23.感情の名前
ヴィンセントの屋敷を出なければならない時間が近づいていた。
視察という名目で飛び出してきた以上、長居すれば怪しまれる。
それはわかっていた。
それでも——離れたくなかった。
アシュリードはリビングの窓から庭を見ていた。
リーゼが許してくれた。
ヴェルダの王女が、自分を許してくれた。
その言葉の重さを、まだうまく受け止めきれていなかった。
謝っても許されるとは思っていなかった。
謝る資格があるかどうかも、ずっとわからなかった。
それでも頭を下げた時、リーゼは「怒っています」と言った。
けれど次の瞬間、「もう一度あなたに会えてよかった」と言った。
その言葉を、アシュリードは何度も心の中で繰り返していた。
胸のポケットに手を当てる。
押し花の感触が指先に伝わる。
——会いたい。
声を聞きたい。
花の名前を教えてくれる時の、あの表情をずっと見ていたい。
笑っている時は同じ場所にいたい。
悲しんでいる時はそばにいたい。
ただ、そばにいたい。
好き、という言葉では足りなかった。
何と呼べばいいのかわからなかった。
胸が苦しいのに温かい——
きっとこれが、愛おしいということなのだろうと思った。
気づけば、足がリーゼの部屋へ向かっていた。
自分でも、いつ動き出したのかわからなかった。
ノックすると、「はい」という声がして扉が開いた。
リーゼが顔を出し、少し驚いたように目を丸くした。
「どうしたんですか」
「少しだけいいか」
リーゼは頷き、アシュリードを部屋へ招き入れた。
お茶の準備をしながら静かに言う。
「もう城に戻らないといけませんね」
「……ああ」
アシュリードはソファに腰を下ろし、言葉を探した。
反乱の準備のこと、ガルドのこと、ヴェルダのこれから——
話すべきことはいくらでもあった。
でも、口から出たのは別の言葉だった。
「リリー」
リーゼが振り返る。
アシュリードはその瞳をまっすぐに見た。
「好きだ」
短く、逃げ場のない言葉だった。
リーゼの目が大きく開かれた。
「ずっと、好きだった。
記憶がなくなっても、会えない時間も、全部通り越して——
今も、好きだ」
部屋が静まり返った。
お茶の準備をしていたリーゼの手が止まる。
アシュリードはその沈黙をただ待った。
急かしたくなかった。
急かしてはいけないと思った。
しばらくして、アシュリードは立ち上がった。
「今は、返事はいらない」
扉へ向かいながら、静かに続けた。
「ただ……伝えたかった。それだけだ」
手が扉にかかった瞬間——
「アシュ」
背中に声が届いた。
アシュリードは足を止めた。
振り返らなかった。
振り返れば、この気持ちが溢れてしまう気がした。
「……ありがとう」
たった一言だった。
それだけで、胸の奥がゆっくりと温かくなった。
アシュリードは扉を開けた。
口元が少しだけ緩む。
「ああ」
扉が閉まった。
廊下に出ると、外の空気がひんやりと頬を撫でた。
アシュリードはしばらくその場に立っていた。
胸の中で、何かが静かに落ち着いていくような感覚があった。
ずっと抱えていたものが、少しだけ軽くなった気がした。
言えてよかった、と思った。
答えが返ってこなくても、それでよかった。
伝えることができた。それだけで十分だった。
レインが廊下の端から近づいてきた。
「そろそろお時間です」
「わかった」
「顔色がよくなりましたね」
「そうか」
「はい。……珍しいほど」
アシュリードは小さく笑い、歩き始めた。
屋敷の玄関を出ると、夕暮れの光が石畳を橙色に染めていた。
馬の背に乗りながら、アシュリードは思った。
反乱の準備はまだ続く。
ガルドの監視は強まっている。
建国祭まで、時間はそう多くない。
やるべきことは山ほどある。
でも今夜だけは——
胸のポケットに手を当てながら——
この温かさを、そのまま持ち帰ろうと思った。
リーゼはしばらく、閉まった扉を見ていた。
お茶の準備をしていたカップがテーブルの上にある。
手を当てると、冷めていた。
湯気はもう立っていなかった。
好きだ。
その言葉が、まだ部屋の中に残っている気がした。
壁に染み込んで、空気に溶けて、でも消えないで——
どこかにある。
リーゼはゆっくりソファに腰を下ろした。
アシュリードのことを考えると、胸が苦しくなる。
でもその苦しさは嫌なものではなかった。
痛いのに温かくて、温かいのに切なくて、うまく言葉にできない感覚。
——これが、恋なのだろうか。
エレナが教えてくれた。
「好きな人に手紙を書くとき、誰だって言葉が出なくなる」と。
あの時は、そうかもしれないと思った。
でも今、胸の中にあるものは、手紙が書けなくなるよりずっと大きかった。
思い返してみると、アシュリードへの気持ちは今日突然芽生えたものではなかった。
文通が始まった頃から、返事が届くのを待ちわびていた。
丁寧な文字を見るたびに、胸が温かくなった。
名前も知らずに「好きだな」と思っていた。
そして記憶の底に、もっと古い何かがある気がした。
あの夜、「アシュ」と呼んだ。
意識が遠のく中で、その名前だけが自然に出てきた。
どうして知っていたのだろう。
どうしてあの名前が、一番先に出てきたのだろう。
靄の向こうに、まだ形にならない記憶がある。
でも今は、それを追いかけなくてもいい気がした。
今ここにある気持ちが、本物だとわかったから。
——わたしは、二度もこの人に恋をしていたのかもしれない。
その考えが、静かに胸の中へ落ちた。




