4.止まない方がいい、と彼は言った
ラクリアの使節団が城を訪れるようになってから、しばらく経っていた。
銀髪の少年は、リーゼを見つけるといつも少しだけ足を止めた。
その日は、朝から空が重かった。
灰色の雲が低く、風もいつもより湿っている。
雨が降りそうな天気だったが、リーゼは庭に出た。
花壇を一周して、土の乾き具合を確かめていると、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
頬に当たった雨粒は、思ったより冷たかった。
「あっちへ」
振り返ると、いつの間にか庭に来ていたらしいアシュリードが東屋の方を指さした。
リーゼは頷いて、二人で東屋へ駆け込んだ。
中に入った途端、雨が本降りになった。
屋根を叩く雨音が一気に広がって、庭が白く煙った。
少し離れたところでソレアも軒下に入るのが見えた。
二人はベンチに並んで腰を下ろし、雨に煙る庭をぼんやりと眺める。
風が吹くたびに花びらが揺れて、水滴が花壇に落ちる音が聞こえた。
「雨が止んだら、会議にもどらないと」
「やまなかったら?」
「それは困るけど、止まない方がいい」
リーゼはくすりと笑った。
アシュリードは笑わなかったけれど、口の端が少しだけ動いた気がした。
雨はなかなかやまなかった。
しばらく黙って並んでいると、庭の花たちが雨粒を受けて少しずつ頭を下げていくのが見えた。
白薔薇が、レンギョウが、スミレが、みんな雨の重さを体いっぱいに受けていた。
「ねえ、あの白いの何かわかる?」
リーゼが花壇の方を指さすと、アシュリードが目を細めて見た。
「……わからない」
「白薔薇っていうの」
「そうか」
「あの黄色いのはレンギョウ。春になると一番最初に咲くの。冬がまだ終わっていないうちから咲き始めるから、すごく強い花」
アシュリードは黙って聞いていた。
「あっちの小さいのはスミレ。踏まれても咲くって、ソレアが言ってた」
「踏まれても?」
「うん、すごいよね」
アシュリードはリーゼを横目で見た。
何も言わなかったが、また口の端が動いた。
「アシュの国にも花は咲くの?」
「咲く。ただ……あまり見ていなかった」
「どうして?」
少しの間があった。
「きれいだと思う余裕が、なかったのかもしれない」
その言葉が、リーゼには少し大人びて聞こえた。
八歳の男の子が言う言葉にしては、どこか遠くから来たような響きがあった。
リーゼは花壇を見たまま、ゆっくりと言った。
「花はね、見てあげると嬉しそうにするの。気のせいかもしれないけど」
「花が?」
「うん。ちゃんと見てあげると、次の日もっと元気に咲く気がする」
アシュリードはしばらく黙って花壇を見ていた。
「そうか」と、今度は少し軟らかい声でつぶやいた。
雨が小降りになってきた頃、リーゼはふと気になっていたことを聞いた。
「ねえ、アシュってなんで大人の人と話す時だけ笑うの?」
「……どういう意味だ」
「大人の人と話す時は、ずっと笑ってる。でも庭に来た時は、あまり笑わない」
アシュリードは少し考えた後、「自分ではよくわからない」と答えた。
リーゼはその答えを聞いて、少し考えた。
自分でもわからない、というのはどういうことだろう。
自分の顔なのに、自分でわからないなんて、なんだか寂しい気がした。
「こっちの顔の方が好きだな」
アシュリードは、黙っていたが耳が少しだけ赤くなっていた。
雨が上がると、庭の花たちがいっせいに顔を上げた。
水滴をまとった花びらが、雲の切れ間から差し込んだ光の中できらきらと輝いていた。
さっきまで頭を下げていた白薔薇が、また真っ直ぐに咲いている。
踏まれても咲くスミレが、雨粒を弾いて光っている。
アシュリードはその光景を、少しの間だけじっと見ていた。
「また来た時、続きを教えてくれ」
「続き?」
「花の名前。全部は覚えられないから、少しずつ」
リーゼは少し驚いてアシュリードを見た。
アシュリードは庭の方を向いたまま、こちらを見なかった。
「うん、全部教えてあげる」
「約束だ」そういったアシュリードは、柔らかい笑顔をしていた。




