見ることがあった。


温かい手の夢。

笑い声の夢。

でも目が覚めると、何の夢だったかわからなかった。


何かを思い出しそうになるたび、胸の奥がきゅっと痛んだ。


でも、その“何か”が掴めない。

指を伸ばすと、霧のようにすり抜けていく。

大切なものがそこにある気がするのに、形にならない。


ただ、目が覚めるたびに胸が苦しかった。

その苦しさが何なのか、リーゼにはわからなかった。



熱が下がってしばらく経った朝、エレナが部屋に入ってきた。


「今日は天気がいいから、外に出てみましょうか」


リーゼは頷いた。


エレナに手を引かれて庭に出ると、手入れされた花壇が並んでいて、色とりどりの花が咲いている。


リーゼは足を止めた。


花を見た瞬間、どくんと心臓が跳ねた。

靄の向こうに、何かがある。

でも手を伸ばすと、すり抜けていく。


白い花びら。

誰かの笑い声。

温かい手の感触——。


ぎゅっと胸が痛んで、リーゼは息をのんだ。

でも次の瞬間には、もう消えていた。

何だったのか、わからなかった。

ただ、花を見ると胸が痛くなることだけは、確かだった。



「どうした?」

振り返ると、ヴィンセントが傍に立っていた。


「……お花が、きれいだと思って」


ヴィンセントは少し目を細めた。

「実は、俺は花を枯らしてばかりでな」と照れたよう話した。


「よかったら、花の世話を手伝ってくれないか」


リーゼはその言葉を聞いて、懐かしい気がした。


「……うん」


リーゼは小さく頷いた。


ヴィンセントが少し驚いたような顔をして、それからやわらかく笑った。

リーゼはその笑顔を見て、初めて少しだけ、息がしやすくなった気がした。



その夜、リーゼはベッドの中で天井を見ていた。


私はなぜここにいるんだろう。

考えようとすると、頭が痛くなった。靄が濃くなって、何も見えなくなる。


ただ、心にぽっかり穴が開いているような感覚だけが、確かにあった。

何かが、たくさん、なくなってしまったような。


それが何なのか、思い出せないのに、なくなってしまったことだけはわかる。


リーゼは目を閉じた。


エレナの声が、やわらかかった。

ヴィンセントの笑顔が、温かかった。

花の香りが、懐かしかった。


ここにいていいのかな、とリーゼは思った。

答えはまだわからなかった。


でも今夜だけは、この温かさの中で眠ろうと思った。




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