6.砲声の夜
その夜、リーゼは夢を見ていた。
庭で花を摘む夢だった。
白薔薇が咲いていて、風が吹いていて、どこかから笑い声が聞こえる。
手を伸ばすと花びらがふわりと舞い上がって——。
轟音が、夢を引き裂いた。
リーゼは目を覚ました。天井が見える。自分の部屋だ。
でも何かがおかしい。
何の音だろう。雷……?
違う。雷はもっと遠くで鳴る。空の上で響く。
でも今の音は、もっと近い。もっと重い。
まるで地面の下から突き上げてくるみたいな、知らない音。
聞いたことのない音だった。
もう一度、轟音がした。今度は近かった。壁が小さく揺れた。
赤い、とリーゼは思った。
外が赤い。でも、どうして。
夕焼けじゃない。夜なのに、空が赤い。
赤い光がゆらゆらしていて、まるで空そのものが燃えているみたいだった。
でも何が燃えているのか、どこが燃えているのか、考えようとすると頭がうまく動かなかった。
何が起きているのかわからなかった。
ただ、逃げなければ、と思った。
その時、扉が勢いよく開いた。
「リーゼ様!」
ソレアだった。
いつも丁寧に結い上げている亜麻色の髪が乱れている。
顔が青白い。手が震えている。
リーゼはソレアの顔を見て、もっと怖くなった。
ソレアはいつも落ち着いていて、どんな時も慌てない人だった。
そのソレアが、こんなふうに息を切らして、髪を乱して、震えている。
それだけで、何かとても大変なことが起きているとわかった。
でも何が起きているのか、リーゼにはまだわからなかった。
わからないことが、もっと怖かった。
「ソレア、何が——」
「声を出してはいけません」
ソレアがリーゼの手を力強く掴んだ。
こんなに強く握られたことは、一度もなかった。
「急いでください。今すぐ」
リーゼはベッドから飛び降りた。
裸足のまま廊下へ出ると、遠くから怒号が聞こえた。
廊下を走りながら、リーゼは囁いた。
「お父様、お母様は?エルドお兄様は?カイルは?」
ソレアは答えなかった。
答えない、ということが、答えだった。
リーゼは何も言えなくなった。
ソレアの手だけをぎゅっと握って、ただ走った。
城の中はひどく混乱していた。
廊下のあちこちに煙が漂い、どこかで火の粉が散っている。
窓の外では赤い光が揺れていた。
城下が燃えている。
リーゼの知っている色がそこにない。
市場の布の色も、晶石祭りの燭台の色も、みんな赤に塗り替えられていた。
ソレアが壁の一部に手を触れると低い音がして、石の扉が現れた。
「隠し通路です。ここから行きます」とソレアが言った。
「どこへ?」
「とにかく外へ。城の外まで出れば——」
話の途中で、足音が聞こえた。
遠くではない。
廊下の向こうから、重い靴底が石畳を叩く複数の音。
ソレアがリーゼの背中を押した。
「早く、中へ!!」
暗い通路に入ると、石の扉が音もなく閉まり真っ暗になった。
ソレアが小さな燭台に火をつける。
揺れる光の中で、ソレアの顔が浮かび上がった。
泣いていた。
声も出さずに、ただ涙だけが流れていた。
それを見て、リーゼの胸がずきりと痛んだ。
ソレアが泣くのを、今まで一度も見たことがなかった。
「……ソレア」
「大丈夫です」とソレアは言った。
「大丈夫ですから、リーゼ様は前を見ていてください」
リーゼは頷いた。
前を見た。
暗い通路がどこまでも続いていた。
どのくらい歩いたかわからなかった。
通路は何度も曲がり、石の階段を降り、また曲がった。
足の裏が冷たくて痛かったが、リーゼは止まらなかった。
止まってはいけない気がしたからだ。
やがて木の扉が見えた。
ソレアが扉を開けると、夜の風が流れ込んできた。
そこは、外だった。
城壁の外、小道のそば。遠くに川の音がした。
「ここから走ってください。川沿いの道を下れば——」
「一緒に行かないの?」
ソレアははっとしたような顔をして膝をつき、リーゼと目線を合わせて、両手で頬を包んだ。
温かい手だった。
さっきから震えているのに、リーゼの頬に触れる手だけは温かかった。
「わたしはここに残ります」
「どうして」
「わたしが、少しだけ時間を稼ぎます」
リーゼにはその意味が全部はわからなかった。
でも、ソレアが自分を守るために残るのだということは、わかった。
「ソレア——」
「泣かないで、リーゼ様」とソレアは言った。
笑おうとしていた。
うまくはできていなかったけれど、笑おうとしていた。
「泣いたら、見つかってしまいます」
リーゼは唇を噛んだ。
「わたしのことは忘れてもいい」
「でも——生きてください。どうか、生きてください」
その言葉を最後に、扉が閉まった。
リーゼはその瞬間走った。
泣かなかった。泣いたら、見つかってしまうから。
でも目の奥が熱くて、喉が痛くて、足が震えて、それでも走った。
川の音がだんだん大きくなる。
木々の間を抜けると、月明かりの中に川面が光った。
足元の石が濡れていた。
滑った!と思った時には、もう遅かった。
体が傾いて、手が空を掴んで——冷たい水が全身を包んだ。
息ができない。水の中で体が回る。上がどこかわからない。
暗い、暗い水の底に、光の粒が見えた。
晶石みたい、とリーゼは思った。
きれい——。
そこから先は、何も覚えていない。




