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2.この時間がずっと続けばいいのに

春の朝は、花の匂いから始まる。


窓を開けると、庭から風が流れ込んだ。

白い花びらが一枚、ふわりと舞い込み、リーゼの手のひらに落ちる。


薄くて、やわらかくて、光に透かすと細い筋が浮かび上がる。


——きれい。


ヴェルダの朝は、いつもこんなふうに静かに始まる。

大河から運ばれる湿った風、石畳を濡らす朝露、どこかの家から漂うパンの焼ける匂い。

市場はまだ開いていないのに、もう人の声がする。

荷車の軋む音、誰かの笑い声。


リーゼは、この時間が好きだった。

世界がゆっくり目を覚ましていく、その瞬間が。


コンコン、と扉を叩く音。

侍女のソレアが顔を覗かせた。


「リーゼ様、おはようございます」


亜麻色の髪をきちんと結い上げた、落ち着いた雰囲気の侍女だ。

腕には今日の服が丁寧に抱えられている。


「朝のお支度の時間ですよ」


「はーい」


リーゼは駆け寄り、手のひらをそっと開いた。


「ねぇ、ソレア見て」


花びらを見せると、ソレアは優しく微笑んだ。


「着替えが済んだら、一緒に庭へ行きましょう。今朝は白薔薇が綺麗に咲いていましたよ」


その言葉に、リーゼはぱっと笑顔になった。



支度を終えて廊下に出ると、朝の光が床に長い影を落としていた。

窓の外に大河が見えた。

朝の光を受けて、川面がきらきらと揺れている。


——川底には晶石が眠っている。


父にそう聞いた時、リーゼは川の底を覗こうとして侍女たちに慌てて止められたことを思い出し、くすっと笑った。



「リーゼ、どこへ行くんだ」


声がした方を振り向くと、本を抱えた兄——エルドがリーゼに歩み寄ってきた。

リーゼより一回り年上で、最近は父の政務を手伝うことが多い。



「お庭に咲いた白薔薇を見に行くの」


「そうか」


エルドはリーゼの頭に手を置き、髪をくしゃっと撫でた。


「父上が今日、民議から戻ったら一緒に夕食を取れると言っていた。楽しみにしておけ」


リーゼは乱れた髪を整えながら、大きく頷いた。



庭に出ると、弟のカイルが庭で遊んでいた。

まだ三歳で、どこか危なっかしい。

リーゼは、転ばないように手を繋いだ。


「カイル、こっちだよ。お花、見に行こう」

カイルがリーゼを見上げて、にっこりと笑った。

その笑顔が可愛くて、リーゼもつられて笑った。


白薔薇は、庭の奥の花壇に咲いていた。

近づくと、甘い香りがふわりと漂ってくる。

白い花びらが幾重にも重なって、朝露で濡れた葉がキラキラと輝いていた。



「きれい……」

思わず声が出た。


ソレアが隣でくすりと笑う。


「リーゼ様はいつも、お花を見るとその顔になりますね」

「どんな顔?」

「世界で幸せそうな顔です」


リーゼはその言葉の意味を考えてから、もう一度白薔薇を見た。

そうかもしれない、と思った。


今朝部屋へ飛んできた花びらは押し花にしようと思った。

いつまでも取っておけるように。



夕食の時間になると、家の中に温かい匂いが満ちていた。

料理長が腕をふるったスープの香りが、廊下まで漂ってくる。


父——ヴァルデンが民議から戻ったのは日が暮れてからだった。

少し疲れた顔をしていたが、リーゼを見ると目を細めた。



「今日も庭にいたのか」

「白薔薇が咲いてたの。カイルと一緒に見たのよ」とリーゼは言った。


隣に座ったカイルが、嬉しそうに頷いた。

まだうまく言葉が出てこないけれど、その目がきらきらしていた。



エルドは書類を読みながらぶつぶつ言っている。


「父上、今日の民議ではどのようなお話が——」


「エルド、食事の席に書類を持ち込むな」


父がため息をつくと、エルドは渋々書類を閉じた。


「食事の後、今日の話をする時間を持とう。

民の声を聞くのが王の務めだ。お前も後継者として学べ」


エルドは静かに頷いた。

その横顔が、父に少し似ていた。


静かに家族の様子を見ていた母が、パンと手をたたく。


「さあ、料理長が丹精込めて作ってくれたお料理です。冷めないうちにいただきましょう」

その一言で、食卓に温かい空気が戻った。


父の話を聞きながら、母が笑う。

エルドが難しい顔で口を挟む。

カイルがリーゼの袖を引っ張って、おかわりをねだる。


いつもと同じ夕食だった。



夕食が終わり、リーゼがベッドに入ると、ソレアが一冊の本を持ってきた。


「今夜はこちらのお話にしましょうか」

「ヴェルダ伝記!」

「はい。リーゼ様がお好きな本です」


ソレアはリーゼの隣に腰を下ろして、本を開いた。



『むかし、ヴェルダの大河には精霊が宿っていました。

精霊は川の底の深いところに住んでいて、ふだんは誰の目にも見えません。


でも、王家の血を引く者だけは、その存在を感じることができました。

精霊は不思議な力を持っていました。

王家の血を引く者の瞳に、星のような紋様を映すことができたのです。


光の加減によって浮かび上がるその紋様は、まるで夜空の星が瞳の中に宿ったようで、とても美しかったといいます。


そして——精霊は約束をしていました。

紋様を持つ者がこの大地にいる限り、川は輝き続ける。


民の暮らしを支え、花を咲かせ、土を豊かにする。

でも、紋様を持つ者がこの地からいなくなった時——精霊は眠りにつく。

深い川底へと沈んでしまう。


だから、むかしの人々はこう言い伝えていました。

精霊が眠る時は、星が消えた時。

精霊が目を覚ます時は、星が戻ってきた時——と。』



ソレアが本を閉じた。

「ソレア、本当のお話なの?」


「さあ、どうでしょうか」ソレアは微笑んだ。


「ヴェルダの川には、晶石があるでしょ。精霊は守り神なのかな」


「そうですね。もしかしたら、そうなのかもしれませんね」


リーゼはしばらく考えてから、自分の目を触ってみた。



「わたしの瞳にも、星が宿っているの?」

「晶石の光が当たった時に見えると言われています」


リーゼは目を閉じた。

——そして、星が戻ってくるのを待っている精霊のことを、ぼんやりと夢に見た。



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