3.花をあげた日
その日、いつもと違う空気が流れていた。
朝から城の中がどこか慌ただしい。
侍女たちが小声で何かを話していて、廊下を行き来する足音がいつもより多い。
リーゼが母の部屋へ向かおうとすると、ソレアに止められた。
「今日は、お客様がいらしています。大切なお話をされているから、今日は庭で遊んでいましょう」
リーゼには、その「大切なお話」が何なのかわからなかったが、ソレアの声がいつもより少しだけ固い気がして、それ以上は聞かなかった。
庭に出ると、昨日の白薔薇がまだ咲いていた。
他にも様々な花が咲いており、リーゼはその前にしゃがみ込んで、花を摘み始めた。
この花は、お母様のお部屋に飾って、こっちのお花はカイルにあげよう。
そんなことを考えながら花を摘んでいると、どこかから視線を感じた。
その視線の先を見つめると、噴水のそばのベンチに誰かが座っているのが見えた。
男の子だった。
リーゼより年上で、もう少し大きい。
銀色の髪が、光の中できらりと光っている。
膝の上に両手を置いて、ボーっとこちらを見つめていた。
ソレアがそっとリーゼの肩に手を置いた。
「お客様のお連れの方ですよ。ご挨拶しましょう」と耳元で囁く。
リーゼはベンチへ近づくと、男の子と目が合う。
青い瞳だった。
大きくて、澄んでいて、でも今はどこか曇っているような。
リーゼは立ち止まった。
何か言わなければと思った。でも何を言えばいいかわからない。
ソレアに「ご挨拶を」と言われたけれど、挨拶よりも先に気になることがあった。
——この人、悲しい顔をしている。
泣いているわけではない。
表情を崩しているわけでもない。ただ、なんとなく、そう感じた。
うまく言葉にできないけれど、この人の目の色が、悲しい色をしている気がした。
悲しい時、自分はどうしてほしいだろう。
母に抱きしめてもらう。
エルドに頭を撫でてもらう。
カイルの笑顔を見る——でもそれは自分だから。
この人には、何がいいだろう。
ふと、手の中の花に目が止まった。
さっき摘んだばかりの花。
お母さまやカイルにあげようと思って持っていた。
リーゼはそれを、男の子に差し出した。
「どうぞ」
男の子が、差し出される花とリーゼの顔を、交互に見た。
「……何で」
「きれいだから。きれいなものを見ると、元気が出るから」
男の子は何も言わなかった。
しばらくの間、花をただ見ていた。
それからゆっくりと手を伸ばして、そっと受け取った。
「……ありがとう」
小さな声だった。でもちゃんと聞こえた。
リーゼはにっこりと笑った。
「リーゼ様、そろそろ中へ戻りましょう」とソレアが呼ぶ。
「はーい」とリーゼは答えて、男の子の方へもう一度向いた。
「またね」
男の子は何も言わなかった。
でも、さっきよりほんの少しだけ、目の色が柔らかくなった気がした。
そのころ、少し離れたところで、カイルが立っていた。
リーゼが男の子に花を渡すのを、じっと見ていた。
カイルは、なんだかむずむずして、嫌な気持ちになった。
姉が知らない誰かと笑っているのが、よくわからないけれど、好きじゃなかった。
「カイル来てたんだ」と戻ってきたリーゼに声をかけられたが、カイルはぷいと顔をそむけて、小さな足でとことこと花壇の方へ歩いていった。
まるで、姉を取られた気がして怒っているみたいに。
ソレアがくすりと笑ったが、リーゼは理由がわからず首をかしげた。
その夜、家族で夕食を取りながら、リーゼは父に聞いた。
「今日のお客様、誰だったの?」
父と母が一瞬だけ目を合わせた。
「隣国からいらしたお客様だよ」と父は言った。穏やかな声だったけれど、それ以上は教えてくれなかった。
リーゼは少し考えてから、スプーンを置いた。
「一緒に来てた男の子、悲しそうだったからお花をあげたの」
エルドが小さく噴き出した。
「花を?」
「だって悲しそうだったんだもの。きれいなものを見ると元気が出るでしょう」
母がやわらかく笑った。
「そう。それはよかったわね」
父は何も言わなかったが、少しだけ目を細めてリーゼのことを見ていた。
寝る前に、リーゼはベッドの中でぼんやりと考えた。
あの男の子は、お花をまだ持っているかな。
なんでそんなことが気になるのか、自分でもわからなかったが、あの青い瞳の男の子のことが気になった。
翌日、リーゼが庭に出ると、噴水のそばに昨日の男の子がいた。
銀色の髪が朝の光を受けてきらりと光る。
彼は膝の上に小さな包みを置き、じっとそれを見つめていた。
「……また来たの?」
リーゼが声をかけると、男の子は少しだけ肩を揺らしてこちらを向いた。
「……昨日の花、ありがとう」
その声は小さかったが、ちゃんと届いた。
男の子は膝の上の包みをそっと開いた。
中には、小さな丸い焼き菓子がいくつも並んでいた。
見たことのない形。甘い香りがふわりと漂う。
「帝国のお菓子だ。……好きかどうかは、わからないけど」
そう言って、ひとつを差し出してきた。
リーゼは目を丸くした。
「これ、アシュの国のお菓子?」
「……アシュ?」
「アシュリードっていうお名前でしょ?お父様に聞いたの。だから、アシュでいい?」
男の子は少し考えてから、小さく頷いた。
「……好きに呼べばいい」
リーゼは嬉しそうに笑い、差し出された焼き菓子を両手で受け取った。
ひと口かじると、ほろりと崩れて甘さが広がる。
「おいしい……!」
アシュリードはわずかに目を見開いた。
その反応が意外だったのか、ほんの少しだけ表情が柔らかくなる。
「よかった」
その一言は、昨日よりもずっと自然だった。
二人は噴水のそばに並んで座り、しばらく焼き菓子を食べながら庭を眺めた。
風が吹くたび、白い花びらがふわりと舞い上がる。
「アシュの国には、どんな花が咲くの?」
「……あまり見ていない」
「じゃあ、今度教えてあげる。ここの花のこと」
アシュリードは横目でリーゼを見た。
その瞳の色が、昨日より少しだけ明るく見えた。
その日、二人は名前を呼び合うようになった。
それからアシュリードは、ヴェルダへ来るたびにリーゼを探すようになった。




