20.守ってもらうだけではいられない
書斎を出ると、廊下の空気は冷たかった。
ヴィンセントの「行って、しっかり話してこい」という声が、まだ耳の奥に残っている。
リーゼは一度だけ深く息を吸って、応接間へ続く扉に手をかけた。
扉を開けると、二人がいた。
窓際に立つアシュリードと、ソファに浅く腰掛けたカイル。
どちらも、リーゼが入ってきた瞬間に、はっとしたように視線を上げた。
「リーゼ」「姉上」
二人の声が、ほとんど同時に重なった。
アシュリードが、真っ先に近づいてきた。
「もう大丈夫なのか。顔色は……」
「無理はしていませんか」
カイルもソファから立ち上がり、心配そうにリーゼの顔を覗き込んでいる。
二人とも、さっきまでの張り詰めた空気をどこかに置いてきたように、ただリーゼの体を気にかけていた。
リーゼは、その様子に少しおかしくなって、小さく笑った。
「……ご心配をおかけしました」
そう言って、ゆっくりと頭を下げる。
「もう、平気です。少し、驚いただけで」
それでも二人の表情は、すぐには緩まなかった。
アシュリードはリーゼの顔色を確かめるように、しばらく黙って見つめていた。
カイルも、まだ何か言いたそうに口を開きかけて、結局何も言わずに視線を落とした。
リーゼはソファの空いている場所に、ゆっくりと腰を下ろした。
カイルとアシュリードの視線が、自然とそこへ集まる。
どちらの目にも、まだ心配の色が残っていた。
アシュリードが、少し離れた椅子に腰を下ろす。
窓際に立っていた時よりも、少しだけ近い距離だった。
カイルは、リーゼの隣に座り直したが、すぐには口を開かなかった。
ただ、横目でリーゼの様子をうかがっている。
「……本当に、大丈夫です」
リーゼがもう一度言うと、カイルがようやく小さく頷いた。
「無理はしないでください。倒れた姉上を見て、僕は——」
そこで言葉を止めて、視線を逸らした。
「……いえ、何でもありません」
アシュリードも、何かを言いかけたまま、口を閉じていた。
ただ、その目だけが、まだリーゼの様子を確かめるように動いていた。
部屋には、まだ言葉にならないものが漂っているようだった。
少しの沈黙のあと、リーゼは二人を見て、静かに口を開いた。
「カイル。これまで、どうしていたの」
カイルは少し黙ってから、ゆっくりと話し始めた。
城の外れの、小さな部屋。
ひとりひっそりと暮らしていたこと。
本だけが、唯一の楽しみだったこと。
「……あまり、覚えていることが多くないんです。気づいたら、そういう場所にいました」
リーゼは黙って聞いていた。
アシュリードも何も言わず耳を傾けていたが、その横顔にはわずかな痛みが浮かんでいた。
自分は花の咲く庭で、温かい家族に育てられていた。
その間、カイルはひとりで、冷たい部屋にいた。
「ごめんね」
思わず言葉がこぼれた。
「……なぜ姉上が謝るんですか」
「わたしだけ、知らないうちに幸せに育っていたから」
カイルはしばらくリーゼを見て、それから小さく首を振った。
「姉上のせいじゃありません。それに——」
一度言葉を切り、続けた。
「皇帝の後継ぎとして育てられて、僕は確かに恵まれていました。
誰にも殴られなかったし、教育も受けられた。
だから、姉上が思うような可哀想な話じゃないんです」
その声には、強がりではない落ち着きがあった。
「ただ……自分が何者なのか、ずっとわからなかった。それだけです」
リーゼは少し考えてから尋ねた。
「これから、どうしたいの」
カイルは、まっすぐにリーゼを見た。
「ヴェルダを取り戻します。そして姉上を守ります。
そのためにも、まずは、ジークと共に、皇帝の動きを探ります」
「危なくない?」
「危なくない、とは言えません。でも——」
カイルは一度、膝の上の手を握り直した。
「ずっと、自分が何のためにここにいるのか、わかりませんでした。
今は、わかります。姉上のためなら、僕はここにいる意味があります」
リーゼは何も言えなかった。
ただ、手を伸ばして、カイルの頭にそっと触れた。
カイルが、驚いたように目を見開く。
「……子供みたいに触らないでください」
「ごめん、つい」
リーゼは笑った。
でも、その手をすぐには離さなかった。
カイルも、それを拒まなかった。
その間、アシュリードは何も言わず、ただ二人の様子を見ていた。
口を挟むことはしなかったが、その目には、安堵にも似た色が浮かんでいた。
少しの沈黙の後、カイルが静かに言った。
「姉上。アシュリード兄上のことですが」
リーゼの手が止まる。
アシュリードの肩が、わずかに緊張するのがわかった。
「僕は、あの人を疑っていました。長い間」
廊下での、あの張り詰めた空気が脳裏に浮かぶ。
「でも、姉上を庇うように立った時の顔を見て、わかりました。
あの人は——少なくとも、僕たちの敵ではありません」
カイルは言葉を選びながら続けた。
「僕には記憶がなく、ラクリア国の教育も受けています。
姉上にどれぐらいの記憶があるのか分かりませんが、ラクリア国の第一王子としてではなく彼本人を見てほしいと思っています」
リーゼは、その言葉をゆっくりと噛みしめた。
アシュリードは、何も言わずにカイルを見ていた。
その表情には、驚きが浮かんでいた。
「……うん」
リーゼは小さく頷いた。
「カイル、ありがとう」
リーゼはアシュリードの方を向いた。
アシュリードは、一度深く息を吸ってから、口を開いた。
「順番に話す。逃げずに、全部話す」




