5.持っていて
アシュリードがヴェルダへ来るようになって、何度か季節が変わっていた。
侍女のソレアから「お客様がいらしています」と聞いた瞬間、リーゼの足はもう動いていた。
「リーゼ様、お支度を——」
「あとで!」
ソレアの声を背中で聞きながら、廊下を走る。
庭への扉を開けると、風が一度に押し寄せてきた。
噴水のそばのベンチに、銀色の髪が見えた。
「アシュ!」
呼ぶと、男の子がこちらを向き、少しだけ柔らかい顔になった。
「……リリー、来たのか」
「来たよ」とリーゼは言って、ベンチの隣に腰を下ろした。
アシュリードが最初に庭へ来ることは、リーゼにはわかっていた。
いつもそうだから。
アシュリードは最初、リリーと呼ぶことに抵抗があったようだが、今は自然と愛称で呼んでくれている。
アシュリードは、ヴェルダで会議が行われる時は必ず庭に寄ってくれるようになっていた。
そしてリーゼも、アシュリードが来たと聞くと庭へ足を運ぶ。
いつからかそれが当たり前になっていた。
二人でしばらく噴水を眺めた。
水面が風に揺れるたび、光の粒が散る。
「アシュ、元気ない?」とリーゼが聞くと、アシュリードがぽつりと口を開いた。
「先生が辞めることになった」
「……先生?」
「家庭教師だ。俺の叔父にあたる人で、ずっと勉強を教えてもらっていた。でも、急にやめることになった」
リーゼにはその人がどんな人なのかわからなかったが、アシュリードにとって大切な人なのだということは、その声の低さでわかった。
「なんで辞めるの?」
「わからない。父が、そう決めたらしい」
それだけ言って、黙った。
それから少し間を置いて、「今日が最後の、会議らしい」と続けた。
「最後?」
「父がそう言っていた。今日で終わりだって」
リーゼはその言葉の意味をゆっくりと考えた。
最後。
今日で終わり。それはつまり——。
「じゃあ、もうここへは来ないの?」
アシュリードは噴水の方を向いたまま、何も言わなかった。
その沈黙が、答えだった。
胸のどこかが、きゅっと痛くなった。
うまく言葉にできない感覚だった。
悲しいのとも違う。寂しいのとも少し違う。
ただ、この人がもう来なくなると思うと、何かが締め付けられるような気がした。
「……そっか」
それだけしか言えなかった。
二人でまた黙って噴水を見ていた。
風が吹くたびに花の香りがして、どこかで鳥が鳴いていた。
いつもと同じ庭なのに、今日はなんだか全部が惜しい気がした。
しばらくして、リーゼは立ち上がった。
「待ってて」
「どこへ行く」
「すぐ戻る」
アシュリードが何か言う前に、リーゼは庭を駆け出していた。
部屋へ戻ると、引き出しの一番奥に手を伸ばした。
小さな紙に包まれた押し花。
白薔薇の花びらを丁寧に挟んで、何日もかけて乾かしたもの。
大切にしていたから、誰にもあげていなかった。
でも、アシュリードに持っていてほしいと思った。
リーゼは押し花を手に、もう一度庭へ走った。
アシュリードは、ベンチで待ってくれていて、リーゼが走って戻ってくるのを見て、少し目を丸くした。
「慌てなくていい、落ち着いて」
「押し花!」と、リーゼは息の上がった呼吸を整えながら手のひらを差し出した。
「白薔薇。自分で作ったの」
アシュリードがそれを見た。
薄く透き通った白い花びらが、紙の上に静かに乗っている。
「……なんで」
「持っていて」
リーゼはまっすぐに言った。
「ここに来られなくても、これを見たら——」
言いかけて、止まった。
その先の言葉が、うまく出てこなかった。
ここを思い出してとか、わたしのことを思い出してとか、そういうことを言いたかったのかもしれない。
でも言葉にすると何か違う気がして、リーゼはただ「持っていて」と繰り返した。
アシュリードはしばらく押し花を見ていた。
それからゆっくりと手を伸ばして、そっと受け取った。
大切なものを扱うみたいに、そっと。
「……わかった」
小さな声だった。
リーゼから押し花を受け取ると、胸のポケットにしまった。
「……アシュ」
リーゼが小さな声で呼んだ。
「まだ続きがあるよ」
アシュリードが横目でリーゼを見る。
「続き?」
「花の名前。まだ全部じゃないよ」
リーゼは花壇の方を指さした。
「あそこに咲いてるの、見える?あれは——」
「……また今度でいい」
アシュリードが静かに言った。
リーゼは、どうにかしてアシュリードを繋ぎ留めたかったのかもしれない。
でも、『また今度』という言葉に、思わず目を丸くした。
「今度……来られるの?」
アシュリードは答えなかった。
ただ、噴水の水面を見つめたまま、胸のポケットに触れた。
その仕草が、言葉よりもはっきりと答えを示していた。
「……そっか」
リーゼは小さく息を吸った。
「じゃあ、覚えててね。白薔薇のことも、レンギョウのことも、スミレのことも。全部じゃなくていいから……少しだけでも」
アシュリードはゆっくりと頷いた。
「……覚えてる」
風が吹いて、花壇の花が揺れた。
白薔薇の花びらが一枚、ふわりと舞い上がり、二人の間を通り抜けていく。
「アシュ」
リーゼはもう一度呼んだ。
「また……会いに来てくれる?」
アシュリードは少しだけ目を伏せた。
そして、ほんの一瞬だけ、昨日よりもずっと柔らかい笑みを浮かべた。
「……わからない」
「でも、リーゼと過ごす時間が一番好きだよ」
その日の夕方、アシュリードはラクリア帝国へ帰って行った。
リーゼは窓から、馬車が遠ざかっていくのをずっと見ていた。
銀色の髪は、もう見えなかった。




